古びていたが、ずいぶん近頃起こった事のようにも思えた。話しているうちに霞んでいた細部が浮き上り、明確に情景が繋る。いつも会話を遮り質問攻めにする彼女が静かに耳を傾けている。 「今までたった一度も思い出さなかったことが不思議だけど…」 スプーンが食器に触れる音や擦れる音なんかがあった。彼女が砕くシリアルが軽快に響く。 どこかで読んだ、たしか英語の教科書に載っていた文章…。 皿の中を覗き込み話し始める。声はそこで途切れる。 ううん。 シリアルを噛みながら彼女は相槌を打つ。ぼくは黙って食事を続け、言葉を正確に思い出そうとする。スプーンを往復させる彼女が沈黙に向かって尋ねる。 「ねえ…」 彼女は手を止める。 「何を思い出したの?」 スプーンを止め彼女は少し落ち着きなく耳や何かを触れた。 「大地とはミルクに浮かんだコーンフレークのようなものである」 ぼくが言った。そしてスプーンを口に含む。鉄の味が広がる。 彼女は眉をしかめる。「それ、どういう意味かしら?」 「地震についての話。人々が感じている以上に陸地は不安定で脆いことの例えさ。たとえばここに浮かんでいるコーンフレークみたいに」 ぼくは皿の中の牛乳をスプーンでぐるぐると掻き混ぜる。渦の中で沈没しそうな筏なんかみたいに茶色の斑点がくるくると回る。わたしたちはそれを眺める。 「つまりこんな風にね」これが陸地ならほんとに参ってしまう。 「じゃあコーンフレークのような地面でわたしたちは生きているって訳ね?」 「その文章の作者によれば、そういうことみたいだ」 彼女の目が何度か瞬いた。「それって、ちょっとばかり、ぞっとしない?」 「まったく」 溜息をつき、大げさに肩をすくめる。皿の中の牛乳が動きを止める。野菜ジュースを飲み、彼女は少し笑う。 彼女は時々小さい男の子なんかみたいにぼくを扱う。 「とにかく昔にそんなものを読んだんだ、小さい頃にさ」 自分も最後は聞き取れないほど声は小さくなった。それを聞き流し彼女はスプーンですくったシリアルをじっと観察する。 キッチンでやかんの蒸気がけたたましく鳴り始める。席を立ってぼくは火を止めた。髪を耳に掛けながらスプーンを口に運ぶ彼女の横顔をそこから眺めた。 「コーヒーか何か、飲む?」 またすくい上げそれを左右に揺らす。彼女はうなずく。ミルクが数滴、皿に零れる。 砂糖とインスタントコーヒーの瓶をテーブルに置く。彼女はコーヒーの粉を入れる。ぼくは不揃いのカップに熱湯を注ぎ雑誌の上にやかんを置いた。 彼の面影が浮かんで、消えた。名前はもう思い出せない。記憶の回廊をひっくり返す作業に夢中になって、彼女が喋ることを聞きそびれた。 「聞いているの?」 彼女はコーヒーに砂糖をいっぱい入れて、ミルクをたくさん注いだ。 ぼくは椅子に座った。「ああ、うん……何だった?」彼女は頬杖を付いた。彼女は早口で喋った。 「今日は何をしようかって言ったの…それでコーンフレークの話、いつ頃に読んだの?」 「うん、そうだな。今日はどうしようか…」まるで独り言みたいだ。「高校生の頃だったかなあ」 「それほど小さくもないじゃない」 ぼくは何度か首を振る。「とにかくこの街に来るずっと前のはなし」 渡された砂糖をコーヒーに落とし掻き混ぜる。壁の時計が十時を示す。光は刻々と傾く。
手のひらの冷たさでぼくは目覚める。 ベッドの端に座る彼女はぼくの頬に手を添えながら視線を漂わす。テーブルの上には朝食の用意が整えられている。一リットルのミルクパックとシリアル。彼女はこちらを向き、立ち上がる。野菜ジュースをグラスに移す。 覚醒が訪れるまで体が浮遊する。ここがどこか分からない。すぐに自分の部屋のベッドの上であることに気が付く。目覚めたとき人がいることになにかしら違和感を持つ。 彼女はカーテンを引き、窓を開け放つ。新鮮な朝日が差し込み、宙を漂う埃が輝く。 彼女は風に髪をなびかせる。「もう朝だね。ほら起きて顔を洗って来たら」 ぼくはもぞもぞと起き上がり、言われたとおりに顔を洗う。タオルで顔を拭きながら椅子に腰掛ける。彼女は音楽を選んでいる。 「気持ち良い日曜日の朝にはどんな音楽が似合うかしら。それってちょっとばかり難しい選択だと思わない?」 「そうかな? うん、そうかもしれない」 ぼくは欠伸をして煙草に火をつける。それからテーブルの上に用意された朝食を見て首を傾げる。「こんなもの家にあったかな?」 ぼくは彼女に尋ねる。 「食べ物なんて何にもなかったからさっき買ってきたの」 「ふうん」 「ねえ、どんな音楽がいい?」 「静かなもの」 彼女が見繕った音楽が流れる。静かな音楽だ。そして彼女はシリアスの袋を開ける。皿に盛られるシリアスからは乾いた音がした。ミルクをそこに注ぐ。 どちらかというと黙々とわたしたちは食事を始める。
ぼくはコーンフレークの話を思い出す。 それから一通りの会話が終わる。 ぼくは彼のことを思い出そうとする。深く埋もれていた記憶の埃を丁寧に払う。あらかたの食事を終えて、ぼくは煙草の煙を吸い込む。わたしたちはテーブルの上を片付け始める。食器の触れ合う音と日曜日のざわめきが辺りにはある。 再びわたしたちは向かい合って腰を降ろす。 ぼくはこんな風に話す。
その少年に会ったときにも、ぼくはこの話、コーンフレークの譬話だけど、それを思い出していた。この街に来る前のことだから少なくとも五年は経っている。 ぼくは寺の前の階段に座る少年を見た。腰掛けているというよりは彼はうずくまっている。 始めから順序を追って話そう。けれどうまく話せるかどうか分からないな。 季節は、そうだな、今日みたいな春だった。乾いた風の吹く、晴れた一日。 こんな広大なコーンフレークってちょっとないな。 譬話を思い浮かべながら遠くの新緑に覆われた山々を眺めていると、不思議な気分になってくる。乗り物から月とか遠くの山とかを眺めていると自分が動いているのか世界が動いているのか分からなくなるときってあるだろう? 微笑みながら彼女はうなずく。 ぼくは頭を整理し記憶を辿る。彼女は話の続きを待っている。 ぼくはバイクに乗っている。どこに向かっているのかは忘れた。どこかからどこかに向かう途中だろう。目に浮かぶのは風景の流れる断面だったり、人の気配だったり。 ぼくの住んでいた街には沢山の寺や神社があった。それはいたるところに偏在している。 ぼくは煙草を揉み消し、指で机を叩く。彼女は咳払いをして、牛乳を半分、野菜ジュースを半分グラスに入れる。ぼくはそれを眺め、話の続きに取りかかる。 ある寺院の門前に差し掛かったとき、視界の隅で何かがぼくを捕らえた。そこだけが欠落しているような奇妙な感触があった。はっとしてぼくはそちらを振り向く。そこには額から血を流して頭を抱え込む人がいる。一人きりでうずくまり周りには介抱する姿はない。ぼくはその前を通り過ぎる。ぼくは戻ってバイクを止め、彼の近くに向かう。 少年は額から血を流し、放心して座り込んでいた。彼は中近東の人々の顔立ちをしている。虚ろな目が周りを徘徊し、ぼくが近くに来たことにも気が付かない。 ぼくは彼に話しかけた。 大丈夫かい? びくんとして彼はこちらを見る。陽光を受けた彼の肌は輝き、血を流す顔にぼくは眩暈を感じる。もう一度同じことを少年に訪ねる。彼の目に怯えの色が浮かんだ。 彼はうつむく。 ぼくは彼に傷を見せるようなそぶりをした。かがみこんで彼の頭を上に向け、傷を観察する。少年はじっとしている。眉の上に深い肉の裂け目がありそこから血が溢れている。 痛いかどうかぼくは少年に聞く。彼は一度頷き、次に首を振る。少年は混乱し怯えていた。 鞄からタオルを取り出す。流れている血を拭取り、タオルを傷口にあてる。自分の手で傷口を押さえさせた。 通行人たちは無遠慮にその様子を観察していたが、近づいてくるものは一人もいなかった。羞恥心が湧きだし、一瞬ぼくはこの場から逃げだしたくなる。
こんな気分って分かるかい? 彼女は静かに首を振る。 まるで動物園の檻に入って観察されているような気分。
空がとても青かったことを覚えている。 すぐ近くの自動販売機でお茶を買い、ゆっくりと彼に飲ませた。少年の目はまだ焦点が合わずぼんやりとしている。ぼくはしばらく彼をそっとしておく。そして彼の姿を観察する。唇が腫れ上がり紫色に変色している。明らかに殴打された痕である。 ぼくは彼の隣に座り背中をさする。やがて人々の視線も気にならなくなった。 数十分たち彼はだんだんと落ち着いてきた。ぼくはもう一度質問する。 どうしたんだい? 少年は話し始める。 道を歩いていると突然少年は男たちに殴られる。そして無理やり車に押し込まれた。車内でかわるがわる少年を殴り愉快そうに笑っているのは四人の若者であった。 男たちは無邪気にも見える。 車の中で彼らは少年を殴り続ける。彼の腕に煙草を押し当てる。 少年の叫び声が響く。男たちは口々に彼を罵った。この国から出て行けと男たちは命令する。少年は泣き叫びながら嘆願する。抵抗するとより一層強く殴られた。少年の顔は涙や鼻水や涎が溢れる。男たちはその様子を見て汚いと言いまた殴った。 そして彼らは笑い続ける。 車が血で汚れるという理由で少年はこの近くに投げ出される。その時には少年は疲れ果て泣くこともままならない。 ここからどうやって帰るかも分からないし、お金も持っていない。そして、気分が悪く歩く事もできない。少年は寺の前の階段に座った。 行き交う人々は血を流す少年に無関心を装い、関わらないように歩いていく。 少年は途方にくれていた。 たしかに彼はあちこち傷だらけで腕に数箇所やけどの跡がある。そして額から流れる血はまだ止まらない。 ぼくは思案し、彼をバイクに乗せた。 近くの小さな診療所まで彼を連れて行く。そして受付で事情を説明する。治療を待つあいだに彼から話を聞く。住所や電話番号や名前や年といったことだ。 彼の名前はもう忘れた。年齢は覚えている。彼は十歳だった。先に治療を待っていた人が少年に順番を譲る。 医者にもぼくは説明する。医者は少年に痛いところはどこか優しく質問する。止血しているあいだに警察に通報するかどうかの話になる。 とにかくわたしたちは彼の家族と連絡を取ろうとする。電話番号を聞いた看護婦が連絡をする。しかし何度かけても電話には誰も出ない。彼が治療を受けているあいだ、待合室で電話をかけた看護婦とぼくは会話する。 ええ、何人かにいきなり殴られて、この辺りまで無理やり連れてこられたらしいです。あそこの寺院の前でうずくまっていました。ぼくはたまたま通りかかったんです。呆然としていましたよ。殴った人はかなり若かったみたいです。四人だと言っていました。 そうですね。ほんとうにひどいですね。 可哀想にと看護婦は呟いた。 事情を聞いていた待合室の老人たちも、口々に話し始める。 外国人だからこんな事をされたのだろうと、一人の老人が断定した。まったく残酷な事をするとその老人が言う。彼はかなり憤慨している。 ぼくは幾分居心地が悪くなった。 少年は額を六針縫った。体のあちこちに包帯やガーゼを巻いている。看護婦は保険証の有無を少年に訊ねる。ありますと少年は答える。 ぼくは診察料を払い、薬を受け取る。 それから看護婦はふたたび両親に連絡を取ろうとする。けれども誰かが電話に出る事はなかった。両親と連絡を取れる場所を知っているかと彼女が少年に訪ねる。 彼はわからないと言い、両親は仕事で家にはいないと言う。医者もそこに現れた。わたしたちは話し合う。ぼくが彼を家まで連れて帰るということとなる。医者と看護婦が地図を持ち出し、家の所在を調べる。 老人たちが少年の周りを囲み、彼から事情を聞きだそうとする。言葉少なく老人たちの質問にこわばった表情で少年は答えている。 ひどい目にあったねと誰かが言う。ひどい世の中になったと誰かが言う。 口々に少年に語りかけられる言葉を聴きながら、これはまるで二次災害だなとぼくは思う。二回目の暴行現場にぼくは立ち会っている気がする。 わたしたちは少年の家の所在に大体の見当をつける。 このお兄さんに病院に連れて行ってもらったとお父さんかお母さんに言うようにと看護婦が告げる。少年は小さく返事をする。 わたしたちは老人たちの好奇の視線を受けながらその診療所をあとにする。 彼の家はここからそれほど遠くない場所にある。ぼくは少年を乗せて走り始める。少年はぐったりとしてぼくに寄りかかっている。 彼の表情にはまだ不安と恐怖がある。それらは重い塊としてそこに存在する。 ぼくはゆっくりと運転するように心がける。 彼女の選んだ音楽がそこで途切れた。ぼくはコーヒーを飲み込む。彼女は真剣な眼差しで話を聞いていた。これまでに見たことのない表情だった。ぼくは窓の外に目を向ける。彼女は立ち上がって違う音楽をかける。そしてキッチンへ行き冷蔵庫を開ける。彼女はビールを二缶持ってくる。彼女はプルリングを引き、ビールを流し込む。彼女の咽が数回上下に動く。ぼくも差し出されたビールを少しだけ飲む。 走りながらぼくは少年に質問する。彼の日常をぼくは聞く。彼は父親がイラン人で母親が日本人だと言う。彼には三人の兄弟がいる。彼はサッカーに夢中である。ぎこちない言葉が彼の口から発せられる。 わたしたちは彼の家の近くまで来る。彼が道を説明する。小さな路地をわたしたちは抜けていく。やがてバイクが入り込めない道に行き当たる。少年が家はこの先にあるという。 ぼくは少年をバイクから降ろし彼を家まで送り届ける。わたしたちは密集した家々の隙間を歩く。辺りには驚くほどの静寂が漂い、耳が痛くなる。 わたしたちは彼の住むマンションに入っていく。わたしたちは階段を昇り四階に辿りつく。彼が家のチャイムを押す。彼はドアノブを廻す。しかし、ドアには鍵がかかっている。 ぼくは少年に鍵を持っているかどうか聞く。彼は持っていないと答える。もう一度彼はベルを鳴らす。ぼくがこれからどうしようかと思案し始めてから扉が開く。 中から出てきたのは少年の姉である。彼女は戸惑いの表情を見せ、事態を理解しようとする。どうしたのと彼女は少年に訊ねる。 ぼくが事情を説明する。そして両親と連絡を取ってもらえないかと彼女に言う。彼女はわたしたちを家に入れる。彼女は心配そうな顔つきで少年に大丈夫かと聞く。少年は頷く。 少年の顔にようやく安堵が浮かぶ。この場が彼を守っているという事実を少年は確認する。 彼の姉が受話器を持ち上げ電話をかける。そして両親に説明した。ぼくも少年の両親と話す。すぐに帰ってくるので待っていてくれと二人はぼくに言った。 少年は姉に甘え始めた。彼女はずっと彼の頭を抱いていた。そこから彼の普段の生活が垣間見える。 先に帰ってきたのは父親の方であった。父親は戸惑い、少年の様子を見て傷ついたようにも見える。そしてもちろん彼はふかく怒っていた。父親は少年を抱きしめる。少年は少し照れて困っているようにも見える。ぼくが少年の笑顔を見たのはこれが始めてであった。 父親はぼくに礼を述べる。ぼくは父親にこれから警察に行くかどうかを訊ねる。彼は妻が帰ってきてから相談して決めたいと言う。そしてもう少しここにいてもらえないだろうかとぼくに頼んだ。そしてぼくはここにいる事にする。 父親は少年に状況を事細かに聞き出す。少年は淡々と話し始める。父親は髭を触りながら黙って聞いている。 少年が話し終わると父親は彼を抱きかかえた。それからしばらくして少年の母親が帰ってきた。彼女もやはり取り乱している。母親は少年の姿を見ると驚き顔が真っ青になった。彼女は父親から説明を聞く。そして警察に行く事となった。 警察で説明してくれないかと父親がぼくに頼んだ。そして少年とぼくと父親で警察に行くために車に乗り込む。 父親は警察で事情を説明し、ぼくも状況を説明した。それから被害届けを出した。行き返りの道中でぼくは父親にずっとありがとうございましたと、居心地が悪くなるくらいに言い続けられる。 少年たちの家に着くと帰ろうとするぼくを父親が引き留め、夕食を一緒に食べようと提案した。そしてぼくは彼らの家族と夕食を食べる事となる。 家には少年の祖父と弟が帰ってきていた。わたしたちは食卓を囲んだ。少年はかなり元気が出てきたようで弟とふざけあっっている。 ぼくは両親と祖父に事細かにぼくが見た状況を話す。母親が診察料をぼくに渡した。 話題は事件の事が中心だったが、そのうちに彼らの家族のことやぼくの日常生活などに変わっていく。家庭の団欒といった趣であった。ぼくはそんな雰囲気の中でゆっくりと寛いでいる。 食事が終わって随分たってからぼくは少年に暴行した男たちのことを考え始める。彼らの笑い声を聞くことが出来るような気がする。ぼくはぼんやりしながら彼ら家族の声のざわめきを聞いていた。そろそろ帰ろうかと思いふと周りを見回す。 彼らは笑っている。ぼくは帰ることを彼らに告げようとして思わず口をつぐむ。彼らは笑い続けている。 それはぼくが想像していた四人の男たちの笑い声である。 父親は笑い、母親は笑い、姉は笑い、祖父は笑い、弟は笑い、少年も笑う。 彼らは腹を抱え、机を叩き、足を踏み鳴らして笑い続ける。 周りの空気が重みを増し圧迫する。ぼくは呆然とする。彼らは目を細め周囲に視線を漂わす。彼らは何も見ていなかった。ぼくは重力を感じる。 それからぼくは挨拶をし、そこから立ち去る。それに注意を払うこともなく、未だに彼らは笑い続ける。 彼らの笑い声はまだ背後に響いている。 ぼくはバイクが置いてある場所まで歩く。日は陰り淡い月が昇る。密集した家々から明かりが灯り始める。 体が空白になっていくのを感じ、自分が透明になって行くのを感じる。 歩きながらぼくは地震を求める。 深い地震が地を割きぼくを暗闇に引きずり込む事を。崩れる建物から落下する瓦礫がぼくの内臓を撒き散らす事を。 けれどもそれらがくる事は決してないとぼくは確信する。ぼくはそれらのことを忘れ去っていく。
話終える頃、彼女は三本目のビールを飲んでいる最中だった。さきほどから彼女はずっと黙ったままである。どうやらぼくは喋りすぎたようだ。 ぼくは残りのビールを飲み干す。そして煙草に火をつける。陽は傾き始めている。彼女はもう長いあいだ目を伏せている。音楽はずいぶん前に止まったままである。ぼくにはもう次の言葉も出てこない。沈黙だけが続く。 思い立ったように彼女はビールを飲み干し、ぎこちなく微笑む。そして彼女は帰り支度を始める。ぼくは彼女を駅まで送っていく。わたしたちは何も話さず歩き続ける。やがてわたしたちは駅に着く。 彼女は切符を買い、じゃあねと言って手を振る。 彼女は一度も振り返らずに改札を通り抜けていく。ぼくは彼女の後姿を見送る。それからぼくは来た道を引き返す。通りを歩く人の姿はない。 夕暮れが空に漂い始める。テールランプとヘッドライトが交差する。 ぼくはそれに向かってこう呟く。 なあ、あんた。輝かしい消耗戦はもう始まっているんだぜ。 ぼくはふたたび歩き続ける。
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