私立朱雀高校は理事長の得宗寺(とくそうじ)正一が50年前に世界に通用する人間の育成に役立てようと、若干23歳にして設立した学校である。もちろん幼稚園から大学までエスカレーター式に進学できるのでるが、途中入学も可能であり又、別に進路を求めることもできる。私立とはいっても理事長が趣味で設立したような学校なので、学費は公立並みに抑えられていたため、経済面で脱落する生徒はほとんどいなかった。しかも設備や教師に至っては最高級のレベルまで高められており、したがって他の私立校と比べると格段の差があった。1つの難点は、入学する基準が非常に厳しい。ということだった。学力は無論だがそればかりでは頭でっかちになってしまう、という正一の考えで、他に必ず他人より秀でたものを持っている、ということが条件だった。スポーツは元より、勉学とは関係のない家事など、とにかく何でもよかった。正一のメガネに叶えば何でも有り、といったところだ。そこが普通の高校と違うところだった。 しかしその正一も年には勝てず、還暦を迎えると同時に息子の秀一にその座を譲った。すると間もなく力が抜けたのか寝込んでしまいそのまま帰らぬ人となった。その後、跡を継いだ秀一は父の思想を受け継ぎ、より学校の発展に努め、あらゆる分野で活躍する生徒を輩出するようになった。それゆえ学校の名声も高まりと同時に入学希望者が増加し、以前よりも競争率が激しくなりブランド色が一層濃くなった。 名門とまで云われるようになった朱雀高校にまた新たに拍車をかけるような生徒が現れた。といっても昨日、今日馬脚を表わしたというのではなく、彼が小学校に入学すると間もなく頭角を表わしたためそれがどこまで続くのか、といったことが学校関係者の興味の的となった。その生徒の名は周防(すおう)匠(たくみ)。彼は成績優秀であるばかりではなく、武芸に秀で、高校入学時にはすでに剣道6段、空手5段、合気道5段の猛者であった。しかもそれを感じさせない風貌をしており、俗に言うイケメンの持ち主でもあった。したがって女性にモテないはずはない。ところが彼は女性に対して異常なまで冷たく、特に言い寄ってくる女性に対しては(年令に関係なく)容赦ない言葉を浴びせた。そんな彼が唯一、心を許しているのではないか、と思われる女性がいた。それは幼なじみであり朱雀高校理事長の一人娘、得宗寺沙織であった。
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