直(すなお)の部屋は心なしか薬のにおいがした。滞在してからの期間が気になった数馬は直の宿泊期間をそれとなく尋ねてみた。 「いいえ。今日で5日目です。偶然となりに泊まった客が癪(しゃく)を起こしまして診察したのが縁で・・・何とも言えず居心地が良いのですよ。この宿は。」 「医師(せんせい)のような方がいて下さって本当に助かりました。改めて礼を言います。」 「いやぁ、せんせいだなんて。直(すなお)で良いですよ。私も修行中の身ですから、せんせいだなんて呼ばれると他人事のような気がして・・・あの・・先程から気になっていたのですが、お尋ねしても宜しいでしょうか?」 「は?どのような事でしょうか。」 「あなた様はもしや、鏑木数馬様ではありませんか?」 「え?!」 「いや。間違ったのなら謝ります。」 「間違ってはござらん。某(それがし)は鏑木数馬でござる。しかしなにゆえ某(それがし)の名を?」 「やはりそうでしたか。実はあなた様の兄上、静馬殿は私の患者なのです。本来私の兄が診ていたのですが、事情があって私が診るようになりました。それで何かとあなた様の話題が出ておりましたので、お名前だけは存知上げておりました。なるほど静馬様にそっくりであられる。もっともあなた様の方が精悍(せいかん)な顔付きですが。先刻は富良と名乗られたのには何か仔細があるのかと黙っておりましたが、やはり何か理由(わけ)があったのですね?」 「左様。ちと訳ありで名を偽っているのです。」 「ではあのお女中は?」 「家内というのも偽りで、さる旗本のご息女です。」 「そうでしたか。」 「実は某(それがし)いまだに本名を明かしていないのでこのことは内密に。」 「わかりました。ですがお2人はなかなか似合いの夫婦に見えますぞ。いっそのこと本当の夫婦になられては?」 「結構な話ですな。」 「私、静馬様よりあなた様のことをいろいろ伺っておりましたが、なるほど聞きしに勝る人物とお見受けいたしました。そうそう、縁談があると伺いましたが、その後どうなりました?」 「そのようなことまで兄は話していたのですか。」 「ええ。心身共の患者ですから、静馬様は。」 「実は世の中にこんな摩訶不思議なこともあるのか、と自分でも驚いているのですが――」 と数馬は自分と茉莉の経緯(いきさつ)から真実までを掻い摘んで話した。
「なんと!驚き千万!似合いと私が感じたのもあながち勘違いではなかったのですね?なるほど・・・」 感心したように頷く直(すなお)に数馬は少々照れたように付け加えた。 「ですから余計に今、本名を明かしたくないのです。」 「そうだったのですか。もし差し支えなければあの方のお名前を教えて頂けませんか。」 「なんの。差支えなどありませんよ。兄と昵懇の間柄と伺った上は。あの娘御は日下部主水殿のご息女。茉莉殿でござる。」 「日下部!――― 勘定吟味役の日下部様?」 「左様。」 「また奇遇な事!ご嫡男宗太郎殿は、やはり私の患者です。同い年ということもあり大変気の合う友人でもあります。最近気鬱(きうつ)の病で薬を調合したばかりでした。何でも妹御が行方知れず・・・あ!もしかして!」 「え?それでは日下部家では大変な騒ぎになっていたのですか?」 「それはそれは天地がひっくり返ったような大騒ぎですよ。表向きは何もないように振舞っておられますが、宗太郎殿も妹御の件でお父上からいろいろ言われたらしく、それで病が出た、と思われます。」 「某(それがし)茉莉殿をお返しいたす折は、腹を切る覚悟でいなければなりませんね。」 その言葉とは裏腹に、数馬はそれを楽しんでいるように直には感じられた。 「数馬殿!冗談ではないですぞ!宗太郎殿は先導した者は誰であろうと決して許さないと怒り心頭の様相でしたから。」 「ふむ。それは困った。いや、実に困った。」 だが一向に困っていない様子だ。 「それに宗太郎殿には別な問題もあるし・・」 「別の?何です?」 「あ、いや。それは・・・」 慌てる直に数馬は興味なさそうに呟いた。 「たいした事ではないのか。」 「いや。それが―――」 「いやいやそれは聞かないでおこう。お家の恥になる事もあろうし。」 「あなた様に聞いていただけるのなら、宗太郎殿も秘密を打ち明けることに何ら支障はないと思うでしょう。宗太郎殿の病を治すには原因を断ち切らなければなりません。ですが医者の私ではどうにもならないと・・・もし数馬殿のお知恵を拝借できるならと、私といたしましても非常に助かるのですが。」 「ふむ。・・・わかりました。某(それがし)でお役に立てるのなら拝聴いたしましょう。」
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