真夏だというのに、書庫の中は案外快適だ。これも魔法の一つなのかな、と思いながら、ステファンはじっと待った。一冊の分厚い本が床に置かれている。オーリもまた緊張した面持ちで本を見つめ、息をつめて待っている。 「……来た!」 オーリがつぶやくと同時に、ドタドタッ、と音がして本が揺れた。 「ステフ、もう開けていいだろう」 促されて、ステファンは急いで『5』の鍵を使い、本の扉を開いた。 「よーう先生、また会ったな」 「足をどけてくれよ、アトラス!」 本の中で大小の箱に囲まれてこんがらがっているのは、翼竜のアトラスと褐色の肌をした魔法使いだった。 「この中が狭すぎるんだよう。俺ぁ先に出るぜ」 アトラスは大きな顔を歪めてしゃにむに出ようとした。重厚な作りの本がミシッと鳴るのを聞いて、オーリは慌てて杖を向けた。 「ま、待てアトラス、そのままじゃ本が壊れる。縮め!」 パチーンと大きな火花が散ったかと思うと、アトラスはハトくらいのサイズに縮み、パタパタと羽ばたいて床に降り立つと、偉そうにステファンを見上げた。 「おう、ちびすけ。ちっとは背が伸びたようだな」
褐色の魔法使いのほうは、アトラスの頭より細身だ。両手を本のふちに掛けると、器用に肩をすぼめながらするりと抜け出してきた。 「やれやれ、身の丈を知れってんだ、このドタ足竜め」 悪態をつきながらローブの埃を払っている魔法使いを尻目に、アトラスは舞い上がるとオーリの肩にとまった。 「ありがとう、ユーリアン。休暇だってのに悪いな」 「なあに、オスカーのためだ。それにしてもこの翼竜め、トラックに変身させてたのに、突然しゃべりだしたりするから困ったよ」 「あんたの使い魔がヘボだからだ。人間に化けてるくせにシッポを出しやがる奴がいたんで、ちょいと叱ってやったまでよ」 小さくなったアトラスの声は、毒舌に似合わず甲高くて妙に可愛い。ステファンは思わず吹き出した。 「あ、この子だね?」 ユーリアンと呼ばれた魔法使いは、ステファンを見て黒い瞳を輝かせた。 「そう。オスカーの息子だ」 「ステファン・ペリエリです、はじめまして」 アトラスのおかげで緊張がほぐれたのか、ステファンは珍しくつっかえずに挨拶をした。褐色の力強い手と握手をかわすと、一瞬赤い火の山のイメージが頭をよぎる。 「会えて嬉しいよ、ステファン。なるほど、オスカーの面影があるな……」 黒々とした大きな目を向けられて、ステファンは圧倒された。オーリの目も時として怖いほどの力を感じるが、この黒い目は、オーリとはまた違った強い光を宿している。魔法使いというものは皆、彼らのように強い目をしているのだろうか。 「彼はユーリアン、オスカーとの共通の友人だ。ステフ、このおじさんの背景には何が見える?」 「おい、おじさんって! そりゃ僕は二人の子持ちだけどさ。オーリより若く見える自信はあるぞ」 冗談を言い合う二人を前に、ステファンはつぶやいた。 「岩と……炎。それとも火山?」 ユーリアンが真顔になった。 「驚いたな! 確かに祖先は火山島出身だが、そこまで言い当てたやつは初めてだぞ。この子の目はオスカー譲りか?」 「たぶんね。いや、彼以上かも知れない」 誇らしそうに弟子を見つめるオーリの肩先で、アトラスが大あくびをした。 「おーい先生方よ。いつまでおしゃべりするんだ? いいかげん、外へでようぜ」 やたら可愛らしい声に急かされて、オーリは笑いながらステファンの肩を叩いた。 「そうだな、ここじゃお茶も出せない。荷解きは後だ。ステフ、客間にご案内しなさい」
「冷たい物のほうがよろしかったでしょうかねえ」 マーシャはお茶を勧めながら、遠来の客を気遣った。 「とんでもない、マーシャさんのお茶は最高ですよ。最近派手に宣伝してる外国産の黒い炭酸飲料ね、あれなんていけません。折角のお菓子がまずくなる」 ユーリアンは薫り高いマーシャのお茶と焼き菓子を楽しみながら、客間の天井を見上げた。 「いいねえ、僕もいつかはこんな古い屋敷に住みたいもんだ。特にあのレリーフ。素晴らしいね」 白い天井はいくつもの正方形に区切られ、その一つ一つに美しい紋様が浮き彫りになっている。 「だろ? あれが気に入ってるから、改装のときも気を使ったんだ」 「お前はこだわりが多いんだよ。アトリエの天窓だって、ステンドグラス用の無色ガラスがいい、なんて言い張るから探すのに苦労したんだぜ」 ステファンは不思議な話を聞く思いだった。天井の模様もアトリエの天窓も、言われるまで気が付かなかった。あんな高い場所にある物なんて普段は視界にすら入らないのだから。 「ユーリアンは建築士なんだ。北側の増築部分は彼の設計だよ」 「じゃあ、あの書庫も?」 「外側だけは、ね。妙ちきりんな魔物と契約して勝手に内部を広げたのはオーリだ。まったく、建築基準法もなにもあったもんじゃない」 「何をいう。きちんと法に則ってるだろう、魔“法”ってやつに」 大人達は爆笑した。 が、ステファンは何が可笑しいのかさっぱりわからなかった。 「よう、エレイン姐は? 今日は留守かい?」 まだ小さい姿のまま、アトラスが行ったり来たりしている。どうやらオーリ達の話に入っていけないのは、彼も同じのようだ。ステファンは玩具のような翼竜をそっと自分の肩に乗せて、庭に出た。
「ねえアトラス、知ってる? 新月にはエレインの魔力が無くなるんだって」 「なんだよ、小さくなった途端に呼び捨てかい? まあいいけどよ。――そうさな、竜人にもいろいろあるからな。エレイン姐の力は、月の満ち欠けに影響されてるってこった」 「魔力が無くなると、どうなるの? まさか、死んじゃったりしないよね?」 ステファンは、最近エレインの様子がおかしいことが心配だった。 「死んだりはしねぇやな。普通の人間と同じになるだけだ。でもそりゃあ闘いで不利になるってことでもあるからな」 「闘いって、悪い妖精をやっつけたりすること?」 アトラスは肩の上から舞い上がると、ステファンを睨んだ。 「いいか、ちびすけ。妖精にいいも悪いもねえ。人間が勝手に区別してるだけだ。むしろ本当に怖いのは……おっエレイン姐、帰ったか!」 嬉しそうなアトラスの声に振り向くと、庭木の陰からエレインが入ってくるところだった。 「よう、どうだいこの格好。男っぷりが上がったと思わねえか?」 アトラスはエレインの目の前で小さい翼を広げてみせた。が、エレインはちらと見ただけで、投げやりに答えた。 「ハイ、アトラス。人間に使われて、そんなに楽しい?」 ステファンは氷に触れたような思いがした。いつものエレインじゃない。 「エレイン!」 いつの間にかオーリが庭に来て、厳しい目を向けていた。 「君は友達にまでそんな態度を……」 「うるさい!」 オーリを押しのけて、エレインは二階に駆け上がってしまった。
「そっとしといてやんなよ、先生。新月、特にこの八月は、竜人フィスス族にとっちゃ思い出したくない魔の月だろうよ。俺だって、消えた仲間のことを思い出す日には、どうにも気が立ってやたら火を吹きたくなるもんだぜ」 「ああ、わかってる。だからこそ君たちを呼んで、少しでも楽しく過ごせたら、と思ったんだがな。ごめんよアトラス」 オーリはアトラスの頭をなで、杖を向けて元の大きさに戻してやった。 「もう二年になるのになぁ」 客間からユーリアンも出てきて、ため息をついた。 「まだ二年、だよ。エレインは普段、快活な守護者として振舞っているけど、竜人を迫害した人間を決して許しちゃいない。だから新月が来る度に、フィスス族最後の日を思い出して、ああして荒れるんだろう」 「馬鹿か。お前の事を言ってるんだよ。エレインさんがここに来て二年になるのに、何もわかっていないな」 褐色の手がオーリの顔を指差した。 「その水色の目は、ふし穴か? オーリローリ、お前は余計な物は見えるくせに、一番近くが見えないんだな。竜人は人間みたいにヤワじゃない。荒れている原因は過去にじゃなく現在にあるんじゃないか? だいたい『守護者』なんて中途半端な立場のままで放っておくのが悪い。さっさと告……」 「おおそうだ! 荷物の開封をしないと!」 オーリは二階を気にしながらわざとらしい大声を出した。 「そうやってはぐらかすんだよな。まったくこの男は、魔法じゃ優秀なくせに……」 呆れたように顔をしかめて、ユーリアンはステファンに向き直った。 「扱いにくい師匠だろ? 嫌になったらうちに来な、いつでも歓迎するから」 ステファンはどう答えてよいかわからず、曖昧に笑ってすませた。
「おい、風が湿ってきたぜ。雨に降られたくなけりゃ、もうそろそろ発たねえと」 アトラスが空を見上げて大きな鼻をひくつかせている。 「ユーリアン、開封に立ち合わないのか?」 「そうしたいけどね、夕食までに帰るってトーニャと娘に約束してるんだ。魔女の機嫌を損ねると大変なんだよ」 「そりゃ怖いね、たしかに」 笑ってオーリが差し出すローブを受け取りながら、ユーリアンは小声で耳打ちした。 「気をつけろよ。近々『竜人管理法』が改正されて規制が厳しくなる。守護者って肩書きだけじゃエレインの立場は苦しくなるぞ」 オーリは目を見開いて相手を見返した。 「確かか?」 「ああ。だから、よく考えろ。彼女を守るために、どうするのが最善か」 「わかった、忠告ありがとう」 お互いに肩を軽く叩いて、オーリは後ろに下がった。 アトラスの羽ばたきが中庭の木々を揺らし、その背中でユーリアンが手を振る。 「美味しいお茶をどうも、マーシャさん。ステファン、次に会うときは――」 最後まで聞き取れないうちに、アトラスは飛び立ってしまった。 「エレイン様ったら、お見送りに間に合いませんでしたわねえ」 マーシャが残念そうに頭を振った。が、オーリは二階からエレインがそっと手を振っているのに気付いていた。 「どうするのが最善かって? それがわかるような魔法があれば……!」 二階の窓に揺れる赤い巻き毛を見つめながら、オーリは苦い表情でつぶやいた。
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