服部は病院から直接学校に向かった。 午後から始まる英語の補習に出席するためだ。 グラウンドでは真っ黒に日に焼けたテツが、バットを振り回していたが、窓からグラウンドを見ていた服部に気付いて、手を振る。 服部も振り返した。
「今回の期末は簡単にしたつもりですが、二人も赤点が出ました」 インテリな英語の教師は溜息混じりに説教し始めた。 理真と服部は黙ってそれを聞く。 「そんなお二人の為に、バケーションを取られているAETの先生の紹介でケンブリッジから先生がお見えになりました。本場のブリティッシュイングリッシュを二人に聞かせてあげますよ」 この英語教師は気取った様子で、イギリス人を迎えた。 「アルフレッド・ノーランさんです」 服部は少なくとも一秒間は心臓が止まった。 この男は… 典型的なイギリス人の男は碧眼の眼と、綺麗にまとめられた金髪を持ち、親しみやすい笑みを服部に向けた。 「ナイス トゥーミーチュー ホワッチュア ユァネーム?」 「タイチ ハットリ」 ゆっくりと、センテンスを区切った英国人の英語に、少し呆れたように自分の名を答えた。 理真は青い眼にどぎまぎしながら、あんぽんたんな事を言っていた。 「アーユー?」 「ミ、ミー?ア、ア、アイム リマ」 「オゥ!リマ!イン ペルー?」 「イ、イ、イエス!」 「…ドゥー ユー アンダースタンド ワナミーン?」 理真は服部の肘をつついて、助けを求めた。 「何て言っているの?」 「あなたは綺麗ですが、エステに通っているのですかって?」 「ノー。ん?ちょっと、服部君。真面目に答えてよ」 この暑いのに真面目に答えられるか。 服部はパタパタと下敷きを動かし、インチキ臭いイギリス人を見た。
授業が終わると理真が服部に文句を言い始めた。 「助けてくれたっていいでしょ」 「僕も英語分からないんだから、仕方ないだろう」 「それも、そうね。服部に助けを求めたって仕方ないわね。本当に服部ってなんの取り柄もないモンね。テツの影で目立たない高校生って感じで」 バカにしているよりも、同情深げに理真は言って帰っていった。
服部は一人教室に残り、グラウンドを見やる。 グラウンドでは今もテツが元気に走っている。 「元気そうだな。タイチ」 後ろから、本場ブリティッシュイングリッシュが飛び込んできた。 「いつ日本に帰って来たんだよ。アル」 不機嫌な服部の答えも日本語ではない。 「ずいぶんなご挨拶だ。一年ぶりの再会を果たしたパートナーに言う台詞か?それにしても驚いた。タイチと英語の補習で会うなんて」 「あのな…。オレは6年間もアルのパートナーしていたんだ。どうせ知っていて、この 学校に来たんだろ?何しに日本に来たんだ」 「何って?酷いな。僕達はきっと切っても切れない赤い糸で結ばれているんだよ」 「気色悪いこと言うなよ。ンなモン、オレがキッパリ切ってやるよ」 「それは楽しみだ」 アルの微笑みはフランス映画のワンシーンのようだ。 それを見ている観客は、スクリーンから笑われているみたいな錯覚を起す。 自分はよくできた嘘を鑑賞しているのだろうか? 服部は自問し、答えはいつも、どっちでもイイっか、だったりする。 「で、じいさんには会ったのか?」 「ミスターにはまだ、会っていない。それにしても大きくなったな。この時期の1年は大きいな」 じいさんをブリティッシュイングリッシュのサーではなくアメリカンイングリッシュのミスターと呼ぶのは昔の癖だという。 服部が仲間に加わる前にいた男がじいさんをミスターと呼んでいたのだ。 「アルも老けたな。30歳か。年寄りのくせに相変わらずキザなツラしてるな」 「タイチも相変わらずだな。そのベイビーフェイスが見られて嬉しいよ」 「あそ。オレもアルの|ファッキンコックニー《ふざけたロンドン下町訛り》が聞けて嬉しいよ」 「酷いな。タイチはもう15歳だったな。僕と初めて会った時は8歳のガキだったのに」 「アルには、いろいろ教わったよ」 「タイチは才能あるし、僕が教えなくても立派なドロボーに為れただろうよ」 「立派なドロボーなんかいるモノか」 アルはクスッと笑って言った。 「血か…」 「え?何?」 「いや。何でもない。それより今どんな仕事しているんだ?」 「目、だよ。もしかしたらアルは知っているんじゃないのか。1年前からその依頼があったらしいから」
夏休みの校舎はシンと静まり返り、グラウンドから運動部の声だけが響いている。 「長谷川ぁ。もう練習終わろうよぉ〜」 先輩の情けない声がテツの耳に入った。 夏の大会から、引退した三年生に代わり何故か一年生のテツが野球部を仕切っていた。 テツは先輩の声に溜息を吐くと帰ろうとする理真の姿を見つけた。 「理真。補習終わったのか?服部は?」 「まだ、教室にいると思うよ」 テツは理真に軽く礼を言うと部室に向かって走り出した。 服部とメシでも食べていくか。 空腹にそんなことを考えながら、テツは素早く着替え、服部のいる教室に向かった。
テツは教室から聞こえる会話に足を止めた。 最初、ラジオから流れている英会話講座かとも思ったが、その一人の声には聞き覚えがある。 授業のリスニングテープよるもスピード感のある英語はセンテンスで区切るような事はしていない。 しかし、テツが教室に近づくとぴたりと、会話が止まった。 おそらく、テツの足音が届いたのだろう。
「夏休みとは言え学校には生徒がいる」 声を落として、服部は日本語でアルに言い、廊下にいる生徒が通り過ぎるのを待とうとした。 それがテツだとは知らずに、服部はアルに笑顔を見せた。 「タイチ。目立たないバカな高校生を装うのは、仕事のためか?」 「…オレは元々バカだよ」 口元に笑みを浮かべた服部の目の中が、一瞬、深い闇に占拠される。 遠い過去が服部の心の隙間に入り込んだのだ。 度の入っていない安物の眼鏡の奥に、立入不可能な彼だけの闇が蠢いている。 しかし、その闇は急速に消えた。 通り過ぎると思われた足音が止まったのだ。
ガラガラガラガラ… 教室の扉に服部の目が釘付けになった。 「テツ…?」 「一緒に帰ろうと思って」 そう言いながらテツの目は見知らぬ外人に向いていた。 「英語の特別アシスタントの先生だよ。僕、補習受けていたんだ」 不覚だった。 突然のアルの出現に少し動揺していた。 聞かれていたか? いや、聞かれていたとしても聞き取れるほどテツの英語力はない。 いや、そんなことが問題ではない。 英語の補習を受ける程の成績の人間がネイティブのイギリス人と対等に話している。 もともと服部が多方面で手を抜いていると疑っているテツが、服部の英語を耳にしていたらどう考えるか。 服部はテツの目から答えを探そうとした。 テツの瞳は暫く不審を浮かべていたが、すぐにいつものテツの瞳に戻った。 「もう、終わったんだろう?帰ろうぜ」 服部はホッとしたように、頷いた。
教室を早々に出ていった服部を見て、アルの顔から微笑みが漏れる。 「タイチは変わらないな」
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