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作品名:ある老人の話。 作者:三日月

第1回   1
 上村耕三は今年で八十歳になる。
 体は至って健康で、日常生活に何の不自由もない。
 妻の幸枝は、五年前に肺炎で亡くなった。
 それからはずっと一人暮らしである。
 耕三には慎太郎という息子が一人いた。
 しかし、慎太郎は、今では家に顔を出すことは、ほとんどない。

 耕三の日課は早朝に散歩をすることだった。
 年寄りの朝は早い。
 杖を右手に持ち、小さな歩幅で、ゆっくりと歩く。
 時折、犬を散歩させている若い女性とすれ違うことがあった。
「おはようございます」
 と、女性は元気に挨拶をしてくれる。
 耕三にはもはや色気はないが、若い人を見るのは、元気をもらえるようでうれしい。
「おはよう」
 と、耕三も挨拶を返す。
 家に帰ると、自分で入れたお茶を飲む。
 特別に見たいわけではないが、一人だと静かなので、部屋のテレビをつける。
 大き目の音声を聞き流し、ぼんやりと時を過ごした。

 耕三は若い頃、農業で生計を立てていた。
 特別、裕福なわけではなかったが、貧しいわけでもなかった。
 その頃は、周辺は農地が広がる、のどかな土地だった。
 しかし、今では、多くの農地が住宅地に変わり、周囲はにぎやかになっている。
 耕三も六十五歳の時に、持っていた農地を手放した。
 その代りに一億円に近いお金を手にした。
 そのため、もはや死ぬまで、お金の心配をする必要はない。

 若い頃に付き合いのあった友達は、すでに多くが死んでしまった。
 最近でもよく会う機会があるのは、五歳年下の近所に住んでいる若松重雄である。
 重雄も昔は農業をしていたが、今では耕三と同じように、農地を手放し、悠々自適に隠居をしている。
 重雄は、息子夫婦と同居をしていた。
 耕三にしてみれば、うらやましいところだったが、重雄は重雄で、気を遣うこともあるらしい。
 重雄はよく耕三の家に来た。
 将棋や囲碁をしたり、雑談をしたりして、時間を潰す。

 重雄は盆栽を趣味にしていた。
 耕三には、趣味というのは特にない。
 強いて言えば、本を読むことくらいである。
 耕三は若い頃からよく本を読み、家には大量の本が部屋の中に詰まっていた。
 今では、わざわざ本屋に本を買いに行くことはあまりないが、時折、昔の本を手に取って読み返した。
 一番の好みは歴史小説で、特に吉川英治を愛読していた。
「宮本武蔵」
「三国志」
 など、何度読んでも面白い。
 若い頃には作家の真似事をして小説を書いてみたこともあったが、自分には才能がないとすぐにあきらめた。
 もっとも、プロになろうという気は、初めから持っていない。
 ほんの趣味程度のものである。

 子供の頃は、飛行機乗りになりたかった。
 耕三の少年時代は戦争の真っただ中で、空を飛ぶアメリカの爆撃機や日本の戦闘機を、憧れの目で眺めていた。
 耕三を可愛がってくれた母方の伯父は、海軍の戦闘機乗りで、その影響も大きかった。
 しかし、伯父は、終戦間際に、戦死した。
 後に聞いた話では、伯父の最後は特攻隊員として、沖縄に出撃したということである。
 もちろん、遺体は帰って来ていない。

 戦争中も戦後も、食糧には困らなかった。
 餓えの経験は、耕三にはない。
 むしろ、農地で作った作物を売り、耕三の家は裕福だった。
 勉強も割合、出来たので、耕三は実家を離れ、京都の大学に進学をした。
 後に妻になる幸枝と出会ったのは、その京都にいた時代である。
 幸枝は、耕三が下宿をしていた家の近くの八百屋で働いていた。
 幸枝は、いわゆるその店の看板娘だった。
 先に声をかけたのは、耕三の方である。
 幸枝も、耕三に好意を持ってくれていた。
 しばらく交際をしたが、耕三は大学を卒業すると、実家で農業を継がなければならなかった。
 耕三は幸枝との結婚を考えていたが、幸枝が実家に来て農業を手伝ってくれるのかどうか不安があった。
 しかし、その心配は取り越し苦労に終わった。
 耕三のプロポーズを、幸枝は快く受け入れてくれた。
 大学を卒業すると、耕三は幸枝を連れて実家に帰った。
 実家の両親も、幸枝のことを喜んで迎えてくれた。

 幸枝は、農業でも家事でも、よく働いてくれた。
 愚痴一つ、こぼしたことがない。
 子供は、もう何人か欲しかったらしいが、慎太郎一人しか出来なかった。
 幸枝は慎太郎をよくかわいがった。
 慎太郎も、耕三よりも幸枝によくなついていた。
 男の子が母親になつくのは、当然かもしれない。
 慎太郎は、父親である耕三には、よく反発をした。
 そのシコリが今も残っているのだろう。

 慎太郎からは、もう五年近く連絡がない。
 もちろん、家に顔を出すこともない。
 慎太郎には二人の子供がいる。
 それでも、子供が小さい時は、年に数度は、子供を連れて遊びに来たものである。
 子供が成長をし、幸枝が死んでから、慎太郎もこの家には用がなくなったらしい。
 今頃、慎太郎は何をしているのだろうかと思うことは時々あるが、耕三が自分から連絡をすることはない。
 男親と男の子供の関係とは、大抵、そういうものだろう。

 幸枝が死んでから間もなくのこと。
 重雄が、耕三に言った。
「お手伝いさんを雇ったらどうだ」
「別に、生活に不自由はない」
 と、耕三は答える。
「今はそうかもしれないけど、年を取ると、何かと不都合もあるだろう。それに、話し相手がいると、退屈しのぎにもなって、頭にもいいかもしれない」
「そうだな。考えてみよう」
 あまり関心はなかったが、食事くらいは、誰かに作ってもらった方がいいのかもしれないと思う。
 料理は、どうも苦手だったし、買い物に出るもの億劫だった。
 重雄が、息子の嫁のツテで、一人の家政婦を紹介してくれた。
 年齢は四十歳くらいで、小柄で、愛想のいい女性だった。
 名前は本多広子という。
 これまでに五年、家政婦として働き、いくつかの家で働いた経験がある。
 耕三が見た感じ、なかなか、いい人のようだった。
 耕三はさっそく、来てもらうことに決めた。


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