トントントントン… まな板をたたく音がリズムカルに長谷川家に響いている。 包丁の持ち主はテツである。 母親のいないこの家では、家事はテツと美雪の二人の仕事であったが、美雪の入院中は全てテツの仕事である。 今日は珍しく父親の長谷川宣雄がいた。 捜査一課の鬼平こと長谷川宣雄も、家に帰ればただの親父である。 テツは慣れた手つきで沸騰しかけたみそ汁にサッとネギを入れた。 電話のベルが鳴る。 おたまでぐるりとみそ汁をかき回し、左手に持ったお椀にテツは豆腐のみそ汁を注いだ。 父親の話声がテツの耳に届く。 それは次第に大きくなっていき、ついに怒りが加わった。 「何度言えば、分かるんだ。あんたに美雪を渡す気はない」 テツは電話の相手が分かった。 美雪の母親だ。 五年前、美雪がまだ二歳の時、捜査二課にいたテツの父に結婚詐欺で逮捕された女だ。 彼女は余罪があったため、暫く刑務所での生活を余儀なくされ、身よりのなかった美雪は親戚の間をたらい回しにされた後、長谷川家に落ち着いた。十歳だったテツは、その時の事をよく覚えていた。 1年後、母親は刑務所から出ても、娘を迎えには来なかったのだ。 そして、あれから5年過ぎた今になって、急に連絡をよこしてきたのである。 父、宣雄は怒りにまかせて、ドスンとちゃぶ台の前に座った。ちゃぶ台にはテツの作った夕飯が並んでいる。 沈黙で食事がしばらく続いた。 テツは箸を置き、思い切ったように言った。 「親父さ…。美雪を母親に返してもいいんじゃないか?」 宣雄は黙ったまま、テツの作ったみそ汁をすすった。 「あいつ、何も知らないし、何も言わないけどさ。母親ってもの、欲しいんじゃないかな」 「お前は欲しかったのか?母親」 みそ汁の豆腐が宣雄の箸の中で壊れた。 「オレは男だからいいんだ。でも、美雪は女だから、母親が必要だと思う…」 テツは言葉を止めた。 沈黙が二人を包む。 宣雄は何も答えなかった。 テツは沈黙に耐えられなくなり、ぬるくなったみそ汁を、一気に飲み干した。 この家がこれ程まで静かだったことはなかった。 テツの母親は心臓が弱く、入退院を繰り返していたが、美雪が引き取られて暫くは嘘のように元気になった。 しかし、1年後、美雪が正式に長谷川家の一員となったと同時に息を引き取った。 まるで、美雪を自分の身代わりのように残して。 だから、テツは美雪は血が繋がっていないと知っていても家族にしか思えなかった。 血の繋がっていない美雪が母親と同じく心臓病を患っていた事実が皮肉としか言いようがない。 1年前、心臓に痛みを訴えた美雪は、心室中隔欠損症と診断された。先天性の心疾患である。右心室と左心室の間に穴が開いているのだ。 美雪はギリギリまで我慢していたのだ。 もし、母親がいたなら…。 テツはいつもそう思った。 そうすればもっと早くに美雪の異変に気付いたはずだ。 テツはグッと両手を握りしめた。
ピピピピピ… 服部のポケットから、軽快な電子音がした。 徐に手をポケットに突っ込み、その音を止めてから、内容を確認する。 仕事だ。 「なに?なに?」 帰り道、テツが興味深そうに訊ねてくる。 「何でもないよ」 さり気なく答える。 「今度は何を盗むんだ?」 またか。服部は深く溜息を吐いた。 「ほんっとに、しつこいな。いい加減にしろよ。だいたい僕達受験生だよ。そんなこと言ってる場合じゃないだろ?」 「そう言えば、オレ、志望校変えたから。西高にした」 唐突に話を変えるのはテツの得意技だ。 「え?僕と同じじゃないか!」 近所の公立高校である。 テツは某有名私立高校志望だった。 思いっきり顔を顰めた服部には気付かずテツは笑っている。 「だって、高校なんてどこでもいいような気がしてさ、近い方がいいよ。やっぱり」 熱血少年なテツは何でも一番を目指した。 成績もスポーツも優秀で、生徒会長もしていた。 目立たない服部とは対照的な存在だ。 しかし、最近元気がない。 無理矢理明るく振る舞っているのが服部にはイヤでも分かる。 あの妹のせいだろうか。 「今月の25日のクリスマス、美雪の誕生日なんだ。外出許可が下りたから家で祝おうと思っているけど、服部も来ないか?」 テツの申し出に服部は首を横に振った。 「家族水いらずすごせよ」 これ以上この家族には関わりたくないとニッコリ笑って本音を隠す。 不意に服部の指がぴくりと動いた。 服部はテツに気付かれないように後方へ神経を集中させた。 そして、息を吐いてからテツに言った。 「じゃあ、僕、ちょっと用あるから」 服部はいつもの帰り道とは違うT字路でテツを見送り、足を止めた。 後ろから赤いフェラーリが静かに服部の横に滑り込む。 「つけていたのか?ロビン」 フェラーリの窓からこの車に似合いすぎるほど似合った女が、サングラスをかけたまま、ニッと笑った。 「いやね。人聞きが悪い。迎えに来てあげたのよ」 服部は少しムッとしたように車に乗り込んだ。 ロビンは神出鬼没である。 教えてもいないのに、こうして服部の前に当然のように現れる。 それに引き替え、服部はロビンについて何も知らない。 本当の名前も、顔ですらも。 ただ、この誰もが見とれるほどの絶世の美女が実は男であるという事実以外は。 そして、じいさんはいつもの小汚いビルの一室で服部を待っている。
「今回の仕事じゃ」 そう言って老人は三枚の写真を見せた。 服部は写真を一枚一枚じっくりと眺めた。 三枚の写真は同じ女性が違うアングルで撮られている写真であった。 服部はふと一枚の写真に目を止めた。 一枚だけ他の写真より古く、しかも、赤ちゃんを抱いている。 「この女、確か前回の仕事先の金持ちジジイの奥さんだよな。ガキなんかいた?」 「ふうーん。まあまあね」 ロビンは女を値踏みするように、まじまじと写真を見つめた。 「今回盗むのはこの女性じゃよ」 「おい。待てよ。誘拐はごめんだよ」 「誘拐じゃない。依頼主はこの女性自身じゃ」 水戸黄門のようで、水戸黄門よりも油断ならないジジイだ。 服部とロビンは、にっこり微笑むじいさんに視線を送る。 「この女性は離婚したがっているのじゃよ。ところが、ここの御主人はごうつくばりなジジイでな。一度手に入れた物を離したがらない。この女性はほとんど軟禁状態で、外出するにも、常に見張りがついておる」 「弁護士とかいるだろ?」 「そんなまともな手はこのジジイには通じんのじゃよ」 自分もジジイのくせに。 「どうせ金目当ての結婚だろ。自業自得」 突き放したように、服部は言った。 「でも、面白そうね。やりましょうよ」 ロビンは興味津々で言った。 ロビンは本当に趣味だけでこの仕事をしているようだ。 本職は何か知らない。一度訊いたら、ゲイバーでじいさんにスカウトされたと言っていたが、何処まで本当か服部は知らない。 「まあ。別にいいけどね」 この服部の一言で決まりである。 全くこのジジイはどこからこんな仕事を仕入れてくるのか。 それは全くの謎だ。 「で、いつ?」 「12月24日じゃ」
クリスマスイブ。 幸せな人間には最高の日。 それ以外の人間にはこれ以上に最低の日はないだろう。 服部太一は母親がこの日のために作ったケーキやら、チキンだのを目一杯食べていた。 幸せが詰まったこの家で服部は息が詰まりそうになっていた。 クリスマスとか誕生日とか、そんな特別な日、自分の幸福や両親の愛情を、特に強く感じる日は、酷い自己嫌悪に苛まされた。 服部は時計をチラリと見てから立ち上がった。 「そろそろ勉強するよ」 「真面目だな。太一は。クリスマスイブぐらいゆっくりすればいい」 父親は息子を止めようとした。しかし、息子はそれに苦笑いで答えた。 「受験生にはそんな物ないんだよ」 自分の部屋のドアを閉めてから、大きく深呼吸をした。 それからベランダの窓を開ける。 冷たい空気が流れ込んできた。 十二階建てマンションの最上階。 それが彼の家だった。 夜のイルミネーションはいつもより輝いて見える。 遠くにそびえるクリスマスツリーは特に煌びやかだった。 辺りをぐるりと見渡してから、手すりに足をかけ、ぐいっと体を持ち上げる。 それから、屋根に手をかけ屋上へと上った。
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