息を止め、ふかく潜れ―― ふやけた指は白くなった。それはホルマリンに浮かんでいる間抜けな蛙の斑点を思わせる。手の半分だけが、湯気の中から飛び出し霞んでいる。伸びた爪を切ろうと思ってから、三週間ばかりそのままになっていた。 蛇口から水滴が落ち、二つの手を何度か反転させ眺めると、そのたび表面の波が揺れ裸電球の灯りを反射させた。左手の甲は体のどの部分よりも美しかった。右手と見比べると、その違いは顕著だった。長年の酷使で右手はごつごつして指は太く、幾分短く見えるが、華奢な左手はすらりとそのあるべき場所に張り付いており、そこには不自然さなどは微塵もなく、その存在さえも感じられない。 それが羨ましかった。 その希薄な左手で鼻を抓み、両足を折り畳んで、窮屈に浴槽に沈み込んでいった。 世界の様相は変化した。 眼を閉じ、水の中で響く、膨張した音に耳を澄ます。換気扇の振動が浴槽の壁から伝わる。水滴が蛇口から滴り落ちる。それはこの溜りを反発して跳ね、そしてその一部に含まれる瞬間が、水中では短く響き続ける。雑音は遠く響く。 水中で眼を開けると、鼻を抓む左手が見え、垢や髪の毛が漂い、薄い膜の先に生殖器一式があった。陰毛が揺れていてクラゲみたいに動く。黒いクラゲ、あるいは密集し乱立する海草。屈折する光りの中で、やたらに自分の肌の色が気になった。ここで見ると、それらはここにはそぐわない色彩のようで不恰好に感じた。 親指と人差し指を鼻から離し、肺に溜め込んでいる酸素と窒素と二酸化炭素を一息に吐き出す。喘ぐ気泡が耳元で弾け飛ぶ。 段々と苦しさが増し、その息苦しさを客体化しようと試みる。酸素の渇望が自分の欲望なのかを確かめようとする。確かに僕は呼吸する事を求めていた。しかし、その欲求はどこか他人事みたいに思えた。 溺れる六歩ほど手前でそこから抜け出した。潜った前と何か変化は無いかと、自分の体をしきりに撫で、辺りを見回すが、当然のことながら違いは見出せなかった。相変わらず小さなユニットバスの視界があった。 ボクは飽きもせずにボクのままだ。 「自律神経系」 ――適者生存・シニフィアン・確定申告・抜歯・ポリリズム・離人症・鏡像原理… しばらく口まで湯に沈み、いつものように泡を立てていた。それから、濡れた右手を髪に撫でつけ、水分が付かないように注意しながら煙草を一本吸った。冷たいはっか煙草を吸い終わると、浴槽の栓を抜いて立ち上がり、水道をシャワーに切り替え、カーテンを引いて、噴出す湯を浴びながら体を洗った。暗闇に落ちていく浴槽の湯は石鹸の泡や髪や浴槽にこびり付いた汚れで濁った灰色に成り果てていた。洗浄の行程を全て終えると、シャワーの取手を掴み、様々な角度から泡を流した。それを元の場所に戻し、勢い良く飛び出すぬるい水でタオルを絞る。それから口を開けてその何本もの線を咽の粘膜で受け止めた。眼に入る飛沫を我慢しながら、圧力から開放されて小さな穴から飛び出る弧をまた数えだした。 ようやく十四本まで確認したところで、呼び鈴が家に鳴り響いた。始めは無視しようとしたが、二度目にそれが鳴ると諦めて、蛇口の栓を捻り、排水口を塞がなくするため半透明の浴室カーテンをシャワーのホースに引っ掛けた。残り湯が不気味に唸りながら排水口に吸い込まれていた。 浴室で体を拭きながら、少し待ってください、と扉を開け玄関の向こうに声を掛けた。二度目のチャイムが、押し付けがましくなく丁寧に押されたと感じたので、それに応えることにした。一度目の音から絶妙な間隔を置いて呼び鈴は鳴った。これ以上時間を取りすぎても、これより先に鳴らしてもいけない、完璧な二度目のチャイムの呼び出しであった。 滅多に拝めるものでもないだろう。 扉の向こうに佇んでいる人を想像した。誰だろうかまったく分らなかった。日曜日の午前中にここに訪れる人はまずいない。日曜日以外の日でもまずいないのだから思い浮かばないのも当然だ。大方、郵便配達人か、運送業者だろう。ある程度体を拭き終えると箪笥からボクサーズショーツを取り出して身に付ける。少し迷ったが、その格好のままで扉のノブを廻した。 まだ白い水蒸気が肩から発散し立ち上っている。 扉の先には初老の女性と一人の少年が立っていた。この姿を見て女性は少々面食らったようだ。言い訳でもするように肩に掛けてある大きなタオルで濡れた髪を擦った。 「入浴の最中なのに申し訳ありません。わたしたちは、この地域にある教会のものなのですが…」 腕に掛けてある、黒い革の鞄からパンフレットを取り出した。俯いて彼女はなるべくボクを見ないようにしていた。温かそうなハイネックのセーターは鼠色であり、その上からモミをあしらったカウチンセーターを羽織っている。 僕を見上げていた少年と目が合うと彼は急いで視線を外し、扉の横のシミだらけの壁を眺めた。ダウンジャケットを着て、アクリル素材が光る派手な縞模様のマフラーを巻きつけているが、その両方が少年の小さな体にはいささか大きすぎた。その変わりに、合成樹脂の耳当ての鮮やかなブルーと、親指以外は別れていない濃い茶色の手袋はばっちり似合っていた。少年はまた僕を覗き見た。目が合うと、魚が逃げるように、視線は壁に戻った。馬のような深い輝きと、蜂のような異質の光が、瞳から放たれている。被差別地域や、貧困地域、第三社会と呼ばれる大地に住む幼い子供たちが笑うとき、この瞳の色合いを醸すもののように感じた。 少年の瞳は僕にある効果を与える。影響されないわけはいかない。 「独善」というコトバが頭を貫き、それが引鉄となって、映像が自然のうちに溢れ出した。 たとえばこのような状況。このような会話。 食卓を取り囲んでいるのは、やさしき母親と、その子供だった。 「きちいんと聞きなさい。地球にはね、すごおく、おなかをすごおく減らしているのだけれど、なあんにも食べられない人だっているのよ。だからおなか一杯お食事できることは、とおっても、幸せなことなのよ。だから、残さずに、そのにんじんも食べなさい」 「食べないぃ、にんじん嫌い。じゃあ、おかあさん、その何にも食べられない人に、これ、あげればいいのに…」 もしくは、このような状況。 家族の団欒で、物知りの父親と、その子供たちの会話が聞こえる。 「これから話すことを、よおく、考えなさい。日本人とアメリカ人が五日に一回、たった一回だけまったく肉料理を食べなければね、この世界には餓死がなくなるんだよ。牛や豚もお食事をする。その牛や豚なんかが食べる食物を餓えている人に与えるようにすればいい。だから、好き嫌いせず、お肉ばかりじゃなくて、お野菜も食べなさい」 「うん……でも、なんにも食べられないなんてかわいそうだね、お父さん」 その物乞いたちが住んでいる土地は、遥か彼方の空の下に拡がる大地であり、決して、近くの公園で暮らすくたびれた人々ではない。
マフラーの向こう側にある少年の瞳は強く、そして脆い。昔からいつのまにか僕の頭にこびりついていたジプシーと呼ばれる子供たちのものと同じだった。実際にジプシーと呼ばれる人々とであったことは一度もない。 女性から渡されたその冊子に眼を落とし表紙を眺めた。「愛の息吹とともに」という題名があり、その横に一号と書かれていた。どうやらこの年になって始めて作られているようであった。表紙には実った麦畑で遊ぶ二人の青い目をした少女が笑い、その子供たちを見守っている彼女たちの両親であろう、寄り添うふたりが小道に立っている。 「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」 二人の少女の頭上は青い空が広がり、そこにこの文句が黒く印刷されていた。両側を部屋で挟まれたこの集合住宅は薄暗く、天窓から零れ落ちる光が陰湿な廊下を跳ねていた。 ――イエスさまは人々のすべての罪を贖うために十字架にかけられて死んだのです。わたしたちの罪を許し、復活なさったイエスさまの御心にはあなたも含まれているのです。 表紙は淀んだこの廊下にはまったく場違いだった。この人々は、パンフレットで見る限り、伝統的なキリスト教の団体ではなくて、つまり、プロテスタントやカトリックやロシア正教会や解放の神学ではなく、新興宗教系のようである。 たしかその教義は堕児という行為を許さないようだ。 視線を靴の先に俯けていた老女がこちらを向く。錆びたロボットの人形の首を無理に動かしたような音が、老女が視線を移した時に確かに響くのを感じた。
彼女の口調は僕が二人組みのモルモン教徒に囲まれた時の感覚を甦らせる。その二人はとても感じがよく清潔で、いわゆる白人らしい白人であった。通りがかりに自転車を降りた彼らは、親しげに話しかけてきた。そのやり取りは、すこし何かがずれていて、そして僕を不安にさせた。 テニスコートで卓球をしているみたいに、ちぐはぐした隔たりがあった。 帰り際に、彼らのうちの一人、青い目で眼鏡をかけたにきびだらけの青年が、リュックサックからモルモン経という本を出し、彼らの聖典である事を僕に説明してから、くれた。 「これはワタシからのオクリモノデス。トッテモささやかなモノ…けど、トッテモためになること、カイテマス。ゼヒ、読んであなたのジンセイに役立ててホシイデス」 それからまた、ガラクタの知識が昔の薬棚の無数の引き出しを思わせる脳のシナスプが構成する引き出しに収まった。嘘つきスミス、つまり、末日聖徒イエス・キリスト教会の成立と発展の歴史を知り、その創始者であるジョセフ・スミスの変化に富んだ日々を知ったということだ。 そしてそれは、彼が見つけ出したと言い張る聖なる金版の物語と、彼がついた嘘と、その魅惑的な物語に引き込まれていった人々が起こす滑稽な悲喜劇と、スミス自身それを正当化し、自分をだましていく過程と、それが時代と呼ばれるものに撒き散らした余熱であった。
「あなたの日々の生活は、平穏で満ち足りたものでしょうか? なにか悩みや不満などはおありではないですか?」 老女が言う。その言い回しはきっと何千回も繰り返されたものだろう。 ジプシーが足をもぞもぞさせる。彼はその空気の震えをさっと捥ぎ取ると、壁のしみにそのレーゾンデートルを与える行為を再開した。老女の白が混じった髪と、それが額に落ちている不揃いの境界を見詰めた。モルモン、と声に出さずに呟く。それはこの老女にぴたりと繋がり、まるで彼女のためにある言葉のようだ。 モルモンは問いかけたあと、沈黙した。その表情はしばらく僕が彼女の問いかけに考える猶予を与え、それから、何かしらの返答を求めるものに変わった。その変化の間合いはチャイムと同じように完璧なものであり、それが僕をいささか疲れさせ、うんざりさせた。 僕は彼女の語りかけた事について考えた。ほんとのところは、決まりが悪くならないように思考しているふりをしただけだった。 モルモンの表情が催促するものに変わり、何かを言いかけた。 「そうですね。まあ、満足しているといえばしているかもしれないな。けど、そういうのって、人それぞれですから、オマエの人生なんてクソだ。何の価値もない、なんて言われるとそれに反論は出来ないですけれども…」 それを聞くと彼女は少し困惑した表情になった。モルモンという単語が似合うこの女性にとっては彼女の信仰する神を認めることが彼女の幸せであり僕の幸せなのだろう。そして他の思想はすべて邪悪なものに成り果ててしまったのだろう。ジプシーはこの話にまったく反応しなかった。 「そのような事はないですよ。全ての人々は神さまに祝福されているのです。ただ、それに気が付く人と、残念ながら、その息吹を見いだせない人がいるだけです…」 モルモンは芯のある声で僕を見詰めながら言った。もしかしたら、僕を突き抜けて彼女が想う神の造詣に対して語りかけているのかもしれない。 「…だから、あなたも祝福された神の子なのです。もしよろしければ、私たちの教会においでになりませんか。そしてそのことについて多くの兄弟姉妹たちと語り合いましょう…きっと違った世界が開けると思いますし、そこでは人生の示唆が多く含まれた内容がありますし、それらはきっとあなたの血肉となってあなたを支える事でしょう…もちろんそれだけではなく、楽しく有意義な時間を過ごせると思いますし、同世代の友人も作れる事と思います…」 それからしばらくモルモンは話し続けたが、それは背景の音楽になっていた。 会話の途中で、少年ジプシーが突然後ろを振り向いたので、つられてその視線を辿ると、天窓から差し込む四角い光子の群れに、一匹の蝶が白く移ろいながら羽ばたいていた。ジプシーと僕はその輝きの中を漂う蝶の軌跡を追った。蝶は鱗粉を反射させながら、光ある外の世界を求めて上昇している。すでに彼女の声は意味を失い、消費される記号に成り果てていた。凍える季節に蝶が舞っている風景は違う場所から切り取られてここに貼り付けられたようだ。 やがて蝶は視界から消え、ジプシーがまた壁の行為に戻ると、段々とモルモンの放つ空気の摩擦が言葉としての体裁を帯びてくる。僕は彼女の動く口元をぼんやりと眺めた。そして、僕はまた、ジプシーを見た。彼は無表情に立ち尽くし、両手はダウンジャケットのポケットを無造作に膨らませている。彼の頬の赤みは、我々が先ほど見た光景を秘密の暗号を共有する少年同志である証に思えた。 モルモンはようやく彼女の唇を重ね合わせた。そして鞄から鼻紙を取り出しわざわざ横を向いて鼻をかんだ。ティシュを丸め鞄に入れ直したあと、疑問系の微笑をその骨ばった顔に取り付けた。その笑みと彼女の鼻を啜る音は、僕の十二指腸辺りを引っくり返すには十分で、遠近法のように前方の一点から背後に流れていく重力を感じた。電車の前部に縛り付けられて百マイルで走行したなら、きっとこんな感じがするのだろう。耳鳴りと軽い眩暈があり、瞼の裏には青い粒が無秩序に明滅しながら弾けていた。その感覚が過ぎ去っていくと、モルモンの耳元で囁いている自分自身の姿を僕は発見した。背後でドアの閉まる音がする。 そして小声で彼女に囁く。 ――レイプして差し上げましょうか? その声は自分のものとは思えず、だが、しっかりと輪郭を持っていた。モルモンは横を向き、唖然とした。開いた口から、金歯が見えた。彼女の目を見据えて言う。 ――骨粗鬆症で空洞だらけの骨に、クリーム色のどろどろをぶち込むんですよ。まったくこれから芯まで冷える季節なのに見ていられないじゃないですか。そのスカートを捲り上げて、四つん這いにして、後ろから激しく突き上げましょうか?―Crash! Boom! Bang!っていう具合にね。いかがなさいます? モルモンは言葉を失ってただ呻き声だけが洩れた。愕然としたのは僕も同じだったが、唇の端が自然に上がり僕は素敵な笑顔を浮かべた。これほど自然に笑ったのはいつ以来だろうか、という意識の探索もよぎった。ジプシーが物珍しそうにそれを観察している。 僕の口から引き笑いの声が洩れると同時に、モルモンは微かに口を動かし、悪魔と呟いた。そして苦しそうに胸に手を当て、顔を顰めて、目を閉じた。崩れ落ちるように膝が砕け、彼女は後ろに倒れこんだ。危うく床に頭を打ち付けるところで、反射的に僕はモルモンを抱えこんだ。そして静かに床に降ろし横たわらせた。倒れ掛かってくる彼女を避けたジプシーが驚いて、呼吸が荒く涎を垂らしているモルモンを覗きこむ。 「おばあちゃん、たおれちゃった」 ジプシーが短く呟く。屈みこんだ僕は彼を見上げた。彼の血色がもっと輝き、そして世界に対して自愛に満ちた微笑を向けている。 「そこの扉を開けて、家の中に入れるから」 ジプシーに僕は命令した。彼は反応せずにまだモルモンを見ていた。 「早く」 僕は語気を荒げた。何度目かでようやくジプシーは僕が指差す扉を開けた。僕はモルモンを持ち上げて、体をぶつけないように注意しながらゆっくりと部屋の中まで運び込み、ベッドに降ろした。そして、仔細に彼女を眺めた。モルモンは目の焦点を泳がせ、魚のように口を動かしていた。呼吸は何かが痞えたように不規則で、時々止まり咽を上下させている。頭を持ち上げて枕に乗せ、スカートのボタンを外し、カウチンセーターの前を開けたあとに、体を横向きにして毛布をかけた。それからしばらく彼女の様子を観察していた。こちらに横たわったその老女の異様な目の動きは奇妙だった。 疲れて泣き止んだ赤子のように、やがて呼吸も落ち着きモルモンは目を閉じた。それを見た僕は胸を撫で下ろすと、部屋の中を見渡した。そこにいると思っていたジプシーの姿が見当たらないので、玄関まで行くと、彼はまだ扉を支えて立っていた。 「もういいよ。入っておいで」 僕はジプシーを手招きした。少し戸惑ったジプシーは、ぎこちなく僕を見詰め、それから礼儀正しく靴を脱ぎ、部屋に入ってきた。そして、僕の部屋を見回した。 「おばあちゃん、具合が悪くなったみたいだから、しばらく、横になって様子を見ておこう」 僕はジプシーに言った。立ち尽くす彼をソファに座らせ、冷蔵庫から飲み物を取り出し、彼に与えた。スチール缶の紅茶を持って「ありがとう」とジプシーは言った。 ジプシーのソファに座る姿を見ながら、この家具を製作し、僕にくれた友人の容姿を思い出した。 それから、僕はモルモンの様子をもう一度見た。目を閉じた彼女の顔には、皺が刻まれていた。流れいった歳月を思った。彼女の横に屈み、呼吸のリズムを確かめた。先ほどより整ってきたので、安心する。それから、部屋の様子を見回した。スチール缶を両手で握り締めるジプシーも落ち着いた。 「なまえは、なんていうんだい?」ジプシーはうつむいて黙る。僕は濡れた髪をつかみ、自分の名前を彼に告げた。空白の時間が流れる。聞き取れない声でジプシーが何かを言う。僕は首をかしげ、強く彼を覗き込んだ。 「……タカムラシゲノリです…」ジプシーは縮こまり、僕を見上げて何を推し量るようにはにかんだ。モルモンは、深い眠りに落ちっていったようで、なかなか目覚める気配がなかった。曖昧な塵が漂う。だんだんと僕は気詰まりになり、もはや自分が生活する場所とは思えない部屋だった。 「あのさ、外に出てチャイムを鳴らしてくれないかな?」僕はジプシーに頼んだ。彼を促して扉の向こう側に立たせ、何度かベルを押して貰った。部屋の中でそのチャイムの音の出所を探し出し、僕はその音の出所を分解し、呼び鈴がならないようにした。ここに住んでから始めてその機器のありかを知った。それは本棚の横にあった。 その作業を終えて、ふと本棚を見ると、そこには未開封の茶封筒があった。年賀状とともに、ポストに入れられていたものだ。その存在をすっかり忘れて、二週間ほどそのままになっていた。 モルモンはなかなか意識を取り戻さなかった。ここ一ヶ月の間で二人の女性が僕の前で気絶していた。しばらく彼女を安静にさせていた。コンクリートと木製で出来たソファに座るジプシーが植物の上に止まったカマキリを見つけ、興味深そうに眺めていた。 「そいつと一緒に住んでいるんだ」。僕はジプシーになぜカマキリがここにいるかを説明した。 「呼び名はあるの?」瞳を輝かせ、ジプシーが訊ねた。 「ないよ、思いつかないんだ。よかったらこのカマキリに名前をつけてくれないかな」 「イシコロ」 はしゃいだ声でジプシーはカマキリにそう告げ、カマキリの首を持って彼を持ち上げた。イシコロと名付けられたカマキリの抵抗もむなしく、ただ鎌を振り回すだけだった。僕はジプシーが呼びかけた言葉を反芻した。「イシコロ」悪くはない。しばらくその語感を口の中で転がした。 「家までの道筋、わかるかな?」。服を着ながらジプシーに問いかけた。彼はこくんとうなずく。それからモルモンの衣服を正し、瞳を閉じる彼女を持ち上げ、我々はこの部屋から出て行った。外は乾き、陽光が穏やかだった。ジプシーにハイエースの扉を開けてもらい後部座席にモルモンを横たわらせた。それからジプシーを助手席に乗せ彼から家の所在を詳しく聞きだした。ジプシーは後ろに積んである機材や道具をものめずらしそうに見ていた。ジプシーはしっかりした口調で僕に家までの道を説明した。それらはとてもわかりやすいものだった。彼らの家はここから十分といったところだった。セルを回し、ラジオの声が流れ出す。そこからはまだ、新たな年が始まったという余韻が感じられた。 退屈な音楽が流れ、沈黙する我々の背後に日曜日が降り注ぐ。ジプシーはしっかりとした声で、僕を道案内した。僕は迷うことなく彼らを家まで送り届ける事が出来るかどうか不安だったが、確信に満ちた道案内をジプシーがしたおかげで、すぐに彼らの家まで辿り着いた。 モルモンとジプシーを無事送り届けて、彼らの家で昼食をご馳走になり、昼過ぎに僕は自分の部屋に帰ってきた。 それから、机に置かれた差出人のない茶封筒に手をとり、どうしてすぐにそれを開けなかったのか不思議に思った。破るとノートブックがでてきた。 再生紙で出来た表紙にはパルプフィクッションと書かれている。 しばらくそれを観察し思案した後それが本当に僕に送られてきたものかどうか疑問に思ったので、封筒の宛名を確かめたが、確かにそこには僕の名前と住所が書かれていた。見覚えのない字で、最初のページにはこんなものが書かれていた。
私は、もしくは我々は語られる言葉を求めている。そして、誰かに向けてきちんと語らなくてはならない。しかし、いったい誰に語りかければいいのだろうか…
走り書きのような汚い字や解読が困難な字や丁寧な筆跡で書かれていたその内容は支離滅裂で読み解く事はなかなか困難な作業に思えた。こんなものが送られる覚えはまずなかった。ぱらぱらとページをめくり、誰が書いたのか手がかりを求めたが、最後のページにも差出人の名前は記されていなかった。 ぼんやりと一ページを読み進めた。
転換機 こごえを立てる 聞こえない 違う。声は、囁いている。 乾いたこごえ 砂塵の地 薄明かりのなか 眩暈に眩み そうして、宴が始まった。 さあ、その無知を祝おうか。
『The Gloaming Places』 ヨハン・ジェイコフ コード・そして、コード。始まりは音があった。それは蠢き、分かれず一つであり微かに痙攣した。やがて光子が無数に折り重なった。ぶつかり合いながら、それ自体が構成されていく。視界はまるで版画と静止画。すべての動きはなかったが、やがて動きは熱を帯びて、世界が冷える途上にて、そこには小さな温もりたちの踊りだけが続く。ニュートリノ。宇宙線が双子の少女の体を突きぬけ、僕の心臓を突きぬけ、そして深淵に向かっていった。けれども、夏草の香りと土の感触と太陽の光りを反射させる穏やかな霧雨と分解され横たわった自分の体があるだけだった。風が大きな、杉の枝葉を揺らし、その翳りは遠い昔の憧憬みたいだ。さあ、これから話をしよう。とても静かに。素粒子になる前に。やがて、聞かれるべきものたちの泣き声だけになる前に。流れがとどまってしまう前に。これは遠い昔の話。耳を閉じれば波も聞こえなくなる。
ノートブックには細かい字がびっしりと埋まっていた。そこまで解読したところで、電話が鳴った。職場の後輩からだった。 「おはようございます。寝てましたか?」 「いや、起きていたよ。どうしたんだ?」 「あの…また例のビルの戸棚が落ちたって連絡があったんですよ。それで、僕らがまたそれを設置しに行かなくちゃならなくなったみたいで…今から大丈夫ですか?」 「また落ちたの? どうして?」 「いや、わからないです。というか僕のほうがどうしてか聞きたいぐらいです。まったく日曜日ですよ。ほんとに…ところで車、あるんですよね? 途中で拾っていってくれませんか?」 「ああ、わかった。家にいるのか?」 「いますよ」 「じゃあ、あと、そうだな…二十分後には行けると思う」 「すいません、ありがとうございます。じゃあまた、あとで」 「ああ」 通話終了の電子音はやけに耳に残る。溜息をつき、僕はその手紙をテーブルに置いてから、家を出る準備をした。彼の家に向かうあいだ、「語られる言葉」というものについてずっと考えていた。 その通り。いったい誰に向かって、何を語りかければいいのだろう?
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