お盆休みに、嫁の実家に出かけた。 嫁の実家は山に周りを囲まれた、のどかな田舎の村にある。 二日目の朝、三歳になる息子にクワガタ虫かカブト虫でも見せてやろうと、孝夫は、まだ暗い内に、家の裏山に入った。 虫の捕り方は、よく心得ている。 子供の頃は、孝夫も、よく虫捕りをして遊んだものだった。 薄っすらと、霧が出ている。 孝夫は、虫の居そうな木を探して、山の奥に歩いた。
しばらく歩くと、山の中に一軒の古い小さな家があった。 このようなところに家があるのは、孝夫は知らなかった。 家の横を通り抜けようとしたところ、家の裏口から、若い女性が出て来た。 髪の長い、洗練された雰囲気の女性で、この田舎の山奥には似合わない感じだった。 孝夫は、女性と目が合う。 「おはようございます」 と、孝夫は言った。 「おはようございます」 と、女性は言い、孝夫に会釈をした。 美人だ、と、孝夫は思った。 孝夫は既婚者だが、男として、当然の感想だろう。 女性は、手にバケツを持っていた。 家の外にある水道で、そのバケツに水を汲んだ。 「ここで、生活をしているのですか」 孝夫は聞いてみる。 「いいえ。今日はたまたま、実家であるこの家に帰って来ているというだけです」 「なるほど。やはり」 孝夫は納得した。 この女性に、この山奥の家は似合わない。 女性は、バケツに溜めた水の中で、洗濯を始めた。 「洗濯機はないのですか」 「はい。昔から、家ではこうやって洗濯をしていました」 「不便ですね」 「慣れてしまえば、そうでもないですよ」 孝夫は女性の横を通り過ぎ、さらに山の奥に入って行くことにした。 美人だからといって、いつまでも、見とれているわけには行かない。 「それでは、失礼します」 「どこに行くのですか」 「息子のために、カブト虫かクワガタ虫でも、捕って、持って帰ってやろうと思いまして」 「そうですか。でも、ここから先の山奥には、行かない方がいいですよ。猪や、熊が出ますので、危険です」 「そうですか。それは知りませんでした。ありがとうございます」 孝夫は、もと来た道を戻ることにした。 山をおりて、嫁の実家に戻る。
孝夫が家に戻ると、すでに朝食の用意が出来ていた。 「どこに行っていたの」 と、嫁の美香が言った。 「ちょっと、裏の山に。大介に、カブト虫でも捕ってやろうと思って」 大介というのは三歳になる子供の名前である。 大介は、まだ、布団の中で寝ている。 「それで、カブト虫は?」 「捕れなかった。山に入ると、猪や熊が出ると言われて」 「誰に」 「あの山の中の家に居た人」 「山の中の家? 山の中に、家があったかな」 「そこの裏の山道を登ったところに家があった。女の人が居たよ」 美香は、頭をひねる。 すると、美香の母親が台所に来て言った。 「家があったじゃない。秋山さんのお家が」 「ああ、そうか。でも、秋山のおばあちゃんは、ずい分、前に亡くなったはず」 美香が言う。 「若い女の人だったよ。都会的な、きれいな人」 孝夫は言う。 「おばあちゃんには、娘がいたはずだったけど、娘さんは、もう五十歳くらいじゃないのかな」 母親が言う。 「じゃあ、お孫さんかな」 美香が言った。 朝食を食べていると、息子の大介が起きて来た。 大介にも朝食を食べさせる。 大介は、朝食を食べ終えるとテレビで子供番組を見始めた。 大介の世話を母親に任せ、孝夫は美香と家を出た。 「ちょっと、その家に行ってみたい」 と、美香が言ったので、孝夫を連れて行くことにする。 美香と一緒に山道を歩いた。 空は晴れていて、もう霧も出ていない。 先程、歩いた時よりも、ずい分、遠くに感じた。 山道を登ると家がある。 それは、先程の家だった。 「家は奇麗ね」 美香は言う。 「おばあちゃんが亡くなったのは、もう十年近く前のはずだけど」 「十年も、空き家だったということ?」 「そのはずだけど。でも、誰かが手入れをしていたのかな」 確かに、目の前の家は、長年、空き家だった感じではない。 ずっと、誰かが住んでいた様子である。 「女の人がいるはずだけど」 「声をかけてみようか」 美香が、左手にあった窓に顔を近付ける。 「こんにちは。誰かいますか」 美香が言った。 すると、玄関の戸が開く。 「どなたですか」 と、女性が出て来た。 先程の女性である。 「こんにちは。先程はどうも」 孝夫は言う。 「ああ、どうも」 女性は言う。 「こっちは、僕の嫁の美香です」 孝夫は、美香を紹介した。 美香は、女性に頭を下げる。 「ここは、秋山さんの家のはずですけど」 美香は言った。 「そうですよ。私も秋山です」 女性は言った。 「じゃあ、秋山のおばあちゃんのお孫さんですか」 美香は言う。 「はい。ここに住んでいたのは、私の祖母です」 「やっぱり。私は、下の家に住んでいた花岡です。今は結婚をして、山下ですけど」 「ああ、花岡さん。祖母から、話は聞いたことがあります」 「ここで、何をしているのですか。ずっと、空き家だと思っていましたが」 「数年前から、時々、私がこの家に来て、管理をしています。将来的には、ここに住もうと思っていまして」 「じゃあ、また、ご近所さんですね。よろしくお願いします」 「こちらこそ。よかったら、上がりませんか」 と、女性は、孝夫と美香を家の中に上げた。 女性の名前は沙織という。 現在、二十五歳ということだった。
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