広子は、朝の十一時に家に来る。 そして、さっそく昼食の準備をし、昼食を食べてから、掃除や洗濯にかかる。 掃除、洗濯が終わると、しばらく休憩をし、時には買い物に出る。 午後の四時過ぎから夕食の準備に取り掛かり、広子は午後の五時までの仕事である。 午後の五時過ぎに、耕三は広子の作ってくれた夕食を食べる。 広子は、プライベートということで、耕三の夕食にも付き合ってくれた。 優しく、思いやりのある人である。 広子は、時折、耕三を連れて外に出た。 年寄り扱いをされることは嫌いだったが、あまり文句は言わないことにしている。 口うるさいのもまた、老人の証拠である。 そうは、思われたくないと思っていた。
散歩をしながら、広子の身の上話を聞いた。 広子の両親は、すでに他界している。 夫とは十年前に離婚をし、二人いた子供のうち、一人は夫が、もう一人は広子が引き取って育てているということだった。 「苦労をしているようだね」 耕三は言った。 「たいしたことではありませんよ。ただ、経済的には、ちょっと」 「お金のことは、心配しなくてもいい。必要なら私が何とかしてあげよう」 「いいえ。おじいちゃんの世話になるわけにはいきません。でも、お給料は、しっかりと頂きますよ」 広子はそう言って笑った。 広子は、耕三が一億円に近い貯金を持っていることを知らない。 敢えて話す必要もないので、耕三は黙っている。
お金は全て銀行に預けてある。 生活費は、いつも一度に十万円をおろすことにしている。 お金が無くなれば、銀行に出かけて行く。 銀行までは少し距離があり、歩いて行くことはできない。 銀行に行く時はいつもタクシーを呼んだ。 広子が家に来るようになってからは、広子に任せても良かったのだが、口座に預金されている大金を彼女に見せるわけにはいかなかった。 お金は、人を変えることがある。 広子にも悪い影響を与えないとは限らない。
広子の給料は、広子に現金を手渡しすることに決めていた。 その分のお金は、いつも月末におろして来る。 広子が、 「銀行に行くなら、車で連れて行ってあげましょうか」 と、言ってくれる。 が、耕三は、それを断り、いつもタクシーだった。 ちょっと、警戒が過ぎるのかとも思うが、いつもの習慣なので、そうしている。 その日、耕三は広子が掃除をしている最中に銀行に出かけた。 広子に渡す給料と、自分の生活費とをおろして家に帰る。 「はい、今月のお給料です」 と、耕三は、広子に給料を渡す。 「ありがとうございます」 と、広子はそれを、いつものようにポケットの中に座った。
広子は、土曜日と日曜日は家に来ない。 週に二日は休むことになっている。 日曜日の朝、重雄がぶらりと家に来る。 「耕三さんは、遺産相続のことなど、考えていますか」 「いや。何も」 「耕三さんのところは、奥さんが亡くなって、相続人は慎太郎くんだけですよね。相続で揉めることはないですか」 「重雄くんのところは?」 「私のところは、女房が健在ですし、子供が三人います。相続には、揉めるでしょうね」 「遺言でも書けば」 「それは考えてはいますが、誰にどう分けたものかと」 重雄は悩んでいるようである。 重雄にどの程度の財産があるのか知らないが、自分の死後、相続争いを起こさせたくないという気持ちはわかる。 耕三も、そろそろ、自分も死後のことを考えておくべきだろうと思った。 八十歳を超えれば、いつ死んでもおかしくはない。
耕三の財産は、貯金が一億円近くに、後は、家とその家が立っている土地である。 このまま耕三が死ねば、その財産は全て、息子の慎太郎のところに行くことになる。 それはそれで、不満はない。 しかし、慎太郎は、銀行で働いていて、高額の給料をもらっている。 別に生活に困っているわけではない。 どうせなら、自分の財産は、世のため、人のために役に立てたいものである。 慈善事業に寄付をするのもいいかもしれない。 しかし、自分のお金がどう遣われるのかわからないのは、ちょっと、面白くない。 できれば、自分の死後も、自分の思い通りに、お金を遣いたいものである。
それから毎日、耕三は頭を悩ませた。 「何を考えているのですか」 と、広子が言う。 「うん。お金の遣い道を」 「遣い道に困るほど、お金があるのですか」 「まあ、先も短いことだし、多少の財産をどうしようかと」 「子供さんに、残してあげればいいではないですか」 「子供に渡しても、面白くない。どうせなら、もっと、身のあることに遣いたい」 「寄付をすればどうですか」 「それは、考えてみた。でも、寄付をしてしまうと、自分の手を離れてしまうようで、また面白くない」 「では、誰か、自分の好きな人に、全て相続してもらえばいいじゃないですか」 「それが一番だとは思うけど、好きな人といっても、これといって心当たりがない」 「では、私にください。私なら、大切に遣いますよ」 「考えておこう」 広子は耕三のために、真面目に、献身的に働いてくれる。 広子が、死ぬまで傍にいてくれるというのなら、財産を相続させても惜しくは無いかと思う。
耕三は、やはり、遺言を書いておこうと思った。 部屋で机に座り、紙を前にしてペンを持つ。 何を、どのように書こうかと考える。 とりあえず、ペンを動かしてみた。 「私の財産は、本多広子さんに全て相続してもらいます」 一行で終わってしまった。 これでは、どうも味気ない。 「私の最期を看取ってくれた人に財産を譲ります」 これでは、誰に財産が行くのかわからない。 「私のことを一番、思ってくれた人に財産を譲ります」 これは抽象的である。 そもそも、誰を対象にしているのかわからない。 他にもいくつか書いてみたが、どうも納得の行くものが出来なかった。 やはり、自分の気持ちを文章にするのは難しい。 耕三は遺言を書くのをあきらめることにした。
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