一階にある台所、風呂、トイレは共同の空間である。 そこに用事がある時は、香織は、二階から降りて来る。 香織の生活パターンは、すぐにわかった。 香織はどこかに勤めているらしく、朝の六時半には起床し、七時半には出かけて行く。 家に帰って来るのは、午後の六時頃である。 香織は、自炊の夕食を食べると、ほとんど毎日のように、またどこかに出かけて行った。 帰って来るのは、午後の九時過ぎ頃である。 どこで、何をしているのだろうかと関心はあったが、敢えて、聞くこともなかった。
孝は、相変わらず、気ままに絵を描いていた。 香織は、時折、部屋の中に無造作に置いてある孝の絵を、興味深げに眺めていた。 「絵に興味があるのですか」 孝は聞いてみる。 「絵に限らず、きれいな物なら、何でも好きです」 「僕の絵は、きれいだと思いますか」 「きれいだと思いますよ。一枚、いくらくらいするのですか」 「僕の絵は、安いものです。そこの小さいものだと、二千円もすれば、いい方で」 「なるほど。二千円ですか」 「二千円と言っても、僕の絵は、値段がいくらにしろ、買ってくれる人が居ればいい方なので」 「じゃあ、お客さんの、言い値ということですか? それなら、私でも買えるのですか?」 「買わなくても、あげますよ。どれでも、好きなものを持って行ってください」 「いいのですか? じゃあ、一枚もらいます」 香織は、部屋の中の絵を一枚、手にすると、二階に上がって行った。 それは、孝の最も愛着のある絵の中の一枚だったが、あげると言った以上、駄目だとも言えなかった。
それから数日後の日曜日、孝が、いつものようにスケッチから帰って来ると、二階に居た香織が、階段を下りて来た。 「お帰り」 と、香織が言う。 「ただいま」 と、孝は言った。 絵の道具を、部屋の中に片付ける。 夕食を食べるには、まだ時間が早い。 孝は、自炊をすることは滅多にない。 夕食は、いつも外食だった。 香織が、部屋を覗く。 「ちょっと、いいですか?」 「いいですけど、何か」 「演劇に、興味ありますか?」 「演劇? 別に、興味は無いですけど、どうしたのですか」 「実は、私、趣味で劇団に所属していまして、月に一度、市民会館で公演をしているのですけど、良かったら、見に来てくれませんか。この間の、絵のお礼です」 香織は、チケットを一枚、孝に渡す。 「劇団牡羊座、第三十七回公演」 演目は、 「走れ! ヤナギサワ」 と、書かれていた。 「どういう内容の演劇ですか」 と、孝は聞いてみる。 「どういう内容と言われましても……。とりあえず、見に来てください。面白いかどうか、保障は出来ませんけど」 面白いか、面白くないかは、それほど関係ない。 どうせ、暇だし、タダなので、見に行くのは構わなかった。
翌週の日曜日、劇団牡羊座の公演の日である。 開演は午後の一時ということなので、孝は、その三十分前に出かけた。 市民会館の場所は知っているが、中に入ったことは無い。 正面玄関から中に入ると、二人の男女が、客のチケットの確認をしていた。 客の数は、それほど多くないようである。 孝は、そこでチケットを渡すと、舞台のあるホールの中に入る。 幕が上がる時間までは、まだ余裕があった。 ぼんやりとして時間を待っていると、午後の一時、長めのベルと共に、幕が上がった。 舞台の上には、森の中のようなセットがあり、そこに一人の男が出て来る。 男が、喋り始めた。 「私、ヤナギサワは、この森の中をさまよっている。敵を追いかけ、この森に入ってから道に迷ってしまったのだ。すでに、森に入ってから三時間。もう後、二時間で日が暮れる。夜になれば、狼に集団が、森の中をうろつく。狼に食べられないよう、この森を脱出しなければならない……」 男の独演が、しばらく、続き、次に女性が一人、出て来た。 着飾った衣装と派手な化粧で、初めは誰だかわからなかったが、よく見ると、姫野香織に間違いなかった。 「私は、天から舞い降りた女神です。あなたを導くために、ここに来ました。もうすぐ、日が暮れます。さあ、私の後について来なさい」 男と、香織との掛け合いが始まる。 それは長くて、少々、退屈で、眠くなった。 その内に、夜になったという設定らしい。 狼に扮した劇団員が、数人、舞台の上に現れる。 狼たちが喋り出す。 そこからは、どうも、内容のわからない、荒唐無稽な演劇になって行く。 途中から、孝は眠りに落ちる。 気が付いたのは、演劇が終わり、客が座席を立ち始めた時だった。 どうも、つまらない演劇だったと、孝は、市民会館を出る。 演劇は、自分の趣味には合わないようだと、孝は思った。 テレビか映画でも見ている方が、余程、マシである。
香織が家に帰って来たのは、夜の十時を過ぎていた。 舞台の打ち上げでもしていたのだろう。 お酒を飲んでいるようだった。 しかし、酔っているというほどでもない。 「今日は、見に来てくれていたみたいですね」 「一応、見に行ったけど、難しくて、良くわかりませんでした」 「そうでしょうね。実は、私も、良くわかりませんから」 「主役の姫野さんでも、そうですか」 「作、演出は座長の高部さんという人ですけど、あの人の書くものは、良くわからないという評判ですから」 「誰からも、文句は出ないのですか」 「高部さんは、リーダーですから。それに、人望もある人ですし」 「自分で脚本を書いて、その高部さんに見せてみればいいじゃないですか。もしかすると、採用してくれるかもしれませんよ」 「駄目ですよ。私には、脚本を書く才能はありませんから」 「でも、初めから、あきらめない方がいいですよ。とりあえず、書いてみれば、何とかなるものです」 「そうでしょうか」 「僕も、自分の絵は、それほど上手なものだと思っていないですけど、描いていると、何とか、格好になるものです」 「そうですか。ならば、私も、チャレンジしてみようかな」 それから、香織は、夜遅くまで起きて、脚本の構想を練っているようだった。 なかなか、努力の人のようである。
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