「それよりもおまえ、亜紀に何か言われたのか。」 「 いいえ、なにも。」 「亜紀の性格はオレも知っている。 迷惑な話だが、おばさんの頼みだ。辛抱してくれ。」 「はい。」 初めてかけられた優しい言葉に、沙織はうれしさよりも戸惑いの方が大きかった。 「何か、あったの?」 「なぜそんなことを聞く。」 「だって、匠さん、優しいから。」 「バカな事を言うな。いつもと同じだ。」 「は、い。」 沙織にとって匠の言葉は絶対だ。たとえ反論したくとも身体が全く機能しない。匠以外の人間と応対するときなどは、いかなる場合でも対処できるのに。幼少の頃からの習性が身についているのか、匠の前での沙織の力は無に等しかった。 「もういい。少し静かにしてくれ。」 匠は眉間を強く押さえ、目をつぶった。間もなく軽い寝息がした。その端正な顔を眺めていると、あの皇子よりも匠の方が一国の皇子に相応しいと思う。ひいき目に見なくてもそれは妥当な意見だろう。着替える間もなく車に乗り込んだのだが、その黒燕尾がことさら凛々しい。背丈もある(春の身体測定時に188cmあった)比べたくはないのだが、さっき目の前で見た皇子とは比較にならない。改めて沙織はため息をついた。
「どうした。」 ふいに声をかけられた。 「あ、あの。寝ていたのではないの?」 「そうだ。寝ていた。だが、おまえにジロジロ見られていては寝てなどいられるわけがない。まだ何かあるのか。」 「あ、お、お父様はまた、同じことをさせると思う?」思ってもみなかった言葉が口を突いて出た。 「ああ? またおまえはバカなことを。 あの人はオレを試した、とさっき教えただろう。同じ手を使うような人じゃない。今度は正攻法でくるかもしれない。」 「そ、そうよね。私ったら何を言うのかしら。」 「いつものことだ。おまえは試験の点数はいいが、時々トンチンカンなことを言う。オレは今まで何度もそれで頭を悩ませてきたんだ。少しは考えろ。」 「はい。」 シュンとなり下を向くと、絹のような黒髪がサラサラと流れた。匠の目元が少し緩んだが、第三者がそれを見れば苦痛で顔が歪んだ、としか見えないだろう。それもほんの一瞬のことで、再びその表情はいつものポーカーフェイスに戻った。
|
|