榊原が出て行ってしまうと、匠はため息をつき、近くのソファに腰を下ろした。 「どうしたのだ。ため息など、おまえらしくない。」 振り返った秀一の表情にはさきほど見せた優しさのかけらも窺えない。 「榊原のあんな姿は見たことがありませんでしたから。 正直、ショックでした。 「私もだ。早苗と別れろと通告した時でさえあんなに取り乱したりはしなかった。よほどおまえが好きらしい。」 「これからは言葉に気をつけるよう心がけます。外であんな風にやられたらたまりませんからね。」 「はははは!もうせんだろう。おまえがこの家を縁を切るなどと馬鹿げたことを口にさえしなければな。」 「そう、ですね。 ところで、沙織をいつまであの病院に置くのですか?」 「明日にでも退院の手続きを取るよう沢木に命じよう。」 「そうですか。それで、出発はいつですか。」 「明日の午後1時の飛行機でスペインへ行く。」 「沢木も一緒ですか。」 「いいや。今回は私1人だ。向こうで現地秘書の初柴と会う予定だ。 なぜそんなことを聞く。」 ジロリ、と見られて匠は肩をすくめた。 「今回の件で沢木は非常に良く働いてくれました。できるなら休暇を与えていただきたいと進言しようと思ったのですが、それを伺って安心しました。」 「最初からその予定だった。おまえにもそのうち紹介しよう。世界を大きく10ブロックに分け、それぞれ現地秘書を配置してある。中にはその地で雇い入れた者もいるが、全員男だ。女性秘書はスキャンダルになる要素は初めから排除していたいのだ。現在独身の私は格好の餌食だからな。」 笑顔も見せず冗談を言う秀一に、匠は笑っていいのかダメなのか計りかねた。 「そう・・・ですね。」辛うじて返答した匠の顔は不自然に歪んでいたかもしれない。 「沙織にはお会いになりますよね?」 「そうだな。 これから行ってみるか。 おまえも一緒に行くか。」 「申し訳ありません。徹夜したので少々疲れました。 明日になれば警察から改めて呼び出しがあるでしょうから少し休みたいのです。」 確かにその目の周りには薄っすらと隈が現れている。 「ふん。一晩や二晩の徹夜で疲れたなどと。鍛え方が足らんのではないか。私の若い頃は1週間、ほとんど眠らず仕事をしていたこともあった。それをおまえという奴は。たるんどるぞ。」 秀一の愚痴も今の匠には雲の上から聞こえる宇宙語にしか聞こえない。 「何とでも仰って下さい。とにかく、ぼくは帰ります。」 余力を総動員して(周囲からは普段通りにしか見えないが)匠はやっとの思いで立ち上がり得宗寺家をあとにした。外は既に真っ暗で、街灯だけが道しるべとなったが、10年以上も通っている道だ。迷うわけもなく自宅に戻るとそのままバタッとベッドに倒れ、翌日、母の明子に起こされるまで夢も見ることなく爆睡した。
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