葡萄畑を過ぎ、パッチワークのような田園を抜け、黄色い屋敷が見えなくなったところで、オーリは突然笑い出した。 「プッ、ハハハハハ!」 「せ、先生?」 「ああ疲れた! どう、うまくいっただろう? 君の母上には悪いが、暗示に掛かりやすい人って居るもんだね。あとは魔法の効力が消えた時、誘拐罪で訴えられないように祈るのみ!」 オーリはそう言うとまたふき出した。 「あのう……」 ステファンは面食らった。ついさっきまで、客間で母と話していたオーリとは別人のようだ。 なんだろう、この人は。 さっきまでは、紳士らしくとても落ち着いて見えた。若くとも、大人はこういう話し方をするのだと、ステファンは畏敬の念さえ持って見ていた。けれど今、隣で腹を抱えて笑っている、この姿は? 「先生? あの、もしかして、最初から……」 「そう! オスカーに頼まれてたんだ。息子を外の世界へ連れ出してやってくれってね」 「お父さんに? 先生、お父さんと会ったんですか?」 「いや、手紙で頼まれたんだよ」 オーリは一瞬表情を曇らせ、内ポケットから半分焼け焦げた紙片を取り出してステファンに渡した。 「読んでごらん」
親愛なるオーリ この手紙を読んでいると言う事は、 僕はまだ帰れないままということだろうか 自らの心の命ずるままに探求の旅を続け ミレイユには随分と叱られてきたが 悔いてはいない ただ気掛かりなのは 息子のステファンのことだ 彼には僕以上の素質がある 才能といってもいい ただミレイユには理解できないだろうと思う オーリ もし僕があと二年のうちに帰れなかったら 君に息子の将来を託したい 勝手な頼みで申し訳ないが 外の広い世界で存分に力を発揮させてやってくれないか ……
焼け焦げた手紙はそこまでしか判読できなかった。 「お父さん、どこでこの手紙を書いたんですか……」 ステファンは懐かしい父の文字を一文字ずつじっと見つめている。 「読めるんだね」 オーリは信じられないという顔でステファンを見た。 「実はこの文字は、普通の人が見たら意味不明の記号にしか見えない。君にはちゃんとした文字として読める、つまりそういう目を持っているということだ。わたしやオスカーと同じように」 「どういうこと?」 「魔法使いの目、とでも言おうか」 オーリは怖いほどじいっとステファンを見据えている。 冗談を言っている目ではなかった。 「魔法使い……まさかお父さんも?」 「職業として、という意味では違う。ただ、力があったのは確かだ。本人はあまり自覚していなかったけどね」 ステファンはくらくらとした。 何もかも、初めて聞く話ばかりだ。 「お母さんは知っているんですか?」 「残念ながらミレイユさんは知らないし、理解しようとしない。魔術だの魔法だの、はなから信じてないからね。 オスカーもわたしも、なんとか分かってもらおうと努力はしたんだよ。今日も最後の賭けとしてこの手紙を見せたが、無駄だった」 あ、あの時か、とステファンは思い出した。 客間の扉の陰からそっと見ていた時。手紙に興味なさげな母に、それを見せて、と言いたかった。 「間違えないでもらいたい。君の母上を悪く言ってるんじゃないよ。信じるものが違うだけだ。今日わたしを招いてくれたのも、最大限の譲歩だったんじゃないかな。だから、そのチャンスを無駄にするまいと思った」 「それであの、お父さんは?」 「わからないんだ」 オーリは悔しそうに額に手を当てた。 「この手紙をオスカーから受け取ったのは一昨年だ。いろいろ手を尽くして彼を探して来たんだが……残念ながら、手紙の後半も焼け焦げてて手掛かりが少なすぎる。 でも、親友とも兄とも思っているオスカーの頼みだからね、こうして来た。 今日、君の様子を見てたら、もうこれ以上は待ってはいけない、と思えてきてね、少々強引だが連れ出させてもらったよ……しかし、ここまで上手くいくとはね! ひょっとしてわたしは、画家よりペテン師に向いているのかな?」 オーリはまた人懐こい笑顔になった。 「ステファン、君は今日からこのオーリローリの元で魔法使いになるべく修行をすることになる。本当にそれでいいね?」 ステファンは今さらながら不安になった。 「あの、ぼくにそんな力が本当にあるんですか?」 「ある! それだけは保障する。あとは君次第だ。 もしも今からでも断りたい、家に帰りたいというなら、止めはしないよ。さあ、どうする?」 ステファンは父の手紙を見、窓の外を見た。 車は二つに分かれた田舎道にさしかかろうとしている。 「ぼく……やってみたいです。魔法の勉強、というか修行」 「よし、よく言った!」 オーリは嬉しそうに拳でステファンの肩をトン、と突いた。 「実際にやってみればわかる。君のように物の本質が見えてしまうのは、相当な……まあいいや、難しい話はあとあと!」 オーリは窓の外を見た。
「ふむ。雨も止んだし、ここらでいいかな。アトラス、止めてくれ」 運転手に声を掛けて車を止めると、オーリは自らドアを開けて車を降りながら、ステファンを促した。 「ちょっと降りて」 ステファンは訳が分からないまま、オーリに続いて車を降りた。 「先生、列車の時間に間に合わなくなるんじゃ……」 「列車? まさか。君はせっかく魔法使いと旅をするのに、空くらい飛んでみたくはないの?」 「空?」 オーリは杖を取り出すと、車を軽く叩いた。 「もういいよ、アトラス」 鼓膜に沁みるような音を立てて空気が震えた。と、たちまち黒い車は盛り上がり、形を変え、黒い翼竜の姿になった。 「うそ……!」 ステファンは自分の目を疑った。紛れも無い、本物の翼竜だ。全身が、金属を思わせるような黒光りする鱗に覆われ、尻尾の内側にはステファンのトランクがしっかり結わえ付けられている。 翼竜は背伸びするように翼を拡げると、ぬうっと首を突き出して金色の眼でステファンを見た。 「オーリ先生、今日はまたえらいチビのお客で」 「わぁ、しゃべった!」 「そりゃあしゃべるよ、竜だもの」 オーリは当たり前だという顔をした。 「アトラス、この子はステファン。今日からわたしの弟子になる」 「ほう、よろしくな」 「あ、え、ええと、ステファンです。よろしく……お願いします」 頭を下げながら、ステファンは竜にお辞儀をしている自分が信じられなかった。 「じゃ、行こうか。ステファン、前にお乗り」 オーリはまるで馬にでも跨るように、ひらりと竜に乗った。 「乗るって……これで、飛ぶんですか?」 「『これ』?『これ』で悪かったな、ちびすけ!」 翼竜が首を曲げて睨みつける。 「ごめんなさい! お、お願いします!」 「そうだよ、ステファン。竜は誇り高い。お行儀よくね」 あたふたとステファンが乗り込んだのを確認すると、オーリはトントン、とアトラスの首を叩いた。 翼竜の翼が大きく羽ばたき、風が巻き起こる。 「うわわわわ……」 生まれて初めての浮遊感。ステファンは目眩しそうになった。 「ステファン、つかまって!」 竜の首には、手綱ならぬごついロープが掛かっている。慌ててロープにしがみつくのと同時に、翼竜は空高く飛翔した。 パッチワークの田園が、みるみる遠くなる。 ステファンは恐る恐る下を見た。葡萄畑のはずれに黄色い屋敷が見える。 自分の生まれ育った家を上空から見るのは、奇妙な感じだ。 小さい。古ぼけた模型でも置いてあるかのように小さい。 あんな小さな世界が、全てだと思ってきたのだ、今まで。 遠ざかる景色を見ながら、ステファンは少しだけ母が可哀想になった。
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