本の世界にどっぷりつかっている頭の上で、突然けたたましい笑い声が響いた。ちょうどモンスターの話を読んでいた最中だったので、ステファンは心臓が止まりそうになった。 「な、な、何? だれっ?」 笑い声の主は、道化の仮面だった。書架の最上段からニタァと笑いかけると、そのまま向こう側へ姿を消した。 (あいつは……!) 見覚えのある仮面だ。たしか、オーリの保管庫No.2から覗いていたやつだ。ケタケタと笑う声が、書庫の中で遠くなったり近くなったりしている。どうやら独りで勝手に飛び回っているらしい。 (ファントムとかいったっけ。なんであいつが外に?) いやな予感がして、ステファンは急いで本をしまうと後を追いかけた。仮面は天井からの光を反射しながらひらひらと宙を舞い、時折書架の端っこに止まってステファンの様子をうかがっている。けれどステファンが手を伸ばすと、あと少しのところで逃げてしまう。 何度も追いかけては逃げられ、さんざん走り回って、ステファンはだんだん腹が立ってきた。 (あいつめ、ぼくをからかってる! よーし見てろ) ステファンは目を閉じると、出来るだけ長く息を吐き出して気持ちを落ち着かせた。そのまま息を止めて意識を集中し、こらえられなくなったところで目を開くと、一気にまわりの光景が変わった。本も書架も全てが透明になり、二列向こうでゆらゆらしている仮面だけが、くっきりと見える。ステファンは大きく息を吸い、腹に力を込めて叫んだ。 「ファントム、つかまえた!」 途端に仮面は天井に叩きつけられ、そのまま床に落ちた。 ステファンは息を切らしながら仮面に近づき、拾い上げた。カタカタと玩具のように揺れてはいるが、仮面のファントムはもう逃げる気はないようだ。 「ごめん、力加減がわかんなかった。いじめっ子にノート盗られた時なんかに使った手なんだ」 「ケケケ、コリャ、オーリヨリ酷イ。オマエ、気ニイッタ」 ファントムは楽しそうにつぶやいた。 「ど、どうも。ねえ、なんで外にでてるの? 君は待機中、って先生に言われてなかった?」 「ノン、ノン、ファントム、答エナイ。ファントム、知識ハ与エナイ」 外国語なまりの妙なしゃべり方だ。ステファンは言い方を変えた。 「外に出ちゃいけないんだよ。保管庫に帰ろう」 「ウィ」 案外素直なんだな、と思いながらステファンは奥へ向かった。さっき周りが透明になった時に壁が見えたから方向はわかっている。ほどなく『保管庫』の場所に辿り着いてから、ステファンは重大なことに気付いた。 「ファントム! 君が外に出てるってことは、No.2の鍵が開いてたってこと?」 保管庫は危険な順に2から4まで……オーリの言葉を思い出して、ステファンはぞっとした。No.2は一番危険なんじゃないか! 恐る恐る、No.2の本を取り出してみた。が、表紙はしっかりと閉じている。鍵が開けられていないのを知って安堵する間もなく、ステファンは再びぞぉっとしなければならなかった。 (どのみち、ファントムを戻すには鍵を開けなけりゃいけないんじゃないか!) 再びけたたましい笑い声が響いた。 「ファントム、鍵イラナイ。ファントム、自由」 そういうが早いか、ステファンの手をすり抜けて書架に向かう。 「あ、こら!」 捕まえようとしたステファンの目の前に、No.5の本がどさりと棚から落ちてきた。ファントムはその表紙に降り立つと、ニタニタ笑いを浮かべたまま吸い込まれるように消えていった。 (うそだろ?) ステファンは信じられない思いで「No.5」の金文字を見ていたが、しばらくすると猛然と腹が立ってきた。 「出てけよファントム! そこはお父さんの保管庫だ、君の部屋じゃない!」 迷わずNo.5の鍵を開け、表紙を開いたステファンは息を呑んだ。 眩い空。陽の光を反射する湖と、風に揺れる広葉樹の森―― 明らかに、父のコレクション部屋とは違う。目を閉じて頭を振り、もう一度中を覗き込んだステファンは、急にめまいを起こした。 (しまった、さっきあんな力を使ったせいだ――) 忘れていた。学校に通っていた頃、いじめっ子に盗られた物を取り返せたとしても、その後ステファンは必ず気分が悪くなってしばらく歩けなかったのだ。 頭の中を冷たい手で絞られるような感覚が走り、目の前が緑色になる。慌てて何かに掴まろうとしたが、伸ばした手は空を掻いて、ステファンはそのまま本の中へ落ちていった。
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