空に漂う闇に見え隠れする月が、定まらない服部の心の隙に入り込む。 月光と闇とが交互に服部に囁く。 視界の隙間に不意に弱い光が射した。 星かと一瞬疑ったが、それは、遠くのおもちゃ屋に立つクリスマスツリーからの光だと思い当たった。 ツリーの光は星よりも確実に輝いている。 冴えた服部の脳にツリーの光が張り付く。
光は遠い過去を連れ戻す。 初めて盗んだモノは、実母の小さなピアスケースだった。 本当は何でも良かった。 唯、母を驚かせたかった。 母の目をバッグから反らし、そっとピアスケースを掴んだ。 全く気付かない母に、益々上機嫌になり気付かぬ内に母の手を離していた。 手に残ったのは、ピアスケースだけ…
シンと静まり返った廊下に、ロビンのハイヒールの音が規則正しく鳴り、やがて止まる。 「ハットリの具合はどうですか?」 ロビンは声を低め老人に尋ねた。 「峠は越した。順調に回復へ向かっておる。…ロビンにも知る権利はあるじゃろう」 老人は服部に渡したのと同じ書類をロビンに手渡した。 月明かりは老人の顔に深い皺を刻む。 音のない夜には無機質な世界ばかりが広がる。 廊下の窓から入り込む月明かりを頼りに全ページを読み終えると、ロビンは深い溜息を吐いた。 「ふ〜ん。つまり、ハットリの命を狙っているのは、有力な次期アメリカ大統領候補、トム・ローガンと言うワケね」 「おそらく。13年前、コンピュータープログラマーだったエドワード・ブロック、つまりハットリのアメリカの養父が偶然見付けたローガンの汚職に関するデータをネタに、ローガンを強請ったことが、始まりじゃ」 「それで、そのエドワードは?」 「既に殺されておった。それも、おそらくアルじゃろう」 「ハットリの実母は?彼の奥さんだった」 「行方不明じゃ。今、調査しておる。もしかしたら、もう既に…」 「でも、13年前って言ったら、ハットリは2歳にもなってないハズでしょ。そんな2歳の子供の記憶のために殺し屋を雇うかしら」 「現に、ハットリは二度も殺され掛けておる」 「でも…」 不意にロビンの脳裏に青い瞳が過ぎる。 月明かりの下、何処までも透き通るアルの青い瞳。 そして、それとは対照的な黒い老人の瞳は深淵を覗き込む慈悲深く、冷たい色。 その瞳からは老人の心の中を視ることは不可能だった。 深い闇の色がゆらりと動き、低い老人の声はロビンの耳に響く。 「おそらく、ハットリが生きていることが分かればアルは、再びハットリの命を狙うじゃろう」 「もう、知られているわ。さっき、玄関で逢ったの」 それは充分な可能性があったため、老人は特に愕く事もなく、その事実を受け入れる。 「でも、今夜、何故彼はハットリを殺さなかったのかしら…。今のハットリはまともに動く事も出来ないのに」 「オレなら動けるぜ」 そこには今日の午後、目覚めたばかりの服部が何事もなかったように立っていた。 「大丈夫なの」 ロビンは心配そうに服部に近づく。 「アルが来てたのか?」 黒い帽子を握りしめロビンは頷く。 服部は暫く何かを考え、老人をジッと視た。 「じいさん。最後に盗みたいモノがあるんだ」 「最後って?」 ロビンは服部の言葉に愕然とした。 大道虎之介と言う表の顔を持っているにも関わらずロビンはこの仕事を続けるつもりでいたのだ。 しかし、老人は黙って頷く。
「お姉ちゃん。最後ってどういう事?」 「あら。理真は嬉しくないの?あんなに嫌がっていたのに」 絵里は意外そうな顔で自分の妹を眺めた。 「まとまったお金が手に入るから、そろそろ潮時かなって思っただけよ」 「まとまったって?大道の弟はお金を出すの?手引きまでさせといて結局遺言状は手に入らなかったわ」 理真は不敵に微笑む絵里を見て、どうやら上手く相手を丸め込む手を思い付いたんだろうと検討が付き、安堵と共に僅かな罪悪感が心を痛める。 「私は彼に唯、運命のお話をしただけだもの。あの夜、遺言状が貴方の運命を決めると」 大道家は火に包まれたにも関わらず、耐熱製金庫に入った遺言状は無事に日の目を見ることが出来た。 遺言状の内容は財産の事については触れられていなかった。 ただ、息子に全てを任せるとの内容だと健次郎氏から聞かされた時、絵里は首が繋がったと喜ぶ健次郎氏の愚かさに僅かに同情した。 「大道虎之介が社長を務める大道ホールディングスの副社長に大道健次郎の名が候補として上がったとの情報を掴んだの」 身内の健次郎氏よりも早くこんな情報を仕入れる麻美は中学生である。 二人をまるで無視するように黙ってパソコンに向かっている麻美は姉の引退宣言を止める風でも喜んでいる風でもない。 絵里は言葉を続けた。 「その情報を旨く利用して、全て霊の導きってヤツにしたの。遺言状の事も含めそうなる運命で、最後は貴方に幸運がやって来ると。幸運って言うのは、つまり、副社長の事なんだけど。まぁ、そんな事を旨く言ったのよ」 それが幸福であるかどうかは本人の問題である。 自分の義兄によってその息子の掌に乗せられた健次郎氏は、いつでもその掌で握り潰されてしまう立場を理解していない。 理真は姉の口から、詐欺にも似た呪文を捧げられる客に今更ながら同情した。 麻美はパソコンの画面から理真の顔に目を移す。 「大道虎之介は非常に頭の切れる人間です。もしかしたら今度の事で大道健次郎が一役買った事を掴んでいるかもしれませんね。もし、そうだとしたら財産分与の事を含め、健次郎氏は大道虎之介の忠実な駒になります」 麻美はそれだけ言うとまた画面に向かう。 理真が姉の引退を素直に喜べない理由は、一つしかない。 この世界から遠ざけば、二度とハットリには会えないような気がしたからだ。 この仕事のお陰でハットリに会えたのだ。 しかし、理真は大道虎之介の事を絵里にも麻美にも言う気がしなかった。 絵里は不意にあの秋の夜を思い出す。 「それにしても、あの爆弾騒ぎは何だったのかしら?本物が偽物に怒って仕掛けたのかしら?」 「ハットリがあんな事するわけないでしょ」 間髪入れずに絵里の言葉をきっぱりと否定した理真に、麻美は小さな溜息を吐いた。 「理真お姉さまはハットリをご存じなのですね?」 「な、な、なーに言ってんの???」 どっと冷や汗が理真の顔から吹き出る。 今度は絵里の口からも大きな溜息が漏れる。 「とにかく、もう終わり。私はこれから最後の仕事に行って来るわ。明日はパーティでもしましょ。私が料理作るから」 もう、会えないの? 「ちょっと、理真。聴いているの?」 理真の心にハットリ君の仮面の笑顔が過ぎる。 その下に隠された本当の笑顔をまだ一度も見た事がない。 思い出せるのは自信に満ちた弧を描く口元。 初めて出会ったのは、春。 理由もなく、必ず逢えると信じていた。 季節は巡りに巡ってもう、冬だ。
もう一度逢いたい。夢でもいいから…
現実に、理真は学校で毎日服部の素顔を見ていた。 しかし、真実を知らない理真にとって、それは無意味な現実。 窓から遠くに見えるツリーのイルミネーションが、理真に心細げに瞬く。
午前零時を回り、その光は静かに消えた。
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