「泣くな。そろそろ誰か来る頃だ。おまえはそんな顔を見せるつもりか。顔を洗って少し外の風にでも当たって来い。」 沙織に背を向けたままの姿勢で命ずると匠は仰向けになり目を閉じた。麻酔が効いている間中ずっと寝ていたとはいっても、夜通し同じ体勢で寝かされるのはかなり堪える。目をつぶるとすぐ呼吸が一定し、沙織の目にも匠が眠ってしまったのがわかった。 匠に命ぜられるまでもなく沙織ははれぼったい目を鎮めるため屋上に出た。朝の光がようやくあたりを照らし出し周囲を包み始めた。ここからみる街の中がこんなに美しいとは。17年間生きてきて初めて知ったことだった。ひんやりした風が熱を持った頬を心地よく撫で、彼女の美しい髪を揺らす。その風に乗ってどこからか鼻歌が聞こえてきた。耳を澄まして聞いてみるとそれは今の時期に相応しくない、さくらさくらとちょうちょ、だった。いったい誰が歌っているのだろう。あたりを見回すと水槽タンクの陰に人影が見える。沙織はびっくりさせないよう静かに近寄り声をかけた。ところがその人物は、沙織が想像した以上に驚いたようだった。 「ご、ごめんなさい!驚かすつもりはなかったんです!」沙織も相手の反応の大きさにびっくりした。 「い、いや、こちらこそ。すみません。びっくりさせてしまって。こんな時間に人がいるとは思わなかったんで。」 それは白衣を着た若い男だった。 「私もびっくりしましたわ。だってこんな時間にさくらさくらとちょうちょが聞こえてきたんですもの。」 にっこり微笑む沙織にその男は真っ赤になった。 「い、いえ。なんだか知らないうちに歌ってたんです。あ、失礼しました。ぼくはここで外科医をしている宮沢賢治といいます。」 「宮沢賢治?」名乗られた名前に沙織は目を見張った。 「そうですよねぇ。誰でもそう思いますよねぇ。ぼくはこの名前を付けた両親を恨みますよ。毎回毎回名乗るたびにみんなびっくりするんだ。おまけに名前に負けてるって必ず言われる。せめて漢字だけでも違う字を使ってくれたらよかったのに、漢字まで同じなんですよ。ああ、やっぱなァ。」 宮沢賢治は頭を抱えしゃがみこんだ。それを見た沙織は宮沢の側でただオロオロするばかり。 「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです。ただ、もう、びっくりしてしまって。 有名な作家と同じ名前の人がいるなんて誰も想像しないでしょう?ごめんなさい。」 「いいんんです。・・・もう慣れてるから・・でも、あなたのようにキレイな人に心配してもらうのって結構気持ちがいいかも。」 顔を上げ、ニコッと笑う宮沢に、さっきの心配は何だったのだろうと沙織は少々呆れた。こんあに軽そうな人が本当に医者なの?それが表情に出たのか、宮沢はパッと立ち上がり、白衣のホコリを払うとまた笑顔を見せた。 「疑ってますね?でも本当ですよ。ぼくはここに勤めているんです。今日は当直だったんですけど、新鮮な空気に当たろうと思ってここに来たんです。 で、あなたは?」 宮沢は沙織の手を取って立ち上がらせた。
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