院長室。 「いつも無理言って済まないね」 「頭を上げて下さい。貴方には昔随分お世話になりましたから。それより、あの少年の怪我は射創です。弾は急所を外れていましたが、発見が遅かったからか、多量に出血していました。侵入痕から見て近射ですね。貴方には心辺りが有るのですか?」 老人はコックリと頷いた。 院長はコーヒーを老人に勧めてから、ゆっくりと老人が座るソファの正面に腰を落ち着けた。 老人は勧められるままにコーヒーカップに手を伸ばす。 「1年前までワシのところにいたイギリス人を覚えているかね」 「ええ。16年近く貴方のところにいましたね。…まさか、彼が?」 老人の哀しそうな顔に院長は答えを聞くまでもなかった。 コーヒーから放たれる香りが院長室を包み込み、老人は忘却し得ない邂逅に引きずられる。 「院長は戦時中の事を覚えているかの」 「…貴方は急に行方不明になりましたね」 「視えてしまったんじゃよ。日本の敗戦が。戦後、日本人は大日本帝国からのマインドコントロールから解き放たれ、結局、迷い始め、また、新たなるマインドコントロールを無意識に求めているように見えた。或の者は過去の人間が作り出した常識にそれを求め、或者は外からの新しい価値観にそれを求めている。戦争を知らない子供達。そして、その子供達。遺伝子は我々に何を伝えているのか。ワシにはさっぱり分からんのじゃよ」 「親子は愛し合うモノ、弱き者は助けるモノ。そんな先入観すら貴方には無意味ですからね。遺伝子が伝えないモノは自分で手にしない限り意味を為さない。いい加減、貴方も人類がゆっくりと培ってきたマインドコントロールぐらいには掛かったらどうですか?その方が楽に生きられるんですよ」 「…既に違うモノに洗脳されているのかもしれない。自覚する間もなく脳が蝕まれ、腐り落ちているのはワシの方かもしれん。そして、あの少年の父親も、また…」 老人はコーヒーカップをコトンとテーブルに置いた。 コーヒーは一口も減っていない。 「少年の父親ですか…?」 老人は頷き、少年の父親を遠い記憶から手繰り寄せる。 「ワシが20年前に出会ったのはつまらないコソ泥じゃった。ワシは男を連れ、アメリカ、ヨーロッパ、中東を巡った。ソイツはある意味で天才だった。そして、ワシの僅かな先見を最大限に生かし、その裏世界で知らない者はいないくらいに泥棒としての名が広まった。何でも盗んだ。宝石、絵画、武器、情報。時には人の命さえも。“悪魔の仮面”と名乗って。ふざけた名前じゃろう?だが、人々は欲しい物があれば、金を積めば、全てが手に入ると我々を敬い恐れた」 柔らかな夕日が、窓から差し込み院長室はオレンジ色に染まる。 老人は未だに遠い過去に一人で践み入り彷徨っていた。 「ある日、ロンドンの下町でストリートキッズを仕切っていた少年に出会った。ワシ等は彼を連れてバブル膨らむ日本へ戻り、三人で仕事を始めた。そして、元からのパートナーである男は一人の女に出会った。しかし、日本は男にとって狭すぎ、女の妊娠を聞くと一人姿をくらました。それから16年、その男はワシの前に姿を現しておらん。ただ、女が捨てた少年だけがワシの前に現れた」 老人は冷めたコーヒーに、あまりにも深く、そして、果てしなく遠い闇を見つめていた。 「どんなに年を喰っても何一つ分からぬ。したり顔で世間を斜めに見たところで、本当のモノは、見えぬどころかそれの存在すら分からん。ワシは何に洗脳されてしまったのだろうか?有りもしない夢を未だに見続けているのは、ワシだけなのだろうか?それとも、自分だけが、という事こそ単なる思いこみで、孫にお年玉を与えている彼等も、一皮剥けばワシと同じなのか?彼等も深い沼で藻掻いているのか」 どんなに見つめてもコーヒーが創る闇には何も映り出されはしない。 老人を見ていた院長は、コーヒーカップをコトンとテーブルに置くと思い出したように言った。 「そう言えば、ここにあの少年をここに運んで来た人は…」 院長の言葉は、内線電話から鳴り響いた院長秘書の声に遮られた。 『院長。503号室の患者の様態が急変しました。急いで向かって下さい』 二人は顔を見合わせ、服部太一の病室へと向かった。
「先生。急に太一が苦しそうに息し始めて」 太一の母親が取り乱したように院長に訴えた。 側にいる父親が必死に息子に語りかけている。 「太一。どうしたんだ?苦しいのか?」 「落ち着いて下さい」 院長はチラリと血圧計を見遣り、的確に看護婦に指示を与えてから、自ら服部の脈を取る。 ジッと服部を見ていたテツがハッと気付いたように言った。 「おばさん。何か言ってる」 服部の口元が僅かに動いている。 それは確かに何か言っているように見える。 服部の母親は服部の手を握り必死に問いかけた。 「何?太一。何が言いたいの?」 父親も院長に振り向き精一杯訴える。 「院長先生。お願いです。太一を助けて下さい。本当に良い子なんです。この子は本当に親思いの良い子なんです」 老人は部屋の片隅でその光景を黙ってジッと見ていた。 僅かに動く服部の口を部屋にいる全員が注目した。 「太一。起きて。早く」 母親の目から涙が溢れる。 息子を想うその目から止め止めもない涙が流れる。 「…っい…て……っく…」 苦しそうな息使いと共に辛うじて服部の声がその口から漏れる。 額からは次から次へと汗が流れ落ちる。 「何?太一。何が言いたいの?」 服部の口元にテツも耳を集中させた。 「…とい…て…くれ」 「何?」
「…っといてくれ。オレなんかほっといてくれ。ほっといて…くれ!」
服部の声が病室に響き、そして、沈黙だけが広がる。 徐々に目から入る光をうざったそうに、服部は受け入れる。 オレンジ色の光に広がる静寂の中、自分に向けられた幾つかの視線を服部はようやく感じる事が出来た。 開いたばかりの目に光が形へと姿を変える。 服部太一の母親。 服部太一の父親。 テツ。 その三つの視線に宿る困惑。 ここは、…? 服部太一の世界だ。
ほっといてくれ…
自分から出た言葉に、苦笑せずにいられない。 今まで両親にそんな口の聞き方などした事などなかった。
「オレ、…僕、どうしたの?」 そう言う側から、脇腹の痛みを感じ忽ち記憶を取り戻す。 長い邂逅から、急速に現実を理解していく。 あぁ、そうだ、…アルに撃たれたんだ。 アルに…
「君は轢き逃げされて、この病院に運ばれたんだよ」 「轢き逃げ?」 院長の言葉に眉を顰めたが、視界の片隅に老人の姿を認め服部は全てを理解した。 院長は服部の両親に優しく言った。 「お父さん。お母さん。太一君にはまだ安静が必要です。目覚めてまだ冷静さを失っているようですし、今日のところは帰っていただけませんか」
テツは帰り道釈然としない面持ちで、服部の両親に呟いた。 「…何かあの院長、気に食わない。大体、いくら腕がいいからと言って、あんなに年喰った院長なんて自ら出てくるかな。ねぇ、そう思いません?」 「え?えぇ。そうねぇ」 テツの質問を訊いているのか、いないのか母親は未だぼんやりと考え事をしているようだった。 「それに、あの端にいたじいさんは、誰ですか?」 「じいさん?いたかしら」 「……。じゃあ、僕の家、こっちですから」 テツは、軽く会釈して自分の家に帰った。
テツを見送った父親が初めて口を開いた。 「ねぇ。母さんは太一が泣いたのを覚えているかい。私には思い出せないんだ。太一が取り乱して泣いたり、怒ったりするのを。あの子を拾ってから13年過ぎたが、私はあの子の何を見ていたのか。太一の全てを分かってるつもりだったよ」 「私も、同じことを考えていた。あんな風に太一に言われた事今まで無かったなって。本当はあんな風に親を突っぱねたりなんて、普通なのに。私は今までの太一が普通だと思っていた。バカね」 「あぁ。バカだったよ」
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