その人はずっと窓から通りを見ていた。ガラスには彼の顔がくっきりと浮かび上がっている。照明の反射したテーブルは鋭く輝き、音楽と人の息遣いが途切れることがない喫茶店の中だ。来る人がだんだんと変化していく時間にその人は来た。
店の主人は不味く造られるコーヒー豆を毎日炒り続けている。彼のかける音楽は時として私に遠い記憶を思い出させた。古い音楽だった。ブルース、ロック、ジャズ、クラシックをかけるときもあった。楽器の音色や歌声や太鼓のリズムは、私を何処かに連れて行った。とても寒い、風の強い冬の日に、ストーブのついた暖かな部屋にいるような気がした。窓が風でカタカタとゆれる。かすかに、何かがゆらぐ。けれども多くの人々の空虚な顔が、私のそのとりとめのない感覚を拭い去っていく。 何も考えるな。 私は十八歳からたくさんの街で、深夜まで開いている喫茶店の店員として働いてきた。そのほとんどが知らない街だった。 新しい街に住み、だんだんとその街の輪郭が出来ていく過程が好きだった。 仕事が終わった後に、あてもなくの街を歩くのも好きだった。暗闇から輝きに変わっていく空が好きだった。空は刻一刻とその表情を変えていった。街に人影はほとんど無く、建物はそこにあったであろう様々な思いを残さずに吸い込んでいく。カラスたちが鳴く。ひどく汚い街もあれば、とても綺麗な街もあった。でも、どんな街でも朝の空気を吸い込み、とても澄んでいた。入り組んだ細い路地を縫って歩いていった。大きな並木道も歩いていった。私はそこでいろんなものを見た。 路上で寝る人々。吐瀉物。美しい朝焼け。鳥たちの歌。ひどく酔っ払って卑猥な言葉を怒鳴りつけてくるサラリーマン。虫たちの声。頬を赤くして走る年配者。神社の鈴の音。ごみをあさる猫たち。道の隅に咲く小さな花。吐き出す息の白さ。朽ちた家。公園で抱き合って眠る恋人。誰かが誰かを大声で罵る声。水溜りに映る空の蒼さ。 風景は私の中に入り、そして、静かに出て行った。 仕事と街歩きで疲れた体を熱いお湯につけてほぐした。少し開けた窓からせわしなく何処かへ向かう人の群れを眺めた。人々の営みが始まる頃に私は眠りについた。
経験から言うと、深夜営業している喫茶店は最終電車が無くなる時間が過ぎたら、すえたにおいにかわる。どんなに綺麗な店でも、その匂いは消すことが出来ない。むしろ、清潔であればあるほど。私はその雰囲気の中にいると、ほっとする。ここでは何も考えなくていいからだ。人々はわけの分からない匂いや、何かわけの分からないものを、ここで洗い流していく。来る人は大体において静かにしている。騒いでいる人や大声で話している人はあまりいない。人々はなんだか、昼間の夜行性の動物のように、行儀良く、まずいコーヒーや紅茶と名前のつけられた色のついた液体を飲み、小声で話し、時に笑い、やがて帰るべき場所に帰っていく。店内には、はやりの中身の無い歌が流れている。私はそんな人を眺めている。人々が無為な時間を見ているのがすきなのだ。その中にいると自分がきちんと扱われているような気がする。 この店はそういう点では、完璧とは言えなかった。だいたい夜の六時から開く喫茶店というのは、私の知る限り、ここしかない。主人は五十代の髪の薄くなった、髭だらけの顔の、粗野で下品な男だった。倉橋と言う名前だ。昔は広告代理店に勤めていたらしい。笑うと欠けた歯が見えた。一度、どうして歯が欠けているのか聞いてみた。彼は嬉しそうに、機動隊に折られたんだ、と言う答えが返ってきた。そのときの彼の表情はとても穏やかだった。
その人は少し髪が濡れていて、石鹸の香りがした。
店は十八人も入ると満席になる小さな店だ。だけれども、店が満席になった事はあまりない。木のカウンターが三席と木のテーブルが四つだけある。本や雑誌やレコードで店は雑然としていた。 店主は客が入れ替わり立ち代り入るのを嫌がった。 「音楽がゆっくり聴けないじゃないか。」 彼は粗野で下品だったが、欲深くは無かった。だから、いつまでたってもコーヒーが美味しくならない。というより、彼がコーヒーを作る事はとても珍しかった。いつも、なじみの客とビールを飲みながら音楽を聴き入っていた。なじみの客がいないときは、一人でビールを飲み、ぶつぶつと何かを言いながら音楽を聴いていた。だから、私がコーヒーや紅茶を造ることになった。もちろん、おいしくなんて造らなかった。私はまずいものをまずそうに飲んで退屈そうに時間を潰している人を見るのがすきなのだから。そういう人々はどんな人でも、とても内省的にみえた。 店内には目の周りが赤く染まっているスーツを着た三十代ぐらいの男性と、向かい合わせに座った一組の大学生ぐらい男女、カウンターに座っている店主の友人がいた。 スーツをきた男性は、ぽかんと口を開け、煙草を吸いながら、何かを考えていた。何も考えないようにしようと努力してはいるが、それとは逆に想像は止まらないみたいだ。時々、ビクンと体を振るわせた。それを取り繕うように、辺りを見回し、エスプレッソを一口飲んだ。そして彼はまた自分の世界に入っていった。 音楽が鳴っている。優しいサックスの音が響く。 若い男女はぼそぼそと何かを話している。あまり楽しい内容ではないようだ。女の子は少し寂しそうな顔をする。男の子はそれについて弁明をしているみたいだった。やがて、二人は話しあう事が無くなり沈黙が彼らの上にぼんやりと、まるで十月の朝靄のように被さっていく。 店主とその友人は次にかけるレコードを何にしようかという相談をしていた。店主の友人は髪の長い、鋭い眼をした男だった。さんざん討論した末にようやく何をかけるか決まったようだ。店主がレコードを取り出し(少女たちが裸で岩場を登っているジャケットだった)そのレコードに針を落とそうとした時に、その人は店内に入ってきた。ドアがカランと鳴り、彼と共に五月の爽やかな風が入ってきた。私は、今日がとても天気のいい日だったことを思い出した。風はとても心地よく、木々の新しい葉はやわらかく輝いていた。そういう日の夕闇は切ない。 彼はまるで自分の家に入ってくるようにとても自然に入ってきた。店主は彼の存在にまったく気をかけずに(もしかしたら気づかなかったのかもしれない)先程までかけていたレコードを閉まった。他の人々も彼を一瞥しただけでほとんど関心を払わなかった。彼は席に座り流れ出した音楽を確認するように天井のスピーカーを眺めていた。軽快なギターが流れ出す。彼があまりにも自然に、不自然なぐらい自然に、雰囲気に溶け込んでいるので、挨拶をするのも忘れていた。ぼんやりと彼を眺めていると、店主が私を呼んだ。そして彼の方を顔で示した。 そうだ、私は喫茶店の店員だったのだ。 急いで水を持って行き、メニューを手渡した。 「コーヒー。」彼はメニューをまったく見ずにそう言った。そして私を見た。その瞳はとても透明だった。 「アイスにしますか?ホットですか?」私は、視線をそらしながら訊ねた。携帯電話の音が鳴る。彼はしばらく考え込み、温かいコーヒー、と注文した。 スーツを着た男性が電話に向かって声を出す。 「もしもし・・・うん・・・うん・・・わかった。すぐに行く。」彼は溜息をつきながら伝票を持って立ち上がった。カランと扉の鈴が鳴る。彼が、名前の無い人が、出て行くと少しだけ店は淋しがる。 珍しく店主がコーヒーを作り出した。コポコポとコーヒーの煮えたぎる音と共に、コーヒーの香りが拡がった。灰色のカップにコーヒーが注がれる。どうしてか、そのコーヒーはとても美味しそうに見えた。 「お待たせしました。」カップをトレーからテーブルに移す。彼は小さくうなずいた。そして、灰皿を持ってきてもらえますか、と深い水色と白のストライプのシャツのポケットからマルボロを取り出しそう言った。何かキーホルダーのようなものも取り出して机の上に置いた。そのキーホルダーのようなものは青いものと赤いものだった。時計は一時を回ろうとしている。彼は煙草に火をつけ、コーヒーをすすった。私はずっと何かほかの事を考えようとしていた。彼の匂いは子供の頃よく遊んだ草原を思い出した。そんな事は思い出したくなかった。私はこの店で働き出してからあまり街を歩かなくなったことも思い出した。どうしてだろう。前まで働いていた店より早く終わることが多かったからだろうか。明るい曲なのに歌声は何故か悲しそうだった。今日、店が終わったら、久しぶりに街を歩こう。
突然、女の子が泣き出した。 「どうしてそんな事を言うの。」という声が店に響き渡る。一瞬、全員の視線が彼と彼女に注がれる。彼女は彼に対して非難の目を向けていた。彼はひどく居心地の悪そうな、しかめた顔で彼女に何かを呟いた。彼女は目を真っ赤にしてトイレに駆け込んだ。彼は彼女がトイレに入っている間、ずっと、紙ナプキンを畳んだりひっくり返したりした。自分に注目が集まっている事にひどく戸惑っているようにも見えたし、ひどく満足しているようにも見えた。彼の服装はきちんとしていたし、それなりにおしゃれでもあったが、残念な事に彼にはその服は宿命的に似合っていなかった。脳みそを何処か他に預けているような服の着こなし方だった。個性的だと思っていて、その実は砂漠の砂のように何処にでもあるようなものだ。それに比べれば、女の子はずいぶんまともな子だった。彼女は自然に服を着ていた。服も彼女に着られてうれしそうだった。私は視線を食器に戻し、また洗い始める。他の人々もあまり興味がなさそうに元の姿勢に戻った。店主とその友人は残りのビールに取り掛かった。窓際のその人は外を見ながら赤と青のキーホルダーをいじり回していた。トイレから出てきた彼女は彼の方には目もくれず外へ出て行った。「ちょっとまてよ。」と彼は彼女に言い、急いで清算を済ませ、店を出て行った。 店主と友人は今の出来事に対して、作り話を交えて話し始めた。 その話は荒唐無稽だったが男の子が悪いという点では私と同じだった。 洗い物を終えた私はキーホルダーをいじるのを止めて窓から通りを眺めている人をじっと見た。私はさっき見た光景を思い出そうとした。しかし、それがあった場所に本当に自分がいたかどうか自信が持てなかった。滑稽な場面や哀しい場面や幸せな場面や怒りの場面の映画が少しはなれた場所で上映されていた。自分はその漏れてくる音を微かに聞き取っているだけのような気がした。通りには人気がなく、時々歩いていく人々がとても幸せそうに見えた。ビルに付けられた赤や青や白や緑のライトが道を照らし出していた。その人は静かに通りを見続けている。 店主たちは先ほどの人々の話を切り上げ、次に何をかけるかをまた相談し始めた。私はラヴェルのボレロが聞きたかった。店主にその曲をかけて欲しいと頼んだ。彼は快くそのレコードをかけてくれた。私は二年前にこの喫茶店でこの曲を聴きそれ以来とても好きになった。何かの始まりを称えているようでもあり、何かの終わりを称えているようでもある。小さく旋律が始まる。彼はその音楽が始まると通りからふと目を離し、宙を見つめた。そこに何か大切なものがあるかのように遠い目をした。 曲の半ばで店主が外の看板の電気を消して帰っていいよ、とめんどくさそうに言った。そして、また音楽を聴いていた。私は最後まで曲が聞きたかったが、店の看板の明かりを消し、奥の事務所に着替えに行こうとした。店の中を横切る時、また彼を見た。彼は頬杖をつきながら目をとじ、その音の集まりを楽しんでいた。
時計は二時を回っていた。街はまだ少し熱気を残していた。私は四条通りを西に向かって歩いた。人影はほとんど無かったが、まだ多くの車が走っていた。私はどうしてそんなに車が走っているのか理解できなかった。私は適当な角を曲がり、歩き続けた。店にいた人の顔を思い出した。どうしてか、私はひどく惨めな気分になった。空を満月になり損ねた月が照らしていた。今まで、私に多くの人が語りかけてきた事を思い出した。とても優しく語りかけてきた人だって何人かいた。私もその人たちに何か大切な事を伝えたかった。けれど、だめだった。私の言葉はとても弱くて、不完全すぎた。それは、とても悲しい事だった。自分は何かを持っていた。もしかしたら錯覚かもしれないけれど、私はそれを失くしたのだろう。五月の風が私を追い抜いていった。今日は夜が明けるまで歩いていよう。シャッターの閉じられた商店街に足音が響く。何処をどう歩いたのかほとんど覚えていなかった。何人かの人とすれ違った。その顔はまったく覚えていない。コンビニエンスストアには少年や少女がたむろしていた。彼や彼女たちの顔はとても退屈そうだった。私は何も考えないようにした。ただ歩き続けた。何かの破片のようなものが浮かび、消えた。私はただの風景だった。私は何も見ていなかった。 どれぐらい歩いたのだろう、私は自分が店の近くを歩いている事に気が付いた。街灯の光は誰もいない場所を照らし続けている。車のヘッドライトが何かを映し、何かを消した。街はどんどん私に優しくなった。小さな無力感が泡のように現れそして消えていった。このまま消えてしまうのも悪くないなと思った。ぼんやりと歩き続けていると、あかりに照らし出されて歩いてくる人がいた。私は何故かとても違和感を覚えた。その人は喫茶店にいた人だった。私はその人をじっと見つめた。彼は私の存在にまったく気づいていなかった。彼は腕から血を流していた。その血は道を点々と、まるで何かの道標のように続いていた。 「だいじょうぶですか?」 彼は声にびくんと反応して、立ち止まり、私を見た。その目は透明ではなかった。とても濁っていて、汚かった。 「血が、出ていますよ。」 彼は自分の手首を見つめ、その刃物で付けられたような傷を見た。流れ出しているその血を、少し舐めた。そして、私を見て微笑みかけた。私は、その腕を、血の出ている場所を両手で強く握り締めた。彼は何をしているんだろうという目で私を見続けている。その血が私の手の甲から一筋、流れていった。私は、草原を思い出した。子供の頃ずっと見ていた草原だ。突然、何かが切れたように彼の体から力が抜けた。彼の体は私と共に崩れ落ちた。私は何をすればいいのか分からなかった。彼の体を仰向けにして、その左手を持ち上げて強く握り締めているだけだった。血は温かかった。 「ここはひどく寒い。」 何度か彼はそう呟いた。彼の頬をさわった。血が彼の頬についた。ぼんやりと彼は何かを探していた。口からよだれを流し続けた。だんだんと彼の体が冷たくなっていくのが分かった。 「どうしたんだ。」と後ろから声がした。二人の髪の短い、三十歳ぐらいの精悍な人がいた。そして彼を見て、私をどかした。 「おい、救急車は呼んだのか。」と一人が私に大声で聞いた。私は黙って首を振った。もう一人は彼に呼びかけ続けた。反応はまったくしなかった。一人がハンカチで彼の腕を縛った。もう一人は携帯電話で救急車を呼んでいた。怒声が飛ぶ。私はそんな光景をぼんやりと見つめていた。草原には私がいた。風で草たちがなびく。私は月明かりを浴びて踊っている。やがて遠くからサイレンの音が響く。
よどんだ空気があたりを漂っている。少女の額には銃痕があり、乾いた血はその顔の影になる。いつ入ってきたか、蛾が電球に体当たりを繰り返していた。 からだを取り囲む部屋には、唸る冷蔵庫のモーターと、回転するコンピューターのファンが、空気を微かに揺らしていた。それらは耳鳴りに似ているが、囁き声のようでもある。仄かな街灯がブラインドの隙間からここに射しこみ、モニターの光とかさなり、消えていく。煙草の煙は少し戸惑ってからその帯に吸い込まれていった。 少女は視線を投げ出し、不毛な大地に横たわっている。不自然な身体は何かストレッチでもしているようだ。 南米の乾いた小さな町でその死体は何を見ている? いつものようにここからその少女に横たわる距離を測ろうとする。その距離はとても、遠い。彼女になにか、いわなければならないような気がし、その求めている言葉の断片を紡ぎとろうとする、けれども、羽音が浜辺の砂のように手からきらりとこぼれ落ちていく。 褐色の顔は泥で汚れ、引き裂かれた服を纏う。中央に写る壊れた壁。そのくすんだ壁の影が彼女の足に伸びる。歯の白さは、どこか場違いな雰囲気を出している。二人の少年が壁の向こう側から少女を見つめている。まだ若い十代としか思えないその少女の周りには九人の大人の男が取り囲んでいるが、その目は何も語ってはいなかった。いや、そこにはある親密な無力感が厳然と存在するのかもしれない。 ある人がこの写真を取った。誰かは知らない。 白髪の入り混じった短い髪と、強い太陽に照らされて真っ黒に焼けた肌。その色の黒さに映える白いポロシャツ。大きくて黒い瞳がレンズを覗き込む。胸のポケットにはペンとメモ帳。何処かの民族衣装の模様を思わせるストラップ。胸に下げられたペンタックスの古いカメラ。忙しなくうごき、姿勢を固め、そうして、彼はシャッターを数度切り、漠然とした蠢く塊を切り抜く。ふとこちらを向き、その澄んだ瞳で、にっこりと笑い、その瞳孔の深みに絡み取られそうになる。 いったい何時までこんな戯言をいってるんだ、簡単な事じゃないか、通過するだけだよ、後は綺麗さっぱり何も残らない、こんな風にね、 彼は少女の足をつかみ、ずるずる引きずっていく。血はもう流れていないか、それとも、赤茶けた土に隠れてしまったか、もうそこには彼女の手が作った二条の線しか残っていない。その線を男たちはじっと長い間見つめている。 苦笑が部屋に響く。想像力が欠けてるんだ。蛾はその響きに驚いたのか、また電球に当たり始める。ソウゾウリョクがかけてるんだ、そう呟く。まっすぐに昇っていた煙草の煙が、ゆらりと乱れる。彼女はまだ粗い粒子の中にいて、今も世界のどこかで死に続けている。
二ヶ月という時間をかけて多くの人の死の写真を見たせいか、口が乾いていた-。何かの部品にしか思えないような人々のからだ。倦怠が何日かあたまの上にぼんやりとあった。ペットボトルに入ったミネラルウォーターを口に含み、それを光にかざし軽く振ってみる。水は小さく光を反射させる。 人々はもっともらしい原因で生を終え、また、理不尽な理由で生を終える。あるものは凄惨であり、あるものは荘厳であった。 初めのうちは、自分が何かを作り出していたように感じていた。それは、とても昔の事のように思えるが、たった三週間前の事だ。一ヶ月前までは仕事にも行っていた。時間の感覚が歪んでいる。上手く捉えられない。長い間こんな生活を続けている様な気がした。何をしていたのだろうか? よく思い出せない。とにかく、写真を見続けた。 この月は雨降りの日が多かった。陽光は拡散し、床の上に無数に散らばっていた。雪のような冷たい雨。何かを糾弾するように激しく降る雨。霧のような細い雨。永遠に降り続くような雨。 歓声、喧騒、生活の音から遠く離れ、雨の音は長い間、そこにあった。彼らは屋根をたたき、アスファルトをたたき、木々や動物を濡らし、走る車をたたき、歩く人の傘をたたく。その音はとても優しく世界を濡らし、揺れる音が包み込んでいく。切れ切れの雲のむこうで、太陽はその光を増し、そして世界を淡い色に染めなおす。やがて春が深まり音は消えていった。すべてが薄く引き延ばされたような静けさで流れていく。時は流れる。 コーヒーのためにガスコンロで湯を沸かし、壁に止まった蛾を窓の外へ導く。蛾は試行錯誤のすえ、外の世界へ旅立っていった。たっぷりとミルクの入ったカップの湯気が眼を曇らせた。ぼやけた視界の中で大きく息を吐き出した。 そして、モニターに映っている少女の画像を消し、コンピューターをシャットダウンする。ぷつんと光は消える。夜が明けはじめる頃。多くの人が今日の戦いのために眠っている時間だ。やがて東の空は明るみ始める。雲が灰色から薄い桃色に輝く。そして新しい一日を呼び起こそうとするひかりが体を眠りに誘う。風は南から西に吹いていた。最後の星が太陽の光に飲み込まれようとしている。「新世界」第四楽章のテーマを口笛で吹く。音と、何処かから何処かへ向かうトラックの音が少し混ざり合う。それは何かを讃える歌声の様に聞こえる。
一日はこうして始まっていく。
シャワーの温度は、すこしだけ現実感を与えてくれる。熱いシャワーを浴びているとき、ふと、口蓋が空気を揺らす。空気を揺らし終えたとき不思議な気分になった。それが自分の中にあった言葉とは思えなかった。それは突然やってきた。意思も意識も無いところから。
大きな岩が 生まれて くると 小さな声で いっていた 夢か 現か わからぬが それに戸惑う 事もなく 彼らは 道を 作り出し やがて小さな 町に出て 彼らは バラバラ 降ってくる あめに うたれて ないていた
少し笑い、またその詩のようなものを詠んでみた。小さなユニットバスに声は反響する。頭のどの部分から出てくるのだろうか。詠み終わると、少し悲しくなった。何処にもいけやしない。歯を磨きながら自分に笑いかけようとしたが、鏡の彼は片方の唇をすこし上に持ち上げただけだった。そして、もっと悲しくなった。 新しい服を纏い、プレイヤーにバディ・ガイのディスクをいれベッドにもぐりこむ。目を閉じると少女の顔が浮かんでくる。彼女のことを想う。家族と夕食を食べている時の事、恋人と語り合っている時の事、弟と喧嘩している時の事。彼女はとてもキュートだ。笑顔がとても馴染んでいる。でも、これは想像にすぎない。もうこの世界に彼女はいないのだ。彼女が誰かに語りかけることもなく、誰かが彼女に語りかける事もない。アンプから小さく古い愛の歌が流れる。枯れた声が届く。やがて意識は混濁していき、色のない眠りが訪れる。
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