匠の亜紀に対する態度に失望し、食事の支度も忘れ屋敷に戻った沙織を榊原が優しく迎えた。いつもと変わらぬ慈しみにそれまで耐えてきたものが一気に崩れ、沙織は彼の胸に顔を埋め泣いた。一瞬榊原は驚いたようだったが、理由は聞かずただ彼女の背中を何度も撫でてやった。そうすることによって彼女が落ち着くことを知っていたからだ。 「・・・ごめんなさい。 私ったら・・・」 ひとしきり泣いた後、沙織は取り乱した自分が恥ずかしくなった。 「大丈夫ですよ。私はお嬢様の守護天使ですからね。・・それよりもだんな様がお呼びですよ。」 「お父様が?」 途端に涙が止まった。沙織にとって2番目に怖い人物が父、秀一だった。もちろん1番は匠である。 「はい。」 榊原に守られながら恐る恐る父の部屋へ向かった。 ノックをすると、入りなさい。という低い声がした。その超えは彼女にとって死を宣告されるようなものだ。沙織は榊原の袖を掴み、ためらいがちにドアを開けた。 秀一はたいそう機嫌良く娘を見た(といっても沙織にとってそれはおよそ機嫌の良い顔には見えなかった。むしろ厄介者扱いされているように感じた。) 「座りなさい。・・・榊原。私は1時間後に出かける。チケットの手配を。行く先はフランクフルトだ。再来週まで戻らない予定だ。」 「はい。かしこまりました。」 頼みの綱の榊原は用事を言いつけられ、ていよく追い払われてしまった。これで沙織は天涯孤独の気持ちになった。
「・・・・昨日。匠と話をした。聞いてるかね。」 相変わらず父の声は重々しい。沙織は答えることが出来ずただ首を振った。 「おまえに縁談があるのだ。相手はさる国の皇子だ。」 ハッとして顔を上げた沙織の表情はショックのあまり凍り付いていた。来るべきときが来たのだ。早いか遅いかの差であって、それは彼女が得宗寺家の跡取りとして生まれたための宿命であった。 「・・・・お、とう・・さ、ま。」 「なんだ。」 「匠さんは、その話を聞いたの、ですね。」喉に声が張り付き思うように言葉が出ない。 「そうだ。」 「匠さんは何と?」 「それを言う前におまえはどうなのだね。今の話を聞いてどう思った。」 「・・・しかたがありません。・・私には選択の余地は、ありません。」 「では、甘んじて受けるのだね。」なぜか秀一の声には怒りがこもっていた。 「は、い。」 「そうか。では決定だ。おまえは今週末来日するその皇子と見合いをしなさい。私は同席することはできないが、堅苦しいものではない。あるパーティに出席するのだ。そこで彼と挨拶を交わすだけだ。いいな。仔細は榊原から聞きなさい。」 それだけ言うと秀一は出かける用意を始めた。心なしかイライラしているようだ。 「お父様。匠さんは何と?」 「なぜ彼を気にする。彼も1人息子だ。そのくらいおまえにもわかるはずだ。私は出かける。もう用はない。」 くもの糸のような頼みの綱もあっさりと切られてしまった。自分という存在は父や匠にとってなんだったのだろうと、これまでになく悲しい気持ちになった。放心状態のまま父の部屋を出た沙織は、自室に戻ると緊張の糸が切れたのかそのまま倒れこんでしまった。
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