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作品名:夢・幻(うたかた)の夢 作者:Shima

第61回   1人の老人
  それから数馬は口実を作っては日下部家に日参するようになった。もちろん誰にも見合いを断られたとは口外していないので、日下部主水や宗太郎は両手(もろて)を上げて喜んだ。茉莉だけが困ったような顔で出迎えていたが、それでも来てもらっては迷惑と言わないので、図に乗った数馬はこれみよがしに宗太郎相手に酒を酌み交わし、果ては泊まり込んでしまう事さえあった。

  宗太郎の妻、瑠璃の実父は天文方に出仕していた。その娘である瑠璃も幼少の頃から星空を眺めるのが好きだった。それゆえ天文の事には造詣が深く、数馬は話を聞いているだけでワクワクし、時の経つのも忘れてしまうほどだった。ところが宗太郎と茉莉にしてみれば内心面白くはない。宗太郎は女子(おなご)に学問は必要なし、という封建的な考えの持ち主だったし、茉莉は数馬、すなわち風太郎は自分に会いに来ているはずなのに、兄嫁と楽しそうに語らっている姿を見せ付けられているのだ。おまけに自分にといえば、来た時と辞す時だけ挨拶する程度で、これが先日我が妻に!と熱望していた人と同一人物とは思えないような豹変ぶりである。したがって茉莉としては全くもって面白くない日々の連続になった。その鬱憤(うっぷん)を晴らされる稲や腰元こそいい迷惑というものである。
 
  ある日。いつものように数馬が日下部家を訪れると先客があった。珍しいことに瑠璃の客らしい。数馬は隣の部屋で所在無くしていると、聞くとはなしに2人の会話が聞こえてきた。盗み聞きは良くないとわかってはいたが、その内容に興味を惹かれ、直接襖を開けては失礼かと改めて廊下に出てから声をかけた。
「まぁ!鏑木様!お越し下さっているとは露知らず、ご無礼をいたしました。」
サッと立って出てくる瑠璃を静かに制し、
「いや。某(それがし)の方こそ無礼とは承知の上で声をかけてしまいました。」
と改めてその人物を見た。
  一見、普通の老人。しかしその目は眼光鋭く町人髷にはしているが、なかなかの人物と見た。
「お初にお目にかかります。某(それがし)鏑木数馬と申します。実は瑠璃殿に会いに参ったのですが、隣室で待っておりますうち、あなた様との会話を耳にし、いても立ってもいられず失礼とは存じたのですが図々しくお邪魔してしまいました。」
挨拶方々話しの邪魔をした侘びを言う数馬に、その老人は驚いたように後ろへ下がった。
「これはこれは。手前の方こそご無礼いたしました。私は伊能忠敬と申します。こちらの瑠璃様のお父上、小此木(おこのぎ)様には一方ならぬお世話になりました者でございます。」
「瑠璃殿の・・・では天文方にご関係が?」
「はい。この度旅に出ることになりましたので、瑠璃様にもご挨拶をと思いまかり越した次第でございます。」
「旅?」
「鏑木様。伊能の小父様は50を過ぎてから星の勉強を始められたのですよ。それまではご実家のお店(たな)を切り盛りなさっておられたのです。旅というのはですね。日ノ本の地図を作るため、蝦夷地まで行くのだそうです。わたくしも案じているのですが、小父様の熱意はきっとお天道様も溶かしてしまうくらいだと思いますのよ。」
にこやかに伊能という老人の話に補足する瑠璃。
「地図・・・ですか?!これはすごい!50を超えられてからという話にも驚きましたが、地図を作るために蝦夷まで旅をするとは!」
「瑠璃様。50、50と人を年寄り扱いしないで下さいまし。手前はその年になって初めて自分のやりたいことを出来るようになったのです。ですから年は関係ないと自負しているのです。」
笑いながら瑠璃をたしなめる伊能老人。そこには世間の年寄りに見られるようなやる気のなさは微塵も窺えない。それから3人は時の経つのも忘れ、はるか未知の世界について語り合った。おかげで数馬はまたしても日下部家へ泊まるはめになってしまった。だが伊能という老人が旅する本当の目的を数馬も瑠璃も生涯知る事はなかった。






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