ある夏の一日、遠い昔に予言されていた「この世の終わり」の瞬間を二人の友人たちと待ち続けていたことがあった。倦怠の日差しŻ記憶に輝く太陽はいつもそれを帯びているŻが射し込んでいて、昨日と明日の見境もつかないような晴れ渡った八月特有の暑い一日であった。終末が叫ばれていなければ、まず記憶にも残らなかっただろう。そしていつもと同じように、朝があり、昼があり、飽くような午睡の時間があり、夕闇があり、夜があり、深い闇の膨らみがあった。 一九九九年あの浮かれ気分は始めから不在かのごとく遥か後方に遠ざかって行き、それはまるで地面に落とした砂糖粒が残らず蟻たちに運び去られていくみたいに綺麗さっぱり何の痕跡も残しはしなかった。これから五十年という歳月が流れ、大人から子供までそれなりに大騒ぎして議論していたというこの事実を、もし十三歳の少年が知れば、彼はこのような思想を導き出してしまうかもしれない。 「どうやら人間の本質はどうしようもなくマヌケのようだ」と。 そんな場面が訪れたとしても、このようなくだらない事にどうして人々は惹きつけられたのかを、どうかぼくに質問しないでくれと願うばかりだ。なぜなら、動く時代の渦から湧き上がってくる様々な事柄について、どうしてそんな風に起こったのかという必然性を、大抵の人がまず間違いなく説明できないであろうから。たとえそれが、このことのように人々に共通する体験であっても、人それぞれに起こる個人的なものであっても。 けれど、大雑把には、自分というものを形作る要因となった様々な結果に対して必然性などは一切必要とせず、時の流れに乗って行き当たりばったりと、ただ静かに起こりゆくことを受け止めているだけであった。 月日は移ろい、やがて、この予言されていた年が始まってすぐに、ぼくは十八週目の誕生日を迎え、春の風が吹き出す頃には育った町から遠く離れた場所での新しい生活が始まった。とはいえ、街の人ごみや、空気の悪さ、不味くて呑めない水、遠い山影が視界にない日々に馴染むことがなかなか出来ず、あまり胸躍る生活とは言い難かった。二ヶ月たっても落ち着くことのできる気に入った場所や、話の合う友人も見つけられなかった。休日には住んでいた近辺だけでなく色々な所をよく散策したりもしたが、この都市の呆然と立ち竦んでしまうほど無秩序に見える拡がりは、ここがどのような輪郭を持った場所なのかも漠然とさせ、何かを掴むきっかけすら殆どなかった。 ほんの少しのこの期間に、正当な疲れから来ているとは思えない、からだの隙間に付着した微かな痺れが積っていることにすら、育った町に帰ってくるまでは分からなかった。ぼくの町には人を惹き付ける特別なものなどなく普通に存在してもおかしくないものすらなかった。生まれて始めてコインランドリーと言うものを見たのも町を出てからであったし、欲しいと思う音楽の新譜を買いに行こうと決意すれば、現物を手にするのは車に乗り込んでからたっぷり一時間はかかってしまう場所だったけれど、会いたいと自然に思う沢山の人がここ住んでいた。 そして、新たな街に着てからもずっと、思い続けていた特別な人が、その場所で生を営んでいた。
町を出る半年ほど前から、ぼくはヨウコという女の子に恋をしていた。その名前に付く「子」と言う文字を彼女は嫌っていたので、多くの人にヨウとだけ呼ばせていた。 ヨウの印象は形容詞で表わすと何故かぼくの中ではパンクという言葉に結びついていた。始めて彼女の仕草や声の角度に触れたとき、朝靄が架る空の片隅で陽の輝かしさに消え去りそうな砂の月が浮かんでいるように、その三文字の単語を頭の端に浮かび上がらせた。もちろん、ロンドンのパンク小僧みたいに破れたズボンを穿いて、鋲のついた黒革リストバンドを巻き、髪を立てていたわけでもなく、アメリカ西海岸のハードコア的原色に象徴されるTシャツを着こなしていた訳でもなかったけれど、彼女にはその形容がぴったりと重なり合うような気がした。それは、意志の強さを感じさせるようにきゅっと結ばれた唇があったからかもしれない、それとも、真っ直ぐな瞳で人を深く見つめ、その視線で人に語りかけるからかもしれない。けれど、この想像にはたいした意味もないだろうし、どうしてそのように感じたのかぼくには分からない。 彼女はあまり着るものにこだわりを持っていなかった。浮かんでくる情景は、ある夏の日、真白なシャツと青いスリムなジーンズを身に付け、素足に革のサンダルを履いている姿だった。シャツの隙間から見える首と胸が強い日差しを受け、白く反射させていた。 ときどき、その奥行きのある瞳を覗き込み、深い哀しみとそれに抗っている色彩を自分だけが特別に読取れるような気分になった。 それらの出来事があった頃、ぼくは素直にこう信じていた。つまり、ミライの世界に於いては、ここにある様々な個人的な問題も、多数の人々が共通に抱えた問題も、恒久的な努力と人々の意思と時間の流れで、よい方向に変化していくものなのだと。乗り越えられない深刻な問題などは何もないのだ。きちんと何処か目的の場所に漂着できるのだと。 まだ、自分の生殖器に新陳代謝作用以外の使い道があるのだと知ってから数年の歳月しか経ってはいなかった。 違う街で初めて行なう独りきりの生活のなか、春に取り交わした海に行こうという約束のために、せっせと教習所に通い、運転技術の習得することに向けて熱心に取り組んでいた。ときどき授業を抜け出して、空くかどうか分からない実技実習の待ち時間、ベンチに座り、音楽を聴き、本を読みながら待っていた。たとえば、サリンジャー、大岡昇平、プロディジー、ガルシア・マルケス、レディオヘッド、などなど。その場所で、他にも多くの音楽を聴き、物語を読んだ。それらは、手垢にまみれてしまったものもあるし、とっくに忘れられてしまったものもあった。そして当時から全く関心の払われていないものもあった。 ふと行の裏側から目を離し、音楽を止めて、物思いに耽ることもあった。だいたい週二回ほどする彼女との電話で喋ったそのやりとりを反芻したり、ヨウの面影を繊細に描き出そうとしたり、約束の日に起こることを思い浮かべたりしていた。 やがて、虫たちの鳴声がこの街にも響き渡り、それが西に向かうべき季節の到来の合図だった。
罵声があってから乱暴に扉は閉められ、反対側の扉から急いで降りたボクは、少し躊躇して辺りを見回してから歩きだした彼女の後を追った。彼女の横に辿りつくと「わたしは、自分のことをオレと呼ぶ男も、ボクと呼ぶ男も嫌いなの。音楽でも本の内容でも自分で作り上げたのでもないくせに、何様かになったような態度で威張る人なんて嫌いなの。無理やり抱き寄せようとする人なんて、ほんとにっ、嫌いなの。信じられない!」と言い捨て彼女は足早に歩いた。その途中に後ろから追い抜いていく車から髭を生やした男がこちらを睨みつけ、つい先の急ブレーキに対してだろう、罵倒しながら通り過ぎていった。 「帰る」彼女はこちらを向きもせずに言った。 「ほんと、悪いと思ってる。謝るから、ちょっと待てって」彼女の横に貼りついて懇願する口調でぼくは何度か謝った。広い幹線道路の脇の雑草が生い茂った側道を太陽が昇りだす方角に向かいながら、先程、彼女に殴られた口の辺りを触ってみると、血が滲み出し、きつく沁みていた。言葉に見向きもせず彼女は歩いていく。彼女はボクの哀願を黙殺する。とうとう無理やりに彼女の手を引いて立ち止まらせようとすると、ヨウは凄い剣幕で僕に向かって、暴れながらこう怒鳴りつけた。 「さっさと放して。わたしはもう帰るの」 「わかった、わかった。ただ、帰るにしても、この方向じゃまるっきり反対だぜ。このままこの道を進んでも帰る場所はどんどん遠くなるばかりだ」 立ち止まり、振り向いた彼女の横顔は言葉を失い、少しだけ恥らう表情を覗かせた。それを見て取り、もう少しするとなんとか怒りも治まるかもしれないという希望的観測を立てた。捉まれたときには振り解こうと必死でもがいていた腕も、おとなしくなった。 「とにかく冷静になって話をしよう」 その返事として、彼女は罵詈雑言を小さく呟く。アホだの、バカだの、まあ、そういったことだ。彼女が落ち着くまでその言葉の矢面に立ち続け、だんだんと声が小さくなるのを見計らってからゆっくりと話しかけた。 「オーケー、オレは間違いなく馬鹿だ。けど、そこまではアホじゃないからさ、きちんと物事から学ぶことは出来る。サルだって学習する。だからきちんと話をして、もうしないように教育してくれないかな」 疑いの視線を向けながら彼女は僕を見つめている。ボクは車を指差し握った手と共にそこに促していった。腕を振り解いて彼女はすたすたとそちらに戻って行き、車に乗り込んだ。続いて乗り込むと、「この音楽、さっさと消して」と鋭く言い放つ。それに従って音楽を止め、さて、と改めて彼女の方に向き直る。 「悪かった点はいったいなんだろう?」どうして分からないのに謝ったの、信じられない、と彼女は顔を歪めた。 「だいたいは理解できるよ。けど、ヨウの口からちゃんと聴きたいんだ」 しばらく沈黙が続く。そして諦めたように彼女はこう言った。 「まず車を運転しながらふざけて抱きついてくるのがおかしい。音楽について押し付けがましく、ごちゃごちゃ言って見下した態度を取るのもおかしい。わたしは、恋人としてあなたと付き合っているわけでもない。海に行こうと、ずいぶん前だけれど、あなたに勝手に約束と決められただけで、ただ誘われたからこうしてここにいるの。わかる?」頷きながら話を聞き「まさに、言われたその通りだと思う。ただ音楽に関して以外はね。これからは機嫌を損なうようなことはしないように努力するよ」と答えた。喋り終えると、彼女はそっぽを向いて僕の話を聞かずに外を眺めている。その様子を眺めながら、煙草に火を点け、もう一度唇に触れた。 まいったな、人に殴られるなんて何年ぶりだよ。けど、自分の一番の問題はだ、ヨウのことをとても好きだってことだろう。つまり一週間も前から今日のことを考えると、独り部屋のなかでニヤニヤ笑っちゃうぐらいだ、まったく。 「ところでさ、自分をオレともボクとも呼べないのなら、いったいどの一人称単数代名詞を使えばいいんだろう?」 そっけない返事。「さあ、知らない。自分で考えれば」しばらくそれを考えてみるが、まったく適当なものが思い浮かばないので諦めて、違う音楽をかけようと車の中にある父親のCDを漁り、手に取ったクラシックと思われる二枚のCDに書かれたアルファベットの題名を読み上げた。 「えーと、チョピンとバッチ……? 聞いた事ない人だけど知っている? どちらが聴きたい?」 「ショパンにバッハでしょ。どちらも要らない。もう音楽は無くていい」なるほど、と僕はその指摘と訂正と提案に頷いた。 「人間は素面で生きなくちゃいけないからね。何に頼るのも無しって訳だ」 これを聞いたヨウは何を考えるのだろうと彼女の様子を伺った。じろじろ見ないでくれると彼女は言う。 「行かなくてもいいの?わたしは別にいいけれど」 やっとのことで窓から視線を道の先に向け、シートベルトを締めた。それを聞くとすぐに車を発進させようとしたことに対し「ベルト、締めたら? あなたが勝手に死ぬのは構わないけれど、途中で警察に捕まってこれ以上、時間を潰すなんて考えられないからね」と彼女は首を右に傾げ、ようやくまともにぼくの顔を見ていった。さっとベルトを引っぱり、ギアをDに入れて走り出す。暫らく無言で走り続け、やがてどちらともなく笑い声が上がり、二人の空間に反響した。 「ねえ、さっき言ったことはわざと? それとも本当にそうとしか読めなかった?」彼女は笑いながら僕に訊ねた。 「ほんとに判らなかったんだ。まいったね」チラリと彼女のその姿を見て答えた。その笑い声が止み、「ねえ、どうしてわたしが怒ったのか本当にちゃんと分かってる?」嫌がっているにも拘らず、彼女に対してあまりにふざけ過ぎたことや、無理やり肩を抱いたことや、あるバンドを知らないことに対して見下したような意見を言ったことなどを挙げた。そして、音楽のことにだけは、弁明をした。なんにせよ、彼等が悪いわけじゃない自分の好きな音楽をヨウにも好きになって欲しかったんだ。 「多分ね、久しぶりに会ったからとても嬉しくて興奮していたんだ。その感情表現が脱線していってしまったんだ」 ボクは自分の状況を伝える。 「クリーム、クラプトンがいた大昔のバンドだよ。もしかしたら知らなくて当然なのかもしれない」それらに頷き、彼女の右手が少し腫れたぼくの唇にふれる。「痛い?」と鞄から取り出したティシュペーパーでその血を拭い、あたし、始めて人を殴ったわ、と何故か嬉しそうにそっと囁いた。 「大丈夫だよ」その紙を受け取り「それより仲直りしよう」とぼくは答え、左の掌を彼女の前に差し出す。その手を彼女は臆病な小動物の動きみたいに右手で「トントン」と軽く叩いた。何度目かでその小動物を掴まえ、少し力を込めて握り締めた。ヨウの手の温度を感じる。 いたい、と短く叫び彼女は唇をぎゅっと結び睨む。無理やり左手をステアリングに押し付ける。そして、あんたは暫らくそこから動いちゃ駄目、と命令した。微笑みながらそれを眺め、まだ生まれて間もない太陽の輝きと、窓から吹き込む夏の風を感じ取った。少し躓いたけれど、新品の一日は残っていたし、朝早い道は空いていたので、この調子で行けば、正午には海に着くだろうと予測を立て嬉しくなる。 そして、ボクは口笛を吹いた。それから、海につくまで、我々は春から始まったお互いの新たな環境について語り合った。 この町を出てからできた唯一の友人のことを話した。
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