正人はもちろん、プロ野球の選手を目指していた。 しかし、高校三年の夏、甲子園での試合が終わった直後に、ちょっとした不注意から交通事故に遭い、右腕と左足、肋骨を骨折し、それまでのようなピッチングが出来なくなってしまった。 プロの野球選手としての夢はそこで断たれてしまったわけで、正人は、きっぱりと、野球から足を洗った。 草野球の経験も無い。 投げるのは、それ以来の事だった。 全盛期の球は投げられないが、素人には打たれない自信がある。 しかし、本気で投げる気にはなれなかった。 軽く力を抜き、キャッチャーに向かって、一球を投げる。 正人は、男たちの視線を感じた。 それが、心地良いものであることは確かだった。
野球をしていると、周囲に見物人が、数人、集まって来た。 正人は、彼らの視線も受けながら、球を投げる。 そして、その見物人の中に、あの女性の姿を見つけた。 窓辺の景色の中にいた、あの女性である。 女性は、野球をしている男の一人と知り合いらしく、二人で並んで、親しそうに話をしていた。 正人は、その女性の興味を引こうと、一球、全力で腕を振った。 その瞬間、右腕の肘に激痛が走る。 球は、キャッチャーの上方に大きく外れた。 やはり、全力投球は無理である。 少し、歯がゆい思いがした。
野球は、昼前に終わる。 一緒に昼飯を食べに行こうと相川に誘われたが、正人はそれを断わり、アパートの部屋に戻った。 「今日は、ありがとう」 相川は別れる時に言った。 「いや。俺も、楽しかったし」 正人は、そう答える。 昼食にインスタントラーメンを食べ、また、窓辺に座り、文庫本を手にした。 しかし、そこでまた、ドアをノックする音がした。 また、誰が来たのだろうと思い、立ち上がる。 「誰ですか」 と、声をかけると、 「私よ」 と、女性の声で返事が帰って来た。 それが、川島博美の声だということは、すぐにわかった。 ドアを開けると、博美が中に入って来る。 「どうした」 と、正人が言うと、 「振られたの」 と言って、博美は泣き出した。 泣かれたところで、正人にはどうしようもない。 「まあ、そのうち、新しい男が出来るよ。それまで頑張れ」 と、正人は博美を励ます。 実は、このような光景は三度目で、正人も慣れたものだった。 博美はしばらく泣いた後、一時間ほど愚痴をこぼし、自分のアパートに帰って行った。
二時間ほど昼寝をして、夕暮れ時、また窓辺に座った。 川辺には子供たちの姿が見えた。 長い柄のついた網を持ち、魚でもすくっているようである。 しばらく、そのまま景色を眺めていると、あの女性が、自転車に乗って川辺の道を通りかかった。 いつものように、その姿を窓から眺める。 すると、女性は、ふと正人の方を見上げて、軽く会釈をした。 正人は驚き、慌てて会釈を返した。 誰にでもする自然の行動なのか、それとも、朝の空き地で自分を見て、同一人物と気がついてくれたのか、それは、わからない。 女性は、正人の会釈に笑顔でこたえると、そのまま、南に自転車で通り過ぎて行った。 正人はさわやかな気持ちになり、また、明日から頑張ろうと、夕暮れの景色を見つめていた。
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