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作品名:太鼓たたきと踊る日々 作者:せんぎ

第13回   fare・well
手紙はこのように始まる。
「いまだに、どの一人称で自分のことを語ればよいのかわかりません―」
部屋が梱包資材であふれる。めぼしい家具はテーブルと椅子だけだった。何枚かの便箋が雑然と並んでいる。
始めの一行を書きしるし、彼はペンのノックを数度、ひたいで叩く。ペンを机の上に置き、コーヒーを一口飲んだ彼は、便箋を持ち上げ、しばらく、光に透かしながらその文字を見つめる。窓からは春の陽が差し込み、その光はくすんだ壁を斜めに切りとる。彼は便箋をひらひらと何度か振り、続きを書き記す。
――ぼくなのか、オレなのか、わたしなのか。その呼び名のどれもがしっくりきません。
しっくりと来ないという感覚がしこりみたいに浮遊しています。「しこりみたいに浮遊する。」曖昧なたとえです。
けれども、一人称で表現しなければ、手紙という体裁の文章は書けません。ここにいるのは、この「一人称単数」と「あなた」だけだからです。この手紙の登場人物は「ぼく」と「あなた」だけです。
だから続きの一人称は「ぼく」と記すことにします。ただこのように表記することに「ぼく」が納得していないことは、どうか覚えておいてください。
自分をどのように表現すればいいのか分からないのです。
そもそも、何故書くのか分かっていません。
「あなたは何故この手紙を書いているのですか?」とあなたに質問されても、ぼくは説明できません。
けれども少し考えてみてください。
わたしたちが「何か」をしたいと思っても、世界はつねにその「何か」に原理や説明を求めます。合理化だとか税金優遇措置だとかフリーダムだとか(フリーダム!)利益率だとか相対性理論だとか、そういったあらゆる言葉です。
少なからずそのような言葉が表す状況に、ぼくは戸惑いを感じます。
つまりこういうことなのだと思います。
ぼくは嫌いな野菜を何点か挙げることができます。けれど、どうしてそれが嫌いなのをあなたにきちんと感覚として共有してもらうことはできないのです。あなたはぼくがその野菜を嫌いということはわかるでしょうが、ぼくがその野菜を食べたとき感じる不快感は決してあなたに伝わらないということです。あなたとぼくは「嫌い」という概念の表す表象のみ共有するのです。

「ぼくの、言っている、言葉は、わかり、ます、か?」 

全ての現象に対して何かしら説明する責任をわたしたちは求められています。ぼくはそのように感じてしまいます。
「なんとなく」「理由はない」「都合が悪い」といったいいわけは一切認められません。「記憶にない」なんてお決まりのせりふを言おうモノなら、この場所ではむら社会的死刑が待っています。実際の死刑も、この国では行われています。
何かを説明しなければならないということは、何かを消耗していく気がします。
そしてぼくは疲弊します。疲弊が一度からだにへばりついてしまうと、容易に取り除くことができません。疲弊が残すのは広大な空白です。
「そのような疲弊に、わたしは関わっていない、そんなモノありはしない。」と、あなたは反論するかもしれません。
それとも、「わたしはあなたとは根本的に違いますから、あなたがおっしゃることは全く分かりかねます。」とぼくに宣言したくなるかもしれません。
「根本的に!」と、ぼくはおもわず聞き返します。
それはそれでいいのです。
あなたの言っていることや感じることを、ぼくは全て受け入れます。だからぼくの話もとりあえずそのまま受け入れてください。これは傲慢なことでしょうか――
彼は一息で便箋に書き上げる。
そして手を止め、便箋を見つめる。獲物をじっと待つ蟻地獄のように。
ふと便箋から目を離し、壁に視線を移す。かつて掛時計があった場所には、もとの壁紙の色合いが残っている。
壁に映る太陽の光は少しずつ傾く。この島にある時計はたいてい午後2時の時刻を示しているに違いない。
その壁の空白を見た彼は、月での生活を感じる。幾分彼の周りの気圧が違っているように感じる。掛時計が歳月をかけて残した、その白く丸い跡のように、彼はぽっかりと浮かんだ空白を漂っている。
彼はジーンズのポケットからくしゃくしゃになったタバコの袋とプラスチックのライターを取り出す。彼は再びタバコを吸いだしたのだ。
灰皿がないことに気付いた彼は、部屋の隅に積み重ねられているダンボールの塊を見る。ため息と共に冷えたコーヒーを飲み干し、カップを灰皿の代わりにする。
そしてカップは灰皿という名前に変わる。
ここにあるモノは明日にはどれも使われなくなるのだ、と彼は思う。
彼の瞳には、輝きがない。精細に欠け、疲れた表情だ。集中が途切れてしまった彼は、ぼんやりと自分の書いた文章を頭から読み直す。
空疎な手紙だ、と彼は思う。しかし彼はそれでも良かった。出されることのない手紙だからだ。

――ここまで書いた文章を読み直しました。率直な感想を言うと、ぼくは混乱し、生活の文脈を見失っているのかもしれません。きっと一晩経てばこの手紙は読み返すことも嫌になるでしょう。
しかしそれでもいいのです。なぜならこの手紙は「誰か」に向けて書いているのではないからです。そして、残念なことに、ぼくには手紙を読んで欲しいと思う人はいません。ぼくは「あなた」に対して手紙を書いているわけではないようです。
ぼくは、やはり疲れているようです。
終わることのない消耗戦、そして、ここでは常に走り続けなければいけないのです。走りながらぼくは溜池のことを考えるに違いないのです。
溜池には色々な生き物が住んでいます。かえる、へらぶな、ミズスマシ、その他色々なぼくが知らない生き物がいます。そして溜池の水はそこから流れ出ることはできないのです。ただ蒸発し消えていくだけです。
今日はこの部屋で過ごす最後の日です。
天気は快晴で、春の匂いがします。カーテンがはずされた窓からは桜が見えます。
どうしても、この天気が場違いなように感じます。朝、目が覚めてからずっと雨降りを願っているのですが、どうやら適いそうにはありません。地球はぼくのために回転しているわけではないのですから当然です――
 
ドアの呼び鈴が鳴ったので、彼はペンをテーブルに置いて立ちあがり、ドアを開ける。外にはスーツを着た男が立っている。ニューバランスの緑色のスニーカーを履いて、大きなかばんを肩にかけている。
「 初めまして、わたくし、先日ご依頼を受けました「かえで堂」の山口です。」
山口の締めるネクタイは黄緑色。挨拶を終えた山口は、スニーカーを脱がずに、彼の脇を抜けてワンルームの部屋に入っていった。ドアノブから手を離した彼は、山口に言う。
「靴を脱いでくれませんか。また床磨きをするのは面倒ですから。」
「靴?」と山口は、まぶしそうに目を細め、メガネの蔓にふれる。山口はしばらく靴を脱ぐということがどういうことか考える。そして自分の足元を見る。
「ああ、うっかりしておりました。失礼致します。」
山口はドアに向かう。テーブルの便箋にすこし視線を向ける。山口が靴を脱いでいるあいだに、彼はテーブルの便箋を折りたたむ。そして、灰皿に変わったカップの中で燻っているタバコをもみ消す。
「では早速ではありますが、査定を始めさせて頂きます。」靴を脱いで部屋に戻ってきた山口は言う。
「今回、あたしどもに売って頂ける物品はどちらになりますでしょうか?」山口は部屋をぐるりと見回し、かばんを床に置く。
「ここにあるモノ全てです。必要なモノは全て引越し業者が持っていきましたから。」と彼は答え、身振りでダンボールの塊を示す。
「かしこまりました。こちらの物品ですね。」山口はダンボールを見た。「物品は全て床に並べますが、よろしいでしょうか?」
山口は返事を待たずにダンボールに手をかける。
「ええ、どうぞ」
彼はキッチンに向かい、取手の外れかけた鍋に水を入れ、火にかける。山口はダンボールから、ステレオやらコートやら本やらを床に並べ始める。それは彼の生活と共にした「物品」だった。そしてそれらは彼に廃屋という単語を連想させた。
山口は口笛を吹きながら、作業を黙々とこなし始める。その口笛の旋律は彼に「どこか」を思い出させる。彼は山口の作業を眺めながら、じっと山口を観察している。
「年齢は三十五歳程度」「妻子持ち」
「しかし、どうして靴下を履いていないのだろう」と彼は疑問を思う。山口は彼に外回りの銀行員といった印象を与える。ホンダカブで町を走り営業に回る。しかし、山口はリサイクルショップで働いている店員だった。
彼はキッチンに戻り、沸騰している鍋のお湯に残り少ないインスタントコーヒーを入れる。山口は段ボールから出したモノを二つの場所に寄り分けている。山口は時々、電卓を叩いている。
彼は床から、ひょいと、まだ箱にはいったままのティーカップを拾い上げる。それは友人の結婚式に行った際に貰ったカップだった。
「コーヒーでもいかがですか?」彼は山口に尋ねる。
「ええ。それでは、頂きましょう。」山口は作業を続けながら言う。うっすら汗ばんだ山口の横顔を一瞥し、彼はキッチンに向かう。「砂糖も何もないですけど?」と彼は山口に声をかける。
「もちろん、結構です。コーヒーは混じり気なしが一番です。」と山口は返答する。
コーヒーをテーブルに置き、彼は椅子に腰掛ける。すでにダンボールからは殆どのモノが取り出されている。彼の生活に不必要になったモノばかりだが、もったいないような気分になる。
「学生でしょうか?」と山口は丸い掛時計の盤面を眺めながら彼に尋ねる。
「いいえ。社会人です。」と彼は答える。「といっても学生の頃から、ここに住んでいますけれど。」
彼は社会人という言葉を思う。社会人という単語は彼にを連想させた。
「なるほど、然様で御座いますか。」山口は相槌を打つ。
彼は話しを始める。
「ここに住んでいたのは、4年間ですね。大学生の半分と、働き出してからの2年間です。美術系の大学に通っていました。そのときに作った家具がこのテーブルと椅子です。卒業して店舗設計をする企業につとめました。」最近、その仕事を辞め、家業の古びた酒屋を継ぐことは言わなかった。彼が生まれ育った、どうしようもなく干乾びた田舎町。
「それは、それは。」
山口はテーブルと椅子を値踏みするように、一瞥した。ダンボールからはすでに全てのモノが出され、2つに区分けされ床に並べられていた。
 「床に置きました物品につきましては、後程きちんとアルバイトが運び出させて頂きますので」山口は「きちんと」を強調する。山口は電卓を弾き、手帳に記入している。
「家具を作れるのですか。うらやましいことです。あたしなんか、しがない町のリオサイクルショップ屋ですから、どうしてもそのような方に憧れてしまいます。製品を造る人に対しては尊敬の念が止みません。」
山口はメモを取りながら言った。彼は考え事をしていたので、山口の会話に相槌を打ち、それに対しては何も話さなかった。
彼はテーブルと椅子を作った時のことを思い出していたに違いない。付き合っていた女の子と、仲のいい友人が手伝ってくれた。彼はその友人に長いあいだ、連絡を取っていないことに気がつく。
 「いえ、そんなにいいモノじゃないですよ。いまどき家具なんてほとんど売れないですから。給料も安いですし。」彼はしばらくして山口にこのように伝える。
 「どこも厳しいご時世で御座います。」山口は彼に向き直って言った。
「査定は終了いたしました。こちらの床においた物品は残念ですが無料で引き取ることになります、こちらは買取らせて頂きます。それでよろしいでしょうか?」と、山口は言い、鞄から書類を取り出す。彼は頷く。彼が先ほど箱からだしたカップは「無価値」のところに分類されていた。山口は彼の向かいの椅子に座り、今から詳しい明細を作りますといった。
「コーヒー、頂戴致します。」と言い、山口は明細を埋め始めた。彼は無価値とされた彼の持ち物を見つめていた。床に並べられたそれは、思い出されなくなった彼の記憶が宿っているに違いない。山口が明細を書き上げ、彼に手渡す。
 「全部で、しめて四万とんで八百八十円となります。いかが致しましょう。」山口が言う。それで構いません、と彼は答える。
「こちらの椅子とテーブルは、本音を言いますとリサイクル料金を頂くのですが、無料で処分させていただきます。」と、山口は言い、「失礼」といって、携帯電話を鞄から取り出す。
 4年間の生活はこの価格の価値だったと彼は感じる。彼にはその価格が高いのか安いのか判断できなかった。
電話を終えた山口が言う。
「よろしければ、明細にサインをお願いいたします。」彼はその書類にサインした。
「ところで、ひとつ質問してもよろしいですか。」ペンを山口に渡しながら彼は尋ねる。
「どうぞ、どうぞ。何か分からない点でもありますでしょうか?」山口は少し警戒した様子に見える。査定に不満があるのかと山口は思ったに違いない。
「どうしてあなたは裸足なのですか。」彼は尋ねる。
山口はしばらくきょとんとして、彼を見つめていた。
「ああ、これですね。」と、山口はズボンの裾を少し持ち上げ、自分の足首を指差す。
「お伺いする前のお宅で、買い取った荷物を運んでいるときに足を踏み外し、泥だらけの溝に入ってしまったのです。」と、山口は苦笑する。
「車にスニーカーがあったので助かりましたが、靴は泥だらけ、靴下も濡れてしまいまして。これから4件も残っているというのに。」山口は話し、コーヒーを飲み干した。
「きちんとした靴に履き替えたいと思うのですが、何せ今の時期はこの業界のかきいれどきですから。」山口はまた「きちんと」を強調する。
彼は頷く。山口は一呼吸置いて続ける。
「たとえ足を踏み外して泥だらけになったとしても、なんとかこなして行くしかないのです。他に選択肢はありません。」
山口は電卓や書類やらをかばんにしまいこんで、複写式の明細の控えを彼に手渡した。
「コーヒー、ご馳走様でした。」山口は言い、鞄からポーチを取り出して、指を舐め、彼に支払う紙幣を数え始めた。彼は山口の話を反芻している。
「では、後で人を遣りますので、よろしくお願いいたします。」と、山口は彼に金を手渡し、出口に向かっていく。
山口はふと振り返る。
「ところで、あたしからも一点、ご質問を宜しいでしょうか?」
ドアの前で立ち止まった山口は、彼を見る。
「お手紙を書いていらっしゃったようですけれど、どちら様に郵送するのでしょうか?」山口はニューバランスを履きながら彼に尋ねた。
「いやね、いまどき手紙を出す方なんて珍しいなと思いまして。」
 彼は口籠る。手紙を書いていたことを彼はすっかり忘れていた。
「ええ、ちょっと・・・手紙を書いていたのです。」とだけ、彼は言った。山口はしばらく、その返答を吟味し、彼に向かってうなずく。これは答えになっていない、と彼は思うが、彼にはこの質問に答えることだけの言葉を持ち合わせていない。彼と山口はいたたまれない気分になる。
「では、失礼いたします。」
山口は立ち去る。彼はなぜかひとりだけ取り残されたような気がする。そして、山口が吹いていた口笛のメロディを真似る。
山口が去ったあとに、彼は椅子に座って、タバコに火をつけ明細を眺める。そして、部屋をぐるりと見回す。全てのモノが彼の持ち物ではなくなっていた。それは彼に不思議な感情を呼び起こす。すでにここは彼のいる場所ではないのだ。
しばらくして、彼は手紙にこのように書き記すに違いない。
――ぼくのほとんど全てといえる持ち物はだいたい四万円でした。それはとても悲しいことのように思えます。
先ほどまでこの部屋にいて、ぼくの所有物に値段を付けた男のことを考えています。
ぼくは今日、この地から去っていきます。今のところ戻ってくる予定はありません。もしかしたら、一生この地に来ることはないのかもしれません。頭の中は、先ほどの男が言った言葉が反響しています。
「けれども足を踏み外すよりかは幾分ましなことだ。」思わずぼくはそう呟きます。
あなたも、そうは思いませんか。
なぜなら「足を踏み外しても、私たちは、何とかこなしていかなければならない」のだから。ぼくはこれからもどこかで生活を続けます。楽しいこともあり、苦しいこともあると思います。あなたの健康を祈っています。
それでは、
さようなら――
山口が座っていた椅子の温もりはすでになくなっていた。やがては彼の座る椅子からも温かみが失われるように。カマキリはもういない。死んだあとに炒めて食べたから。そして夜がやってくる。


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