それから半時(はんとき)ほどして、すっかり身支度を整えた茉莉が稲に手を取られ座敷に姿を現した。 数馬はわざと後ろを向いていたし、茉莉も下を向いたままだったので、お互いの顔は見えてはいない。だが数馬は茉莉の様子が手に取るようにわかった。 「茉莉。こちらが鏑木殿だ。此度(こたび)は隼人の一件で大変世話になったお方だ。お前も存じておろう。」 宗太郎の妙に明るい物言いが茉莉には憎らしく思えた。 「はい。・・・鏑木様。此度は兄の旧知をお救い下さりまことにありがとう存じました。」 茉莉の挨拶に鏑木という男は何も答えない。何と失礼な男か、とすっかり記を強くした茉莉は、想いのたけを一気に捲し立てた。 「兄上!鏑木様!わたくし・・・わたくしにはお慕い申し上げているお方がございます!それゆえこのお話はなかったことに!」 「何だと!お前!この後に及んで何を血迷うた事を!そこへ直れ!!俺が成敗してくれる!」 いきり立つ宗太郎を見て数馬は内心この男は役者になれるのではないかと思った。 「あ・兄上。」 「その男の名前を最後に申せ!その男も儂が成敗してくれるわ!!そこまではっきり申すからには儂には聞く権利がある!一体何という男だ!新之介か!!」 「いいえ!違います!」 「では誰じゃ!」 「・・ふ・・ふら・・ふうたろう・・さま・・」 兄がこのように激昂する姿を初めて見た茉莉は恐る恐る消え入りそうな声で答えた。 「ふらふうたろう?!何じゃ!そのふざけた名前は!古来、東昭神君公より拝し賜わりし直参旗本、日下部家の者とあろう人間がどのこ馬の骨とも分らぬような名前の男にうつつを抜かすとは!そこへ直れ!やはり儂の手で成敗してくれる!このような失態、戯言(ざれごと)では済まされぬ!」 怒り狂った宗太郎が刀を鞘から抜いたとき、ようやく数馬が行動を起こした。 「宗太郎殿。もう許してやって下さい。妹御も必死の想いだったのでございましょう。のぉ、茉莉殿?」 そう言って振り返った鏑木数馬なる人物の顔を見た瞬間、茉莉は言葉を失った。次第に身体が震えてくる。 「驚かせて申し訳ござらん。某が鏑木数馬でござる。」 「かかかかか・・」 「富良風太郎というのは某の仮の名。あなたと同じように家を慮(おもんぱか)り咄嗟に口から出た名前でござる。あなたもそうと分っていて某を風太郎と呼んでおられたのでしょう。その後、自分の見合い相手があなただと分ったのだが、理由(わけ)あって黙っていたのです。この通り、謝ります。」 手を付き深々と頭を下げる数馬に宗太郎が慌てた。 「数馬殿!何もそこまでなさらなくとも。貴殿は私達の為に。」 「いや、私達の間にどのような理由(わけ)があろうとも、妹御には一切関係ない事です。結果的に茉莉殿を騙してしまいました。これだけは謝罪しておかなければ某の気持ちが済みませぬ。」 2人にやり取りを見ているうちに少しずつ落ち着きを取り戻した茉莉は、『お二人ともひどうございます!』とひと言叫ぶと一目散に自室へ戻り、再び襖(ふすま)を閉ざしてしまった。
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