その頃、孝は、珍しく絵の注文を受けていた。 以前、絵を買ってくれた人が、ある町の風景を描いてくれないかと、依頼をして来たのである。 人の注文で絵を描くことなど滅多にない。 本来は、自由きままに描く方が好きなのだが、たまには、そういうのも悪くない。 「気に入ったものを描くことが出来るかどうか、わかりませんけど」 と、孝は、一応、忠告をしておく。 注文の絵をいうのは、北海道帯広の、ある町の風景である。 当然、そこまで、出かけて行かなければならない。 出発予定の三日前に、孝は香織にそのことを話した。 「一週間ほど、家を空けるけど、その間、家の管理を頼みます」 「どこに、行くのですか」 「ちょっと、仕事で北海道に」 「いいですね。気をつけて」 とりあえず、準備を整えて、当日、孝は、朝早く家を出た。 タクシーに乗って最寄りの駅まで向い、そこからは、電車である。 北海道に行くのは、初めてだった。 そこで絵を描くのは、楽しみである。
香織は、孝のいない間、演劇の脚本を書くことに集中した。 初めてのことなので苦労したが、孝が帰って来るまでに、何とか、恋愛物語の脚本を完成させる。 香織は、それを座長の高部に読んでもらうことにする。 相手にされないものと初めは思っていたが、以外にも、高部は、その脚本を読んでくれ、批評もしてくれた。 あまりにも稚拙で、使い物にならないというのは、香織の予想した通りである。 しかし、香織の脚本は、その後の演劇の参考にさせてもらうと高部は言った。 香織は、嬉しくて、感動した。
北海道帯広に一週間、滞在した孝は、一枚の絵を描きあげた。 それは、高台から町を見下ろした風景で、自分なりに、良く出来た絵だと思う。 電車に乗って、家に帰る。 そして、その絵を、すぐに依頼者のところに持って行く。 依頼者は、その絵を気に入ってくれた。 「この絵は、いくらですか」 と、聞かれたので、 「いくらでも、構いません。この絵の価値は、あなたがお決めになってください」 と、孝は言う。 結局、絵は、十万円で売れた。 久しぶりの、収入である。
その日、いつものように、香織が仕事から帰って来る。 「帰っていたのですか」 香織が言う。 「今日の昼に帰って来ました。絵は十万円で売れましたよ」 「そうですか。良かったですね」 「一緒に、何か、食べに行きませんか。僕が、ご馳走しますよ」 「いいですよ。おごってくれるのなら、ありがたいです」 二人は、焼き肉屋に出かける。 店内は混んでいたが、少し待って、テーブルに座った。 「私、脚本を書き上げて、高部さんに見せましたよ。もちろん、採用はされませんでしたけど」 「そうですか。でも、まあ、良かったじゃないですか。一歩、前進ですよ」 「そうですね。これからも、少しずつ、書いてみようと思います」 焼き肉を、腹一杯食べて、家に戻る。 香織はそれからまた、演劇の練習に出かけて行く。 孝も、自分の絵の手入れに、取りかかることにした。
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