「わたくしも先程お嬢様から聞かされるまでついぞ忘れておりました。」 そう前置きして稲が話したこととは−−− 最近、茉莉とさる家中の人物との間に縁談話が持ち上がった。ところが茉莉には幼い頃からの許婚(いいなずけ)がいた。しかし5年ほど前、その相手が剣の修行を理由に突然出奔。そのまま現在に至るまで音沙汰なしの状態であった。そのため周囲は茉莉の年齢の事もあり、婚姻を履行するのは不可欠だと考え始めた。その矢先新しい縁談話が持ち上がったため、茉莉の家ではその話しに乗り気になった。ところが当の本人が自分は婚家の定まった身だからと誰の助言も聞こうとしない。そこで父親である当主が改めて許婚の家からその話は白紙に戻す、という念書を貰い茉莉に見せた。相手の家でも元々死んだものと公儀に届け出てあったので、いとも簡単に念書を出す事に了承したのだった。それで茉莉も納得したかに見えたのだが、出入りの商人からその許婚にそっくりな人物を宇都宮で見かけた、という情報がもたらされた。その話を父と兄がしていたところを偶然聞いてしまった茉莉は、いても立ってもいられなくなり、とにかく本人に会ってその心意を確かめ、その方に事情があるなら自分はそこに留まり一生添い遂げたい。それだけの想いだけで家を出た。−−−− ということだった。 「・・・・その御仁の実家で他界した、ということで扱っておるのであれば、尚更茉莉殿は宇都宮に行ってはいかんと存ずるが。」 腕組みをしながら聞いていた数馬がそう言った途端、ガタッと物音がした。稲が障子を開けるとうな垂れて泣いている茉莉の姿があった。 「お嬢様!しっかりなすって下さいまし! ええ!分りました!それほどまでに新之介様の事をお捜し申したいのなら――― このばあやがお供いたしましょう!そして新之介様に会ってその後の事を考えましょう!」 何と!これはとんでもない事を言い出す婆さんだ! 「稲殿。あんたまでそんな浅はかな事を言ってどうするのだ!・・・仕方ありません。あなたのような年寄りにこのお嬢様を守ってかの地へ行ける道理がない。この話、お引受いたそう。但し、大勢で押しかけてはその新之介殿とやらも困るであろう。ここは某(それがし)に茉莉殿を任せて頂きたい。夫婦者として旅すれば街道は何とかなるだろうし、行く先々で何らかの方法を取り、状況を知らせるゆえ、手形など送り届けて貰えまいか。」 「富良殿!それではご承知下さるのでございますか?!」 稲が喜びの声を上げた。茉莉も喜んでいるのが分る。改めてその顔を見ると、誰をか云わんや、傾国の美女と詠われた楊貴妃を想像(おも)わせる程の美くしさだ。数馬は内心新之介という男に嫉妬を感じた。そういえば俺にも縁談があったなァ、とまだ見ぬ花嫁と目の前にいる娘を比べてしまう。 「但し、そなた達が某(それがし)の申し出を受けて下さるのであれば、の話でござるが。」 「ええ!勿論でございます。お頼みいたすからには路銀は全てこちらでご用意いたします。それゆえなるべく早く出立を!」 「ならば明日では如何(いかが)かな?」 「はい!異存はございませぬ!」 「しからば明朝迎えに参る。それでは某(それがし)はこれにて失礼致す。」 颯爽と立ち上がる数馬に茉莉が頭を下げた。 「道中は長い。・・・今宵はゆるりと休まれよ。」 感謝の気持ちで震えるその小さな肩に優しく声を掛けると、数馬は稲の庵(いおり)を辞去した。
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