「おはよう、颯太」 「よ、綾香」 いつもの教室で、いつものやり取り。いつもと変わらない朝だ。 火曜日一時間目の日米文学比較論は小難しく課題も多いため、あまり人気がない。教室には十人弱の学生がいるだけだ。 しかし颯太と綾香の所属するゼミの教授の授業なので、二人は律儀に最前列を陣取っている。 綾香は颯太の隣の机にお気に入りのショルダーバッグを置き、椅子を引いた。颯太は生真面目に、参考文献を読んでいる。
いつもと変わらない朝だ。綾香は思う。 ちょっとだけ寝ぐせは残っているけど、髪型のセットは上手くいった。 今日の課題も何とか徹夜で終わらせた。 授業が終われば、吹奏楽サークルの部室へ行こう。最近さぼり気味の颯太を、無理にでも引っ張って。
「あのさ、綾香」 パタンと本を閉じて、颯太は口を開いた。鞄からノートを取り出す手を止めて、綾香は颯太と視線を合わせる。 「何?」 笑顔で首を傾げる。颯太は、ついと視線をそらした。何も書いていない黒板を、ぼんやりと眺めている。
「無理なんだよ」 ため息と共に、颯太は言葉を吐き出した。綾香は笑顔を崩さない。 「どうしたの?」 「頼むから、もう、やめて欲しいんだ」 懇願するような目つきで、颯太は綾香の顔を覗き込む。 「お前の気持ちには答えられない。そう、一か月以上言い続けてるだろう」 綾香は小さく首を振る。 「またその話なの?何度も言ってるでしょう。私が言いたいから言ってるだけだって」 「俺がつらいんだよ、あのメールを毎日毎日受け取るのが」 思わず颯太は声を荒げ、慌てて沈めた。教室にいる学生は、誰も自分たちの方を見てはいない。
綾香は鞄から携帯電話を取り出した。送信済みのメールフォルダを開く。昨日、一番最後に送ったメール。送信先は颯太だ。
『好きです』
その一言。一昨日も、その前も、初めて彼に想いを告げた日から、毎日欠かせたことのないメールだ。
綾香は小さく息をついて、 「何がいけないのか分らない。つらいとか言いながら、颯太はエリちゃんとつきあってるじゃない。私のこのメールで、何か不都合なことあったの?」 颯太はたじろんだように口をつぐみ、また視線をそらした。 その瞬間にチャイムが鳴り、恰幅の良い教授がニコニコしながら教室に入ってきた。
一時間半の授業が終わると、颯太はさっさと鞄にノートや教科書を詰め込み、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。綾香は、彼の薬指に光る指輪をぼんやり見ていた。 去り際に、颯太はこう言った。
「綾香のことはずっと友達だと思ってる。大切だ。だから今まで言えなかった。でももう言うよ。重荷なんだ。迷惑なんだよ」
そして、教室から足早に出て行った。綾香はその後ろ姿を見送るしかできなかった。
いつもと同じ朝だと思ったのに。 ・・・あの指輪は、今日が初めてだったな。
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