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作品名:月の裏であいましょう。 作者:木理

第17回   File3:永遠の瞳(5)
 去年の夏の終わり、それは、まだ瞳に光を感じていた涼子の初めての恋だった。
「あなた。涼子を仕事の道具に使うのは止めて下さい」
 母はボランティアが趣味の主婦だった。
「これは、涼子の為でもある!」
 父は貿易会社社長。
 今だに残暑の厳しさを感じる中、涼子は着物を着せられた。
 17歳の誕生日に向かう先は決して楽しいものではない。
 その日、涼子は憂鬱な面持ちで父と共に、ホテルのパーティー会場に招かれていた。
 貿易会社の社長である父は野心家であり、一代で社員数一千人の会社を築いたのだ。
「涼子。嫌なら嫌と、ハッキリ言いなさい。貴女がそんなだから、お父さんはつけあがるのよ。そんなくだらないパーティー。分かってるの?世の中にはね、食べられなくて死んでいく子供がどれだけいると思うの?あなたが今から行くパーティーで出る残飯がどれだけになると思うの?」
「うるさい。誰のおかげで贅沢できると思っているんだ」
 母は苦々しげに父を睨んでいた。
 カンボジアの難民や地雷で足を吹き飛ばされた子供達は、母にはご飯を食べさせてはくれない。
 最初、父は母のボランティア活動を利用していた。
 欧米の取引先に対し、ボランティア活動をアピールすることはプラスになる。
 しかし、母は父に相手にされない淋しさから、徐々にボランティア活動にはまっていき、そんな母を父は徐々に疎ましく思うようになっていった。
 母は涼子を何度もボランティア活動に連れて行った。
 しかし、涼子はボランティアに興味が持てなかった。
 母が一生懸命になればなるほど、冷めていった。
 いつか、流行った名言。
 同情するなら金をくれ。
 付け加えるなら。
 その代償に、あなたに甘い良心の自己満足と優越感を差し上げます。
「…私、パーティーに行くよ」
 その一言で、とりあえず、いつもの喧嘩は収まった。

 そのパーティーには、各界の著名人が招かれており、たかが一貿易会社の社長が来れるような規模ではなかったが、父はコネを使い何とかこのパーティーへのキップを手に入れたのだ。
 高価なキップの見返りは娘の結婚。
 この日のパーティーの主役は、若い独身の青年だった。
 日本でも指折りの名家に生まれ、大道グループ会長の一人息子。
 その日はその息子の大道ホールディングス代表取締役社長の就任披露パーティーだった。
 我が娘を嫁に、そう思うのは父だけではなかった。
 あちらこちらに、着飾った女達が微笑んでいる。
 その中で涼子は一人憂鬱であった。
 いつも思ったことを口に出せない涼子は、父の言うがままにここまで来たが、社交界の雰囲気だけで胸が詰まりそうだった。
 特に、パーティーは大道グループ会長の趣味に合わせ西洋風の豪華な立食パーティーである。
 艶やかなドレスに身を包んだ女達の中で、一人着物を着ている涼子は益々浮いているようで居心地が悪かった。
 やがて、辺りがざわつき始めた。
 主役の登場である。
 耳から女達の囁き声が入り込んできた。
「相変わらず、イケメン。ハーバードでMBAよ」
「お金も地位もあって、頭も良くて、ルックスも最高。日本中の男にランキング付けるとすると間違いなく、ダントツでトップね。」
「でも、噂だとかなり女関係派手らしいわよ」
「それでも、構わない。遊ばれたい」
 ウットリとする女達の視線を涼子は何気なく追った。
 視線を離すことができなかった。
 寸分の狂いなく整えられた美貌、スラリと伸びる肢体、軽やかな身のこなし、何より人を圧倒するカリスマとも言うべき、あの空間。
 神様は不公平だ。
 僅かな嫉妬と共に沸き上がる熱い感情は、初めての恋だったかも知れない。

 若い青年実業家は、丁寧に親しみ深い笑みを保ちつつ、一人一人に挨拶をしていく。
 経済関係の雑誌では何度も表紙を飾った顔だが、涼子にとっては初めてのその顔がこちらに近づいてきた。
 こんなすごい人が自分の父なんか知っている訳がない。
 父もおそらくそう思ったのか自分から声を掛けようとした。
 しかし、響いた声は青年のモノだった。
「グローバルトレーディングカンパニーの栗原社長でございますね。はじめまして、大道虎之助です。この度は、私の就任パーティーにお越し下さいまして本当にありがとうございます。常日頃から社長の事業展開は素晴らしいと思っておりました。さすがに一代でここまで社を大きくしただけの事はありますね。現在の取引は主に欧米の方ですが、中国への進出は考えていらっしゃいますか?未だにカントリーリスクを孕んでいるものの、あの国のもつポテンシャルは大変魅力的です。もっとも、多くの企業が中国的なやり方に敗退し、撤退を余儀なくされましたが、だからこそ、未だに可能性に溢れているとは思いませんか。この不況から脱するには、あの広大な中国市場にかけてみる価値はまだまだあるとお思いになりませんか?」
 あっけに取られながら、涼子は父との会話を聞いていた。
 最初、面食らっていた父だったが、次第に調子に乗っていつもより饒舌になっていた。
 この人は違う世界の人なんだ。
 いや、違う星の人かもしれない。
 父はすっかり娘の事は忘れ、得意になっていた。
 あの警戒心の強い父を一分もかからずに脳のない天狗にしたのだ。
 涼子は時間も忘れてぽかんと口を開けて、現実離れした男を見ていた。
「涼子。何をぼんやりしているんだ」
 父の声に、我に返ると青年実業家は、涼子を見つめていた。
「涼子さんは、とても着物がお似合いですね。私は父と違い、どちらかと言えばドレスより着物の方が好きです。亡くなった母もとても着物の似合う女性でした」
 まるで涼子の沈んでいた心を読んだように優しく微笑む。
 涼子は胸の鼓動の速まりに、返す言葉すら思い付かない。
「今日は会えて嬉しかったです」
 おそらく招待客全員に言ったと思われる言葉に涼子は胸をときめかせた。
 さわやかな微笑みを涼子に残し、青年は去っていった。

 それから、一週間、脳裏にはその笑顔が焼き付いて離れなかった。
 そんな時だった。
 涼子の通う聖マリア学園は、偏差値の面でも学費の面でも、レベルの高い女子校の一つだった。
 女子中学生の憧れの制服を身につけた涼子は、いつものように一人、下を向いて歩いていた。
 信号で足を止め、何の気なしに顔を上げた時に見たのは、間違いなくあの大道虎之介だった。
 道を隔てた向こう側、今にも黒いリムジンに乗ろうとしている初めての恋、不思議な力に惹き付けられるように足が向かった。
 そして、沙里奈の運転する原付に跳ねられたのだ。


「ホントに沙里奈には悪いことしたと思っているの」
 涼子は恥ずかしそうにあの時のことを思い出し、沙里奈に謝った。
「バカだな。怪我させたのは、私だよ」
「…そうじゃなくて、時々思うの。私は、この怪我を利用して沙里奈を無理に付き合わせているんじゃないかなあって」
「無理に?」
 少し淋しげな涼子に、沙里奈は点滴の打っていない方の手を差し伸べ、ゆっくりと涼子の手に自分の手を重ねた。
 沙里奈の手の温かさが伝わる。
「涼子。聞いて。こうなってから、初めて分かることがたくさんあるんだ。こんな事話せる友達いなかった。親友いるかと聞かれても、答えることすらできなかった。涼子に会う前までは」
「親友…」
 涼子は確かに不確かな言葉の暖かさを沙里奈の手から感じ取った。


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