伊能忠敬が日下部家を辞し、数馬は宗太郎夫婦と夕食交じりの酒宴の後で久方ぶりに茉莉の部屋を訪れた。ところがいくら呼べども茉莉は返事をしない。腰元の小萩に聞くと、茉莉は部屋にいるはずとのこと。だが最近数馬が来ると決まったように部屋に閉じ篭り出て来ないのでどうしたものかと思案していたのだそうだ。これはしめた!と思った数馬は、再び茉莉の部屋の前に戻り、わざと皆に聞こえるような大声で叫んだ。 「瑠璃殿は素晴らしい方ですね!美人だし優しいし頭もいい!宗太郎殿が羨ましい!あのような女性(にょしょう)が存在するということはこれからの日ノ本の未来は明るいという事です!いやぁ!瑠璃殿は素晴らしい!小萩、おまえもそう思わぬか?」 数馬はわざと素晴らしいを連呼した。すると勢いよく襖が開き、真っ青な顔の茉莉が姿を現した。 「か・かように申されるのなら! 義姉上(あねうえ)と一緒になられたら宜しゅうございましょう!」 それだけ言うとサッと襖を閉めようとする茉莉の身体をグッと引き寄せ、中に入ると後ろ手に襖を閉める数馬。それを見て気を利かせた小萩はすっとその場を離れた。 「な・何をなさいます!声を出しますよ!」 数馬の腕の中で必死にもがく茉莉。 「声?おお、どうぞご自由に。あなたの相手が某(それがし)である以上、この家の者達は誰一人助けには来ませんよ。たとえあなたのお父上や兄上でもね。むしろお転婆な娘をどうにかして欲しいと願っておられる。」 「いやっ!!」 尚も抵抗する茉莉に、 「静かにしなさい!これ以上のわがままはあなたに恥の上塗りをさせることになるのですよ。」 数馬のひと言は茉莉の抵抗を止めさせたばかりか、反対に泣かせてしまう羽目になった。 「あ・あなたが・・いけないのです・・」 「私が・」 「そうです・・あれほどわたくしを妻にと仰っておきながら・・来れば義姉上(あねうえ)のところに入り浸りで・・兄上が・かわいそうです!」 「何を言うのかと思えば・・・宗太郎殿も瑠璃殿の知性は認めておられるし、私が天文に興味があるのも承知の事。それに私はあなたに一度振られた男ですよ。他の男が好きだという理由で。それゆえそのように言われるのは心外ですし、おかど違いというものです。それともそっちの男じゃ埒が明かぬと私に鞍替えしたというのですか?そして関係のない瑠璃殿に対して勘違いの嫉妬をしている。」 「ち・違います!わたくしは嫉妬なんて!」 「今のあなたの行いや言動を嫉妬以外の言葉では表せない。エゲレスの言葉ではじぇらしいというそうです。」 「わ・わたくしは!」 そう言ったきり袖で顔を隠し泣いている姿をじっと見ていた数馬は、優しくその身体を引き寄せ、自分の腕の中にすっぽりと包み込んだ。 「・・・・正直に申せば、私はあなたにヤキモチを焼かれて嬉しかった。――――私は今でもあなたを妻に欲しいと思っている。ただあなたの気持ちが別の男にある以上、無理強いするともりはない。それは今も同じだし、これから先も変わることはない。だがそれは私個人の考えであって鏑木家のものではない。私が兄の後を継ぎ家督を継いだ以上、子孫を残す義務がある。いずれどこぞの家中の娘と祝言を挙げねばならぬことはあなたも武家の娘なら承知しておられよう。それはあなたの身の上にも言えることだ。」 そこで数馬は茉莉の身体を離し、じっとその目を見つめた。まるでそこから茉莉の真意を探り出すかのように。
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