「お、からだ、だいじょぶ、ですか?」 その声に秀一はジロリと正彦を見据えた。まるでわかっていることを聞くな、と言いたげな顔つきだ。一瞬、正彦は怯んだが、それでも勇気を奮い起こし生唾をゴクリと飲み込んでもう一度聞いた。 「お、からだは、大丈夫で、しょうか。お疲れ、のように、お見受けいたしますが・・・・」 同じ質問に秀一はあからさまに眉をひそめた。 「・・疲れてなどおらん。」 ピシャリと吐き捨てられた正彦。それ以上の言葉が見つからない。 ほんの数秒後、今度は秀一が口を開いた。 「おまえに話がある。」 真剣な目つきで凝視され正彦は直立した。 はなしとはいったい何だろう。 「匠のことだ。実は今日のパーティで匠と沙織を婚約させ私の後継者として発表する予定だったのだ。」 「えっ?」 簡単に言ってのける秀一に正彦はわが耳を疑った。 匠を跡継ぎにする?会長はそう言わなかっただろうか・・・ポカンとした表情の正彦に秀一は口の端に笑みを浮かべた。 「そう決めたのだが、親としての意見を聞きたい。どうだ。」 どうだ、と言われても何と答えて良いか正彦には言葉が見つからない。言語そのものを忘れてしまったようだ。あまりにも話が大きすぎてすぐには信じられないからだ。トンビが鷹を生む?そんなありきたりなことわざや慣用句では表現できない。おまけに沙織という世にも類まれなる宝が付いてくるのだ。 「是か非か。どちらだ。」 言葉を失った正彦に秀一は返答を迫った。 「はぁ・・・よ、よろしく、おねがい、いたし、ます。」 それだけ言うのが精一杯だ。それでも秀一は大いに満足したようだった。 「では、匠が退院次第居を移すよう、手配してくれ。」 「は? は、はぁ。 ですが・あ、いえ、何でもありません。」 蛇に睨まれた蛙。その表現がぴたりと当てはまる正彦である。すると秀一は珍しくへりくだる構えをした。 「あ、その。匠はだな。以前、私がこの話を持ち出したとき、周防家の跡継ぎは自分しかいないから話を受ける事はできないと言っていた。それについてきみはどう思う。やはり、周防家を継ぐ人間が必要か。」 「は、はぁ・・・確かに、私たちには匠しか子供はおりません。できればそうあって欲しいと願ってはおりました。ですが、そのことでこの子を縛り付けたくはありません。もし、この子が周防建設の存続を考え、おのれを犠牲にしているのであれば、それは私たちの本意ではありません。どうぞ、会長の手でこの子を最高の経営者にしてやって下さい。それを見届ける事ができるのなら本望です。」 たとえ蛙のごとき存在でも、やはり正彦は父親である。息子の幸せを第一に考えていた。母親の明子しかりである。もっとも明子は沙織を匠以上にかわいがっていたので異存があるはずはない。いつぞやなどは早く孫の顔が見たいと言っていたほどだった。 「そうか!それを聞いて安心した。 ではさっそく取り掛かってもらいたい。」 そこで2人の会話は途切れた。榊原の奮闘ぶりをじっと聞いていた沢木は時折、チラチラと秀一を窺っていたが、2人の会話が一段落したのを機会に榊原にねぎらいの言葉をかけ、秀一に近寄り何やら耳打ちした。それから正彦、明子、榊原の順に見渡しある提案をした。 「今晩はもう遅いですしこのままここにいても何もありませんので、一旦引き上げてはいかがでしょうか。」 みな一様に疲労の色が濃く、明子などは目の下にはっきりと隈が現れている。沢木の提案は秀一の言葉と受け取った面々は、その場所から重い腰を上げた。沙織も、と明子は声をかけたが、自分は残る、と頑として譲らず、沙織だけは残ることになった。それでは、と着替えと朝食を持って来るわ、と明子は帰って行った。朝になってそれらを持参したのは明子ではなく早苗であったが。
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