「いいねアトラス! 翔ぶには絶好の風だ!」 ステファンの頭越しに、背後からオーリが叫んだ。 「でしょう先生! もうすぐ虹が出ますぜ!」 オーリはいつのまにか、ステファンの両手の外側で、同じロープをがっしり掴んでいる。 強い風を受けながら、ステファンはふと、前にも同じような事があったような気がした。 そうだ、思い出だした。父のオスカーと、初めてスクーターに乗った時だ。 小さかったステファンは、父の両膝の間でステップに立って、ハンドルを握らせてもらったのだ。その手の外側で、大きな父の手がハンドルを握った。実際に運転しているのは父なのに、まるで自分がスクーターを運転しているような気分になれた。あの時の爽快感。 もちろん、そんな危険な乗り方をしちゃいけないことは知っていたけど。後で母にこっぴどく叱られたけど。 「ステファン、虹だ、虹!」 オーリが指差した先に、大きな二重の虹がかかっていた。 「うわああ先生! ぼく、虹を追っかけて翔んでる!」 「翔んでるのは俺だがな! しっかり楽しめよ!」 アトラスはご機嫌のようだった。
「おっと、風が変わった」 アトラスは首をひねり、いきなり斜めに旋回した。 「ひややぁぁぁ!」 「こんくらいでわめくなチビ、見せ場はこれからだ!」 いきなり身体が宙に浮く感じがしたかと思うと、アトラスが急降下を始めていた。 「わああ墜ちる! 墜ちるーっ!」 恐慌(パニック)を起こす、とはこういうことか。ステファンはロープを離してしまい、慌ててオーリの腕を掴んだ。 「だらしないぞステファン! ひゃーっほほうー!」 オーリはと言えばむしろ楽しそうに頭の上で叫んでいる。 「とめてとめてとめてーっ!」 叫んだところで止まるわけがない。怖さに耐え切れず思わず目を閉じる。何度か母を呼ぶ言葉を叫びそうになったが、かろうじて我慢した。いつまで続くのだろう、と思い始めた頃、急に胃の底に重力を感じて、ステファンは再びアトラスが上昇を始めたのを知った。 「よーし、風に乗った! アトラス、さすがだ」 「へへっ、造作もないさ」 「ステファン、いつまでしがみついている? しっかり目を開けて見ておかないと損だよ」 頭を小突かれて恐る恐る目を開けると、いつのまにか虹は消え、夕空の中をアトラスは飛んでいた。 「すごい……」 ステファンはひととき、怖さを忘れた。 周り中が黄金色と紫の陰影で染め上げられた織物のようだ。刻々と姿を変える雲はさながらプラチナ繊維の縫い取り。このうえなく贅沢なローブを羽織り、自然という名の偉大な魔法使いが天空を駆けてゆく。 「ああ、悔しいな、とても表現できないな……」 言葉とは裏腹に、むしろ嬉しそうなオーリのつぶやきが聞こえてきた。 夕空の中を縫うように、アトラスは巧みに風を読み、上昇気流に乗り、そしてまた降下、それを繰り返す。 怖い。怖いが、だんだん背骨の芯がかゆくなる。ステファンは笑いだした。 「ハハ……ハハハハハ」 「そうだステファン、笑え笑え、大声で笑え!」 「ハーッハハハハハ!」 最初はなんで自分が笑っているのかわからなかった。が、だんだん本当に愉快になって、いつの間にかステファンは大声で笑っていた。 楽しい。なんだか笑い声につられて身体中から余計なものが吹き飛んでいく。 「アトラス、家まであと一息だ、そのまま西へ!」 「おうよ!」 「わぁおおうー!」 拳を振り上げ、ステファンも叫ぶ。 強い風を受けながら、アトラスの翼は力強く羽ばたいた。
やがて眼下に、森に囲まれた一軒の白い家が見えてきた。 アトラスはその庭に向かって降下し、風を巻き上げながら降り立った。重量感のある音と共に振動で庭木の枝が揺れる。 「ご苦労さん、アトラス。いい飛行だったよ」 「なかなかどうして、先生もやるもんだな」 「今日はエレインも居るからゆっくりしてってくれ。中庭に酒樽を用意させてる」 「エレイン姐(ねえ)が? そりゃいいや。久しぶりに飲むか」 ふたりの会話を聞きながら、ステファンは苦労して地面に降りた。 脚がまだ震えて力が入らない。でもそれは、怖さからだけではなかった。 「ありがとう、アトラスさん」 ステファンは黒い翼竜の顔を、尊敬を込めて見上げた。 その表情を見てオーリは満足そうに頷くと、腰をかがめ、ステファンの目を見て言った。 「ウォームアップ終わり!」 「え?」 「修行の準備だよ。なかなかいい声で笑えるじゃないか。赤ん坊が言葉を覚える時も、まず笑う事から始めるんだ。魔法も同じこと。口先で呪文を唱えるんじゃない、腹の底から声が出せるくらいでなくちゃ。君は、ここしばらく大声で笑った事がなかったんじゃないか?」 なんでそんなことがわかるんだろう、とステファンは目を見開いた。 「チビ、うまく操ってくれた先生に感謝しろよ。俺ひとりじゃとっくに振り落としてたぜ」 からかうようなアトラスの言葉に改めてオーリの顔をよく見ると、額に玉の汗が浮かんでいる。アトラスに自由に飛びまわらせているように見せて、実は相当な力を使って操っていたのかもしれなかった。 「あ、ありがとうございました!」 ステファンはぴょこんと頭を下げた。 オーリはおかしそうに声を立てて笑い、ステファンの背中を押して、後ろの白い家を指し示した。 「そら、あれが魔法使いの家ってやつだ」
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