「桜が咲き始めましたね」 老人ホームの裏庭にある数十本の桜の木が、うっすら色づき始めていた。 その桜の木が眺められるように備えられている一脚のベンチに二人の老人が並んで腰を下ろしている。 片方の白い顎髭を持つ老人の隣には、お婆さんが座り、咲き始めた桜を懐かしそうに眺めていた。 「昔、正太郎さんがね、私の絵を描いて下さいましたの。桜がいっぱい咲く中で」 隣に座る老人が、そう呟くお婆さんを振り返って見ると、コックリコックリと居眠りし始めていた。 「森本さーん」 後ろから介護士が彼女を呼んでいる。 彼女はお婆さんを見つけると近づいてきた。 「また、こんな所で寝てしまって。森本さん。森本さん。息子さんがいらっしゃっていますよ」 その介護士の後に付いてきた50歳過ぎの男性は、母親の隣に座る老人に気がつくと軽く会釈した。 お婆さんが介護士に付き添われ、中に入るのを見届けてから、男はその老人の隣に腰掛けた。 「参りますよ。時々、私の顔ですら忘れてしまうんですよ。父は親孝行する前に亡くしましたし、せめて母は、本当はこんな病院ではなく、家で面倒見てあげたいんですけどね。家内にも先立たれ、一人息子は定職にも就かずフラフラしているし、とても痴呆症の母の世話なんてできる状態じゃないんですよ」 「そうですか。それは大変ですね。ところで、“正太郎”というのは、6年前に亡くなった絵画画家の池畑正太郎のことですか?」 「母はまたその話をしていたんですか…。本当かどうかは分かりませんが、恋人同士だったとか。私自身、絵画などには全く興味がないもので、知らなかったのですが、確かに池畑正太郎とは同郷ですよ。でも、どうなんでしょう。何しろ戦前の事ですし…。2年前ぐらいから呆けはじめたんですが、そのころからでしょうか…、急に自分がモデルをした絵を見たいと、言い出しましてね。それまでは、そんな話一度も聞いたことはなかったんですよ」 「ほほう」 「最初は、痴呆症の母の話だからあまり本気にはしてなかったのですが、あんまりしつこく言うモノですから、実は、少し池畑さんの作品を調べたんですよ。そうしたら、あったんですよ。母の絵が」 「どうして、その絵がお母様を描いた絵だと分かったのですか?題名がお母様の名になっていたとか?」 「いえ。…実は、小さい頃、アレと同じ絵を押入の中で見たことがあるんですよ。その頃は何も知らなかったし、手入れもろくにしてないような汚い袋に入ってて、そんな大事な物だとは思ってもいませんでしたよ。気にも止めてなかったので、いつ家の押入から消えたのかも知りませんでした」 「その絵は今どこにあるのかご存じではないのですか?」 「何年か前に倒産した会社の持ち物だったらしくて、差し押さえられた後、どこに行ったか、さっぱり…。」 「見せてあげたいですね」 「そうですね。値段から言って、買い取るなんて不可能ですけど、少しだけでも見せてあげられれば、と思います」 「桜の中での美しい油絵らしいですね」 「桜、ですか?」 春の生暖かい風が桜の葉を揺らした。
「ふあ〜」 窓から入り込む心地よい風に服部は大きな欠伸をした。 「うっわー。この窓からの桜満開だぜ」 テツは嬉しそうに満開の桜を眺めて叫んだ。 服部は、無事高校に入学したと思ったら、中学三年間に続き、またもや長谷川鉄郎と同じクラスになってしまったのだ。 もちろん席は服部の目の前だ。 「服部、部活決めた?決めてないなら甲子園行こう」 「勝手に行ってよ。電車賃はチャンと払っとけよ。ちなみに、僕はもう決めているんだよ」 「どこだよ」 「決まってんだろ。帰宅部だよ」 「やっぱり、仕事に差し障るからか?怪盗ハットリの」 発展のないやり取りに、またか、と頭を抱える服部の頭上で穏やかでない声がした。 「怪盗ハットリ?あのインチキ臭いドロボーのこと言っているの?テツ」 話を割ってきたのは、瀬戸内理真。 テツの幼なじみだ。 入学式にテツと10年ぶりの再会を果たしたのだ。 「理真には関係ないだろ」 テツはどうやらこの女が苦手らしい。 プイとそっぽを向いた。 話を終わらすと言う賢明な方法にでたテツの努力を無視するように理真はテツに食らいついた。 「何よ。テツ。子供の時あんなに面倒見てあげたのに私に逆らう気?」 「面倒だと?オレがいつ、どこで理真に面倒見て貰ったか?」 「あげまくったわよ」 「いらないモノを無理矢理押しつけたんだろーが。そんなモノ、熨斗つけてクール宅急便で返してやるよ」 「いくらクール宅急便でも、10年前のモノは腐っていんじゃないの」 思わず口を挟んでしまった服部を、理真はじろりと睨んだ。 その眼光の鋭さに服部は引きながら、呟いた。 「こわ〜」 真剣に怖がっている素振りの服部を見下ろし理真は苦々しく言う。 「服部君って言ったわね。怪盗ハットリと名前が同じってだけでもむかつくわ」 「僕もあんたの名前はキライだね」 服部は小声で呟く。 思い出したくない、よく似た名前を思い出す。 「大体、怪盗ハットリに恨みでもあるの?」 「ないわよ」 きっぱり、理真は言い放った。 「ないけど、あの自信過剰な手口が気に入らない」 はあ〜? 服部は度の入っていない眼鏡を掛け直し、無意味に大胆不敵な態度で人を見下している理真をマジマジと見た。 かなり自己主張の激しいしっかりとした瞳に、今まで一度も色を抜かれたことのなさそうな健康的な黒髪が少し掛かっている。 「黙っていればかわいいのに」 正直な感想をボソッと呟いた服部の一言に、理真は頭に血を上らせ、教室から出ていった。 勿論、怒って。 「変わってないな。理真は」 「昔からああなのか?」 あんなヒステリックな小学生はかなり嫌かも。 「アイツ、いろいろ苦労したらしいからなぁ」 テツの話では、彼女は母子家庭に育ち、小学生の頃、一家の大黒柱であった母親を亡くし、祖母に育てられていたらしい。 「それより明日マラソン大会だな」 嬉しそうにテツは言う。 そんなものを楽しみにしている奴は、コイツぐらいである。 服部は明日のマラソン大会にウンザリしながら、春の太陽の下で、思い切り咲いている桜を見て、今夜の獲物を思い出した。
桜に栄える美しい少女の絵だと老人は服部に教えた。 「“微睡みの少女”か…」
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