明治維新が起きてから間もなく、一人の男が丹後の山奥を歩いていた。 男の名前は木島孝太郎。 かつては江戸で、幕府に仕えた御家人の一人だった。 幕府が倒れて無収入になり、社会の混乱の中で職を得ることも出来ず、孝太郎は、かつて祖父が住んでいたという丹後の山の中に戻って来たのだった。 そこには、小さな村がある。 木島という姓は、祖父が御家人になってからのものである。 祖父がこの村に居た時には、どういう名前で呼ばれていたのか、孝太郎は知らない。
村の平地には、田畑が広がっている。 収穫の時期なのか、村人たちが稲刈りをしていた。 孝太郎は、もちろん、これまで農作業などしたことがない。 村人たちは、大小、二本の刀を腰に差している孝太郎を怪訝な目で見ていた。 恐らく、この村に武士が入るのは珍しいことなのだろう。 とりあえず村には来たものの、孝太郎には何かあてがあるわけではなかった。 ぼんやりと稲刈りの風景を眺めていると、一人の村人が、声をかけて来た。 「お侍。この村に、何か用かね」 「いいえ。別に、用というわけではないのですが、以前、祖父がこの村に住んでいたことがあるというので、つい、足が向いてしまいました」 「ほう。その、おじいさんの名前は」 「江戸では、木島又衛門と名乗っていました。この村に居た時には、どういう名前だったのかわかりませんが」 「木島又衛門? ちょっと、待て。聞いたことがあるな」 「そうですか」 孝太郎は驚く。 「うちの年寄に、話を聞いてみよう」 男は、田を離れ、近くにある自分の家に戻って行った。 孝太郎も、何となく、その男の後ろについて、家の前に行ってみた。 縁側で、男は家の中に声をかけた。 中から、年寄が顔を出す。 「じいさん、木島又衛門という男を知っているかい?」 「木島又衛門? ああ、あの又衛門のおじさんか。もちろん、知っているとも」 「その木島又衛門の孫だというお侍が、そこに来ている。話を聞いてみるかい?」 「それは、嬉しいな。ぜひ、ここに呼んで来てくれ」 孝太郎は、門の外で、二人の話を聞いていた。 男は一度、門から出て来ると、孝太郎を中に入れ、年寄の居る縁側に連れて行った。 孝太郎は、腰から刀を外すと、老人に向かって一礼をした。 「まあ、座ってください」 と、老人は、孝太郎を自分の隣に座らせる。 「腹は減ってないですか」 老人は、孝太郎に聞いた。 孝太郎は、老人から饅頭をもらって食べる。 「この村は、代々、幕府の代官が治めていた土地で、その代官が木島どのだった。又衛門のおじさんは、その代官の木島どのに請われて、養子に入ったのだよ。木島どのが代官の役目を終え、江戸に戻る時に、又衛門のおじさんは一緒について行ったというわけだ」 「祖父は、どのような人だったのですか」 「大柄な人で、村一番の力持ちだった。面倒見も良くて、誰からも好かれる人だったよ。だから、木島どのにも気に入られたのだろう」 「そうですか」 「江戸の様子はどうですか。徳川様の幕府が倒れるとは、思ってもみませんでした」 「官軍が入ってきて、江戸は大混乱でした。幕臣の有志が集まり、彰義隊が結成されましたが、それも上野の戦争で官軍に敗れたと聞いています」 「そうですか。では、もう、徳川の将軍様の威光は無くなり、もはや京の天子様の世の中ですか」 「そういう事になりますね」 「しかし、それにしても不甲斐ない。幕府がこれほど簡単に倒れてしまうとは。私は武士ではありませんが、この村で、代官様には良くしてもらいましたから、徳川幕府には思い入れがあります」 「直参の家臣は、腰抜けばかりですよ。しかし、一部は江戸を脱走し、会津で戦い、今は榎本という人物を中心に、蝦夷地で官軍と戦う準備をしていると聞いています」 「ほう。幕府にも、意地のある武士が居たということですか。それは、喜ばしいことです」 老人は、嬉しそうな顔をする。 幕府贔屓の、老人のようだった。 「ところで、あなたは、なぜ、戦わずに、ここに来たのです? 幕臣として、幕府に最後まで忠義を尽くすのが筋だと思いますが」 「しかし、将軍の慶喜様は、すでに政権を朝廷に返され、江戸城も官軍に明け渡し、今では駿府で謹慎生活に入っているそうです。将軍様に戦う意思が無くて、私にどうしろと言うのですか」 「武士の意地というものですよ。それが無くて、どうしますか」 孝太郎は、言葉に詰まる。 確かに、主君のために命を捨てるのが、武士というものだが……。
孝太郎は、その老人の好意で、その家に住まわせてもらうことになる。 武士を捨て、農民になることにした。 蝦夷地の榎本軍が、官軍に降伏したという知らせが村に入って来たのは、それから数か月後のことだった。 徳川武士は、これで終わったのかと、孝太郎は感慨深く、山間の空を眺めていた。
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