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作品名:太鼓たたきと踊る日々 作者:せんぎ

第2回   フラクタルの手紙・不可逆性計数器
奇妙に音だけを知覚する日々が、ざっと二二〇日あまり続いていた。物事を緻密に語ると、それは二二六日であり、さらに付け足すと、あと六時間二十六分でその数に一が加算されることになる。その生活を観葉植物の枝に止まる蟷螂と共に過ごす日々があった。蟷螂はいつもその棲家の緑から大きな目で、じっとあたりを伺っている。この共同生活はこの二二六日という期間の内、最後にあたる六十日ばかりであった。
漆黒の空とそこから降る模様入りの氷粒が辺り一面を覆い隠していたある瞬間から、すでに八千回あまり太陽の輝きと宇宙の闇とが繰り返し地表に現れ、様々な陰影を作り出しては消滅していった。
回転する季節の巡り代わりを、当時の人々は1980年とそう呼んでいただろう。一年を通して最も寒さの厳しい月がこの島国の大地に訪れ、雪が零れ落ちる真夜中過ぎのその木曜日、生の営みが開始される泣き声の合図は、小さな町の医院に埋め尽くしていた静寂をきれいに破り去り、そこを騒がしい場所に変化させたらしい。もちろん、そんなことを言われてもまったく身に覚えがない。ただ、幼い時分から親しい人々にその情景を事細かく語られていた。
そんな話はうんざりだ。
眠りの境界線をさまよっている時に、その出来事があって初めてこの右手も存在しているのだろうと、ぼんやり眺めながら、地球の上の人がこれまで体験したそれを考える。けれども、この爪と指の動きは出来事が―つまり僕が生まれた瞬間から―繋がっているものだとは感じ取れない。確かに言えることは、それが起こったことによって、原因と結果の循環が際限なく移ろう世界にぽんと放り出されたことだ。ある原因が一つの結果となり、その結果がまた別の物事の原因を作る。
その結果として80年から90年の喧噪の時代に僕は十歳になり、ある原因によって、失われた十年と呼ばれる歳月が僕を十歳から二十歳にした。
それらは連鎖反応であり、質量欠損ということだ。
どのような因果関係が働いているか、説明できないけれど、まず、それらの関係性がいかほどかあるには違いない。

失われた年月に育った失われた世代。
いったい誰が時代を失わせたのだろうか。
それにはどのような暗示があるのだろうか。

アーネスト・ヘミングウェイを代表とするロストジェネレーションと呼ばれた人々と関連があるのかもしれない、などを想像してみたが、ヘミングウェイの作品を読み通したことはなかったし、その時代のアメリカ合衆国についても、どのような時代であったのか、この肌には刻み付けられていない。インポテンツの男の物語を読み通そうと試みたがそのつど途中で放り出した。
猟銃で自殺したという点のみ共通する、カート・コバーンのほうが、その人と姿も、行なったことも、逃れなかった様々なトラブルも、後世への影響力も、すり抜けて行ったその時代の雰囲気も、詳しく語ることができるだろう。  
彼らが作り上げた演奏の音源をプレイヤーに読み込ませることも、もう殆ど、いや、全くないが、皮膚に刻み付けられた記憶として、それらは記憶のある一点に別ち難く結びついていた。始めてリチウムを聴いた若い自分と、その歌詞の始まりの一節をふと口ずさむ。それらは僕のすぐ側でそっと囁き、静謐で親密に、時に胸を突き刺すように、語っている存在のように思えた。
――I’m so happy `cause today find my friend , in my head. (とても安らいでいるんだ。なぜって、今日、トモダチを見つけたからね……アタマのなかでさ)――
共振しているという嬉しさの反面、少しだけ寂しかったことも覚えている。午後の倦怠な太陽が窓から覗きこみ、照らし出された歌詞カードをパラパラとめくりながら飽きもせずに聴いていた。
順序良く構成された物事が、然るべき帰結として正しい所に着地するのだとその風景は思わせるところがあった。そして、約束の地としてそこに戻り、望むのならばいつでも、そこに含まれることができるのだと。けれど、幻想的で複雑な歯車が時間と共にぐるぐると回っていくにつれて、それがどのような噛合せで、どの方向に歯車を回転させればそこに辿り着けるのかを見失ってしまう。

――自分自身の、僕は同居人に向かって口を開く、糞みたいなノスタルジーに浸っているのじゃなくてさ、いや、多分にそれもあるかも知れないけど、今となっちゃ、その真摯な叫び声や自分の場所を切り開く為の演奏になんて誰も耳を向けない。ある人はきっと負け犬の戯言として否定的に扱い、ある人は小奇麗な伝説として教科書みたいに無批判に肯定する。彼の中の闇を、闇として、希望を、希望として、偏りを、偏りとして、ただそこにあるものと受け入れることは、誰もしない。
考えるだけで吐き気を催す人それぞれの願望が、その形を自分勝手に変形させて、多くのものを捩じ曲げてしまったように、色んなものが歪んでいく。音楽だけにその欲望が投影されるわけじゃない。むしろ少ないぐらいだ。ささやかな人との繋がりから、誰かに爆弾を落とす決定をする瞬間にまで、つまり、何から何まで、それは深く関わっているし、殆どの人はそれに囚われている。
少し黙り込んで同居人を眺める。彼はこちらを見向きもしない。けれども気にもせず続けて言う。
――ああ、分かっているさ。他人がどうこうというのは基本的にあまり重要なことじゃない――。「問題なのは…」一区切り置く。
「自分自身がそのようになっているってことだ」
――もっと問題なのは、そのような自分に弁明を腐るほどしてしまうってことだ。
たとえば、九十年代なんて遥か彼方に消えてしまったし、誰も顧みない、どうだっていい事じゃないか。時が経てば感じ方も変化する。それは別に悪いってわけじゃ……なぁ、この話、退屈じゃないかい? まったく、どうしてこんな話をしているんだろうな。見当違いの堂々巡りをしていて、何処にも辿り着けない気がするな。
厄介な所はね、自分が何を求めているのかさえ分からないことだよ。ただ、ときどき色んな事を不自然に感じてしまって、何とも言えない嫌な気分になってしまうんだ。
「もし迷惑ではなかったら……」二つの触覚を動かし、その瞳を色々な方角へ向ける蟷螂に丁寧に訊ねる。
「……明日も話を聞いてくれるかい?」
「その顔の動きを承諾として受け取っていいのかな? 分かった。もうあちこち向かなくてもいい、君の想いは十分に伝わった。そのように全身で反応してくれる事は、ほんと、君に認められているようで、僕としてもとても嬉しい。この調子でお互いをよく理解していこう。では、明日も続くそれぞれの日常の戦いに向け、我々は休養を取ることにしようじゃないか」
部屋の灯りを消して布団に包まり眠りに落ちていく。
六十日の彼との共同生活における後半の三十日は、とにかく、こんな風に過ぎていった。

数え始めた日から、時計を見るたびに、太陽が何回上がり下がりしたか、把握する習慣を身に付けた。必要性から人は何かを獲得する。けれども、それが何の為になされていることなのか、理解できてはいない。だいたい、どうして数え始めたのかそのきっかけや理由もはっきりとは覚えていないのだ。ところが、時が経つにつれてその能力は孤高の高みに昇って行き、最近になると秒針が目に入るたびに始まりの日から時間がどのくらい経ったのか瞬時に知った。いつの間にか感覚は音と時間だけに限定されていた。そのほかの意味や解釈は、信号機を除いて解体していた。
机の上に置かれている透明のグラスを観察し、どうしてそれがそのような存在なのか考え、差し障りのない慣用的な挨拶が誰かから投げかけられるたび、その機能を感じ取ろうと試みた。やがて深く混乱していき 絡みついた感覚は麻痺していったので、なるべく想像することを遮断するようにした。
そのような経過からいつも意識的に信号にだけは従って歩くことにしていた。赤で立ち止まり、青で歩き出す。その逆を問おうとすることは無意味なのだ、赤で歩き出す人はいないし、青で立ち止まる人もいない。どうしてか判らないが、統一しなくちゃ面倒なことが起こるからそのようになっているのだ。単純なことだろう、と自分を説き伏せ思考を停止させる。
道を渡りきるたびにその色彩の変化がどのようなものであったのかを思い浮かべる事は出来なかった。
そのうえ僕は何を食べても上手く感じ取れなくなった。味覚がないということではないけれど、その感覚――美味い、不味い、辛い、甘い、その他などが――すっぽりと抜け落ちて、識別されることもなく熔けてしまう。味覚だけでなく、分解されてばらばらになった多くのそれらは――確信はないが、感覚を感情として言語に変換し、理解したり、説明したりするということは――抽象性という広大な海の中で洗い流され綺麗さっぱり漂白されていた。
その代償行為として、宵の自分の為の隙間はソファに座り独りで多くのビール、その他リキュールを血液の中に溶け込ませ、獏と俯きながら佇んでいること、左手で両目を覆い、思い出したように液体を胃に流し込むことだった。  
それからセーフセックス、薄い膜に隔てられた一体感。その期間に行なわれた三人の女性との生殖行為。
しかるべき場所で出会い、しかるべき手続きを踏んだあと、しかるべく、その名前も顔も時の忘却に消え去った。
微かな温もりの痕跡だけが残った。その行為の最中にいつも居心地の悪い気分に囚われた。もっと他の場所で何かをやっている方が現実味を感じられる、ということが強調された。
二百年前の江戸幕府で暦を研究する役所仕事に就き、毎夜、星空を眺め、天気の悪い一日はとても不機嫌になるような人物であったり、アンデスの高地で畑を耕している四男二女の父親であったり、ジンバブエでエイズ撲滅の社会運動に取り組んでいるアイルランド人であったりということだ。頭によぎるたび、声を上げている相手に気付かれないように声を殺して苦笑した。サイズの合わない服を無理やり着せられているような感触が自分の身体から立ち昇っていた。
事が済むとその感覚も通り過ぎていく。そして、彼女たちの体から放たれる安心感の横でいつも静かに眠りに落ちていった。僕はその場所で眠ることが断然好きだった。

最後の人とだけ、僕は三回寝た。職場の派遣社員として、経理や事務やお茶汲みや、その他あらゆる雑事をとても楽しそうにこなす人だった。煩雑期の皆が神経を立てている時でも、その人はいつも変わらず、踊るように仕事をしていた。彼女は五歳年上で、寝物語に彼女の故郷である島根の砂丘や海や農産物について話している姿はとても魅力的だった。三回目の性交渉のあと、彼女の髪をなでながら、相槌を打ち、「正しい行い」という行動について考え、最低限の会話で成り立っている自分自身の暮らしを思った。
話し疲れ、彼女が誰にも共有されない彼女自身の夢へ落ちて行ったあとも、ソファの上で時は奇妙に膨らんだり、縮んだりしていた。何本目かの煙草に火を点けようとし、炎が少し揺れ、彼女の顔を仄かに照らし出される。彼女はぼんやりと僕を見つめている。
――何をしているの――
――蟷螂を見ていたんだ――
――カマキリ?――
その観葉植物の彼の棲家を指し示した。彼女は毛布を引き摺りながら、ごそごそと起きだし、木の前に座り込み、それを観察し始めた。月のほのかな光線がそれをゆっくり浮かび上がらせた。
――ねえ…どうしてこんな所にカマキリがいるのかしら――
――そいつが、そうだな、秋口の初めあたりから僕の部屋に住み始めたんだ。だから大急ぎでこの木を買ったんだ。――
――この前に私が来たときにもこの子はいたの?――少しの沈黙。
――いたよ―― 
眠っているのか蟷螂は首を傾げたまま、その丸い大きな緑の目を光らせていた。ソファから立ち上がり、彼女の肩を背後から抱き寄せ、しばらく蟷螂を眺めていた。
――少なくとも、自分が家にいるときにこいつはこの木からいっさい外へ出ようとしないんだ――
――きっとこの子はとても充足的に過ごしているのね――
彼女は指先で葉を揺さぶった。すり合わせた頬は、彼女の声を自分自身の深みから、自分の内奥から、湧き上がってくる声のように静かに体が揺れた。
――この子はなんて名前なの――
――名前……… 名前は、ないな――
――どうして?――
――さあ、どうしてだろう……? そんなことは思いもつかなかった、それに特に不便もないしね…―― 
彼女は体を任せるように僕の胸に深く寄りかかり、無言で無言の蟷螂を見ていた。しばらく二人で蟷螂を見続けた。やがて彼女はくしゃみをしてまたベッドに戻って行き、僕の腕をその中に導いていった。
君はまるで穴蔵に住んでいるはぐれ熊みたい、それともみんなから仲間はずれにされて一人で洞窟に住んでいる原始人かしら。胸に顔を埋めながら小さく呟く彼女、さあ、もう眠りましょう。そして起きたあと、二人でこの子の名前を考えましょう。
彼女の温かい寝息を浴びながら、意識はやがて自分自身の生温かい夢の中に誘い込まれていった。
朝、目覚めるとそこに彼女の姿はなく、日曜日の陽光が部屋の隅々まで照らし出していた。澄んだ空はとても青く、覚醒するまでの少しの間、眼球が彼女の姿を探し続ける。立ち上がり、部屋の隅々まで彼女を探し、彼女の全ての荷物、鞄も、靴も、脱ぎ捨てられた衣類もそこにないことを知って、朝のコーヒーを入れた。それを飲みながら、働かない頭で、きっと彼女はどうしてもはずせない急用ができてしまったのだと思おうとした。そして、僕がはぐれ熊みたいに安らかに眠っていたので、何も言わないで立ち去ってしまったのだと。コーヒーを飲み干すと蟷螂に食事と水を与え、彼女に電話を掛けた。彼女の不在。
これらは、一八九日目のことである。
それから、この穴蔵の中で光が微細に傾いていく只中を蟷螂と共に見続けた。時々かさかさと音を立て彼は何かに夢中になっていた。我々は彼女の音沙汰を待ち続けた。夜になると、冷蔵庫からハイネケンの缶を取り出し、彼女と共に見る予定だった映画のビデオテープを、一人で見た。何人かの登場人物がステレオタイプな死を遂げ、何本かのハイネケンが飲み干された頃に、いくら経っても集中できない画面を切り、もう一度彼女へ電話した。ただ彼女の不在を告げる呼び出し音だけがあった。デジタルの時計が三つゼロを並べ、頭の中の数字の羅列に一を加算するスイッチが、音をたてて動く。それを聞いてから眠りに就いた。
次の日の職場でも彼女はそこにいなかった。昼休みにそこを抜け出して彼女の住むマンションまで行ったが、彼女はそこでも不在だった。その後、仕事場で主だった彼女の知人たちに彼女から連絡はないか聞いて周り、事情を説明して上司から彼女の履歴書と派遣会社を教えてもらい考えられる全てに連絡を入れたが、彼女の現在を知っている人は一人もいなかった。
最後に、僕は彼女の島根の実家にも電話を入れたが、そこでもまた、呼び出し音が響いただけだった。帰りの電車の中で虚ろな人々に囲まれて、ずっと島根の砂丘や海や農産物を思い描いていた。そこで生活する彼女の姿を思い浮かべた。小さな車を運転する、様々な食料品の横で、彼女が歌を歌っているその姿はとても幸せそうに見えた。彼女は僕の前から姿を消してしまったのだ。
それを認めることはやはり辛かったが、その胸の疼きは前にどこかで感じたことのあるものだった。今のところ、後日談は何もない。
僕はたびたび彼女と交わしたコーンフレークとミルクの会話を思い出した。そしてその会話に耳を澄ましている蟷螂の姿を思い浮かべた。
「再び大地の震動を、そして更なる人生を」
螳螂はいつも静かに言葉を受け止める。


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