笹崎家に顔を出した綾子は、調べたいことがあるからと勝和の退院祝いに集まった隣近所の人達に挨拶もそこそこに足早に東京へ戻った。 ゴールデンウイークも終盤だったこともあり本の元保有者、高木とコンタクトが取れ、速攻で会うことになった。 教えられた住所をたどって自宅に訪ねると、高木は待ってましたとばかりに綾子を中へ招きいれた。令夫人も同席していたので(秘書を兼務しているらしい)安心して勧められたソファに腰掛けた。グッドタイミングで紅茶とケーキが出てきた。 「さぁどうぞ。お口に合うかどうかわかりませんが。」 「ありがとうございます。でも先生。突然押しかけてご迷惑じゃありませんでしたか?」 「なんの、なんの。あなたのような美しい方の訪問ならいつでも大歓迎ですよ。・・・それで・・あの本について何か尋ねたい事があるとか。私に出来る事ならどんなことでもお教えいたしますよ。」 傍に控えている夫人を気にかける風もなく、綾子を誉める高木。夫人もまたそんな高木の様子をニコニコと微笑みながら見ているので、かえって綾子の方が萎縮してしまった。 「大丈夫ですよ。私達はお互いを認め合った夫婦ですからね。で?話というのは?」 高木に促され、少しずつ緊張が解けていく綾子。 「はい。あの、実は・・・あの本を書かれたウイリアム・カーペンターという人の終戦後の消息と交友関係を知りたいのです。先生ならご存知ではないかと、ご迷惑と承知の上お訪ねしたのです。」 必死な顔付きで訴える。 「おやおや。何かと思えばそういう事でしたか。消息と交友関係ねぇ。・・・ちょっと待ってくださいよ。」 高木は数ある蔵書の中から一冊の本を取り出した。「ああ、これだ。」と満足そうに呟くと再び元の椅子に腰掛けた。 「これはですね、あなたに進呈した本の言語版。つまり翻訳される以前の原本です。ここに何か書いてあるかもしれない。・・・ええと、いつでしたか?・・昭和20年以降? つまり1945年ですね。 終戦後ですか ええと・・・ああ。ありました。1945年10月2日。私達はハワイに着いた云々というところですね。え?あ、既に読んだ?ああそうですか。・・・・うーん。・・・ああ。ダメですね。あとは和訳されているものと殆ど変わりませんね。消息ねぇ・・・消息・・・ あ!そうだ!この人に聞けば解るかもしれない!電話番号は・・と。 ああ、これだ。」 既に本は夫人の手に。代わってアドレス帳が高木の手に渡されていた。阿吽の呼吸である。高木はアドレス帳を見ながら、とある出版社に電話をかけた。 「・・・・私は桃連(とうれん)大学の高木という者ですが、酒井さんはいらっしゃいますか?・・・ええ。私の担当の酒井守君です。はい。 おお!酒井君。丁度良かった。連休だから休みかと思ったよ。ちょっと調べてもらいたいことがあるんだが。・・・以前、君のところで出版したウイリアム・カーペンターというアメリカ人が書いた『私の海軍時代』という本があったろう。その作家について調べてもらいたいんだ。あ、いや、プロフィールというものではなく、終戦後の消息やその後の交友関係・・・(チラッと綾子の顔を見て)で宜しいかな?・・・あ、いや。こっちの話だよ。 そうそう、その2点を調べて欲しいんだよ。・・え?わかってるよ。・・次回は君のところを優先するよ。 大丈夫。約束するよ。・・じゃ、なるべく早く頼むよ。」 時折綾子に確認しながら高木は出版社に調査を依頼し、簡単な世間話をして受話器を置いた。 「良かったよ。酒井君がいてくれて。こういったことは餅は餅屋でね。出版社に頼むのが一番なんだ。彼なら大丈夫だ。内緒だけれどね、私の担当の中では彼が一番信用がおけるんだ。あとは寝ながら果報を待てばいい。」 「申し訳ありません。私が面倒なことをお願いしたばかりに先生にご迷惑をおかけしてしまって。」 「とんでもないよ。私の方こそあなたのような見目麗しい女性に頼りにされて得をした気分ですよ。それに私もその後のカーペンター氏に興味が湧いてきましたからね。一挙両得というのはこのことですよ。」 ウインク付きの賛辞に思わず赤面してしまう綾子。高木にはそれが日常茶飯事のようで、そういうキザなセリフをサラッと言ってしまえるところが宮下の言わんとする高木がモテる所以のようだ。 「そんな。私美人じゃありません。・・・。」 益々赤くなる。 「何という事ですか。あなたが美しくなければ世の中で美しい人などそうはいませんよ。あなたと結婚する男がうらやましい。ねぇ?」 今度は夫人に同意を求める高木。夫人は夫人で、 「全くその通りですわ。私など主人を取られるのではないかと最初にお目にかかった時から心配しておりましたもの。」 とすかさず夫の意見に同調する。しかしその言葉には嫉妬などという下世話な感情は微塵も感じられない。 「ほらね。あなたはもっとご自分に自信を持って良いんですよ。」 高木の優しい言葉に良との破綻が思い出され、綾子の目からポロポロと涙がこぼれた。それを見た夫妻は事情を知らないだけに自分達の言動が綾子の心を傷つけてしまったと勘違いし、大慌てで謝罪した。 「・・・申し訳ありません。先生方のせいではありません。・・ちょっと悲しいことを思い出してしまって。・・ごめんなさい。・・少しの間・・・」 そう言ったきり綾子は両手で顔を覆い肩を震わせた。夫人がそっと肩を抱き、自分の方に引き寄せた。幼い頃両親を亡くした綾子は、ずっと他人に甘えることなく育ってきた。確かに笹崎夫妻は親代わりになって非常によく面倒を見てはくれたが、それでも本当の父母ではなかった。そのせいか綾子は決して一線を越えて2人に甘えたりすねたりするようなことはしなかった。謂わば優等生を演じていたのだった。それが高木夫人の醸し出す雰囲気に、彼女の心に甘えたいという感情が芽生え、その胸を借りて泣いてしまうという失態をしてしまったのである。それに対し夫人は何も言わず、ただそっと頭を撫でてくれた。部屋には暖かな日差しが差し込み、カッコウの鳴き声が聞こえていた。
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