川側に面した十階建てのビルの屋上は、高さ2メートルのフェンスに囲まれ、中央には未だ飾り付けが付いたままの10メートル近いクリスマスツリーが立っている。 冷たい風は徐々に速度を増しツリーを揺らす。
アルは黄金の髪を揺らし、フェンス向こうのツリーを眺めた。 その隣で理真は30メートル下の川を恐る恐る見下ろした。 「本当にハットリは来るの?」 「餌が気に入ればね」 「じゃあ。来ないかも。先生が何を勘違いしているのか分かんないけど、私とハットリは特に親しい訳じゃないもの」 「そう。でも、彼は今日、元々、ここに来るつもりだから、ついでに助けてくれるかもしれないね」 「…ついでって。まぁ、それなら可能性は…。…ねぇ。先生は怪盗ハットリとどういう関係なの?」 「うるさい人質だな」 アルは内ポケットから掌に収まる大きさのスプレーを取りだし、一吹きで理真を眠らせてしまった。 フェンスと30メートルの奈落に繋がる縁には一メートルの幅がある。 理真はその僅かな幅に寝かされた。
「待たせたな」 アルは待ちに待った恋人でも見るように微笑みながら振り返る。 フェンスに立っていたハットリは軽々とフェンス外側に飛び降りアルに歩み寄る。 「理真は?」 アルは顎で後ろの理真を指した。 「ちょっと眠っているだけだよ」 風は音を伴い地上30メートルの空間を別世界へと引き離す。 ハットリは足下に広がる夜の世界を見下ろすこともなく、アルを真っ直ぐに見据える。 理真を後ろにアルは一歩一歩ハットリに近付いて行く。 容赦ない風は、ギシギシとフェンスを軋ませ、ハットリの頬を叩き付ける。
ギシッ。ギシッ。
手を伸ばせば届く範囲に入る。 青い瞳にハットリの口元が弧を描く。
ギシッ。
ハットリの口元が描いた弧にアルはハッと息を止め、後ろを振り返る。 理真の姿は既に無く、代わりに服部が立っていた。 もう一度アルは先程まで見ていたハットリを振り返る。 アルは楽しそうに笑い出した。
「タイチの相棒って訳かっ」 言い終える前に、アルは目の前のハットリの首を掴んだ。 その勢いにハットリに変装していたロビンは倒れ、アルはロビンの首を掴んだまま、ロビンの腹の上に跨った。 アルはハットリの顔を剥がし露わになった虎之介の顔を睨んだ。
「ロビン!」 叫んで走りだそうとした服部にアルが目を向けた瞬間。 ロビンは自由になる右足でアルの首に蹴りを回した。 フェンスに叩き付けられたアルは素早く身を立て直す。 が、即座に足を払われる。 ニッと嗤い虎之介は目で服部を促そうとした。 予定通り自分がアルを惹き付けている間にツリーに、と。 金網に手を掛けた服部を蒼い視線が一瞬捉えると同時に、
銃声が響いた。
ロビンは銃弾を素早く避けたものの、バランスを崩す。 真横には足を踏み出せない場が広がっている。 その隙にアルは身を躍らせる。 形勢はまたもや逆転し、アルはロビンの腹に跨る。 ロビンは首を掴まれ宙に頭を晒された。 ロビンは右足を上げた。 「同じ手が通用するか」 アルは振り向きもせずにロビンが振り上げた右足を撃ち抜いた。
金網を掴んだまま固まってしまった服部は自分の体から全ての血の気が引いた音を聴いた。 「アル。やめてくれ!ロビンには関係ないだろ。オレ達はローガンの汚職に関するデータを握っている。ここでオレ達を殺せばそのデータは自動的にインターネットを通じ全世界に流れる様に仕組んでおいた。だから…、」 勿論、服部の出任せである。 さらに足を進めようとする服部にアルは冷たく言い放つ。 「来たら撃つよ」 服部の言葉など聴いていないかのようにアルはロビンの顔を見つめる。 右足の激しい痛みに、整った虎之介の顔が歪む。 「今の君の顔も綺麗だが、僕は女性の君の方が好みだな」 虎之介の苦痛に歪む顔の背後には、30メートル下に闇を飲む深い川が流れる。 蒼い瞳にはそこに広がる闇が映し出される。 ロビンは首を掴まれたまま、その顔だけが空中に浮いた状態になっていた。 「次は、その顔」 アルはロビンの右足を撃ち抜いた銃をその額に押し付けた。 二人の足下にロビンの鮮やかな赤い海が広がりを見せる。 「アル。もう、やめよう。オレが死ねば、全て終わるんだろう」 服部は川の写す闇からキラキラと放たれる光を見つめる。 「ハットリ。お前、何するつもりだ」 闇を見つめる服部にロビンは震える声で、訊く。 服部は僅かに視線をロビンに向ける。 「これ以上、アンタに付き合わせるわけにはいかないよ」 ロビンには痛いほど解っていた。 服部にとって、死とは、それ程の重みはない。 その一歩を踏み出すことは、そこに唯立っている事よりも遙かに簡単だった。 ギリギリと額に喰い込む銃口を感じながら、ロビンはアルを見据えた。 「撃てよ」 ロビンの眼光が、アルの蒼い火を煽る。 しかし、蒼い熱は目の前の男から服部に矛先をかえる。 「…タイチは、何か勘違いしているようだから教えてあげるよ。タイチを殺害するように、依頼したのはローガンではないよ。いくら何でも、当時2歳で、その後、行方不明になった子供をわざわざ殺し屋に殺させるわけが無いだろう。タイチの養父であったエドワードは僕が殺したけどね」 「じゃあ、どうしてアルは…」 服部の問いに、アルは僅かに口を動かす。
「悪魔の子」
風よりも静かな振動が服部の心臓を瞬間に冷凍する。 それは、服部の深淵だけに巣くっていたはずの膿んだ傷。 故意に見ずに生きてきた冷たい傷。 「タイチ。君の実の母親に依頼されたんだよ。悪魔の子を殺して欲しい、と」 凍り付いた心臓はあまりに脆く、粉々に砕け散る。
確かにこのツリーの下で感じた温もり。 凍り付いた心臓の奥に隠し、でも、13年かけても溶かし切れなかった想い。 服部の瞳にさらに深い闇が漂う。 この闇は13年間の年月、流れることなく、その瞳に留まり、腐り続けてきた。 アルの優しい声が、滑らかに風に乗る。
「月に住んでいるよ。タイチの母さんは」 今夜、月は何処にもない。 しかし、虚空を見つめるアルの瞳は、月が浮かぶ湖を想わせる。 湖面はキラキラと静かに波打つ。 波が、ぐらりと立つ。
ぴちゃん。 赤い血が、弾けた。 ロビンの額を押し付けていた銃はその瞬間川へ消えた。 アルは右肩から溢れる血を押さえ、僅かに呻き声を上げた。 「アル。お前はワシに復讐したいんだろ」 奥に響く低い声。 それに反応した微妙に掠れる声は風に乗り服部にも届く。 「これは、ビジネスです…」 「なら、お前はとっくにハットリを消しておる。爆破事件といい、至近距離で外した銃弾といい。ハットリを殺す気などないだろう?」 静かな蒼が憂い自嘲する。 「その様ですね…」 ビジネスと割り切り服部に手を掛けるつもりが、無意識に別の方向へと感情が流されていた事を、漆黒の闇に否応なく気付かせられる。 そして、少しずつ狂い出していた事を。
「今まで僕自身を支えてきた価値観を壊されたくなかったのかも知れない」 「だから、か?」 だから、敢えてビジネスとして服部を殺す事で自分の価値観を守ろうとしたのか。 「貴方を慕う気持ちも、タイチを想う気持ちも、認めたくはなかった。…つまらない感傷でした。子供と同じです。あなた達に家族を視ていたのかもしれません。だから裏切られるのが怖かったんです。タイチが来てから、貴方は変わりました。それは私にとっては裏切りでした。貴方は価値観を静かに変えていった。人の命さえも依頼品にすぎなかったあなたの価値観は、6年の歳月を掛けゆっくりと変化し、そして今尚変わり続けている。でも、結局、僕も変わっていたんですね…」 狂ってしまったのか、狂気から覚めただけのか? 「永遠など、ありはしない…」 夢を見たのか、夢から覚めたのか? 「ア…ル…」 服部の呟きに蒼く深い湖面から滴が零れる。
零れた滴はロビンの頬に落ち、蒼い瞳は滴に濡れたロビンを捉える。 「…君に嫉妬したよ」 ロビンを見る蒼い瞳が、静かに瞼を閉じた。
「つまらないショーでしたね…」
それは、故意だったのか、またはそうでないのか。
アルは音もなく、川に消えた。
蒼い湖は深く漆黒の川に流された。 冷たい風だけを残して。
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