数馬が帰宅したのは既に丑(うし)の刻を回っていたのだが、火急な用だからと兄、静馬の寝室に押しかけた。 「どうしたのだ。このような時刻に。」 最近は臥せっていることが多い静馬だったが、数馬と対峙する場合に限ってはいつも上機嫌で布団を背に起き上がる。弟のおとぎばなしのような話を聞くのが唯一の楽しみになっていたからだ。 「兄上。かような時刻に申し訳ございませぬ。実は―――」 と先程までの話を聞かせた。初め可笑しそうに笑っていた兄が、段々険しい表情になっていった。 「――― かような理由(わけ)でその茉莉という武家娘を宇都宮まで送り届けなければならないのです。乗りかかった船、と申しましょうか。そこで家をしばらく留守にしたいと存じまして、深夜も顧みずお願いに上がった次第です。」 「・・・・話はわかった。だがそちが長期に渡って家を空けるのは困る。儂(わし)に、もしものことがあらば即、お前に家督を継いで貰わねばならんからの。そちが留守の間、という事にもなり兼ねぬ。」 「兄上!何を仰るのです!そのような弱気では病に食われてしまいますぞ!道中飛脚にて逐一(ちくいち)報告いたしますれば、兄上も某(それがし)が帰宅した折の四方山話を楽しみにお待ちくだされ。」 「しかし・・・そちの縁談も進んでおるしの・・・なるべく在宅して貰いたいのじゃ。」 「兄上。その件に関しまして訊ねたき議がございます。某、縁談がある旨は佐々岡から聞きましたが、具体的なことは一切分りませぬ。兄上がご存知のことを教えて頂けませぬか。」 「と申しても、儂も大目付の鳥居様の仲立ちで相手は勘定方のご息女。ということだけであとは全く分らぬ。はっきり分ったなら真っ先に知らせるつもりではおったのだがな。」 「ということは鳥居様のご沙汰を待たねばならぬ、ということですね?」 「沙汰、などと縁起でもない。」 「某にしてみればそれでもまだ良い表現だと存じますが・・・・とにかく用が済み次第すっ飛んで帰って参りますれば、何卒、旅に出るお許しを戴きとうございます。」 「うーむ。 ところで数馬。その娘御、別嬪じゃったか?」 突然静馬がニヤニヤして聞いた。 「兄上!――― さすが兄上。察しの通り。かなりなものですぞ。私も若い頃はいろいろ遊びもしましたが、あれほどの美形にはついぞお目にかかったことはありませなんだ。初めはここが少し弱いのか、とも思いましたが、なかなかどうして賢い娘でございました。」 「そうか。・・・・ならば行くがよい。行ってその茉莉という娘御を助けてやれ。」 「はい! では木戸が開くと同時に出立いたしますれば、これにて御免。」 そう言い残して去って行く後ろ姿を見てポツリと静馬は呟いた。 「儂も1人前の男として妻を娶ってみたかった。」
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