「俺これ!」 母さんが取り分けるのが待ちきれなかったのか、それともただお腹がすいていただけなのか。兄さんは勝手に箸を動かす。 「待ちなさい孝明!先にお父さんに…ああっ!」 叱りながらも慌ててこぼす母さんをからかうように、兄さんは戦利品を口に運んだ。 「やーい、こぼしてやんの!」 「孝明!」 「ああ良いから。……その、尚は?」 そして二人の言い合いを止めてぎこちなく僕に話を振ろうとする父さんは、少し困ったように苦笑していて、いつもの無表情はそこにない。 「……うん。」 それに少し安堵して、僕は頷いた。 「ほら、尚も食べろよ。ちょっと角とれてるけどさ。」 「有難う、お兄ちゃん。」 少し小さい僕の取り皿に入れられて、ほこほこ湯気が立っているお豆腐。ためらったのは一瞬。すぐに口に放り込んだ。 「まあ、尚までお父さんより先に食べるなんて…あなた!」 「良いから。どうだ、おいしいか?孝明。…尚も。」 父さんの言葉につい顔を見合わせる兄さんと僕。 「うわ微妙…なんか味ぼやっとしてるし。な?」 言葉とは逆に語尾が弾んでいるように聞こえるのは、僕の勘違いだけじゃない。兄さんも、なんだかんだ言って母さんの作る湯豆腐が好きなんだろう。父さん譲りの無表情が少しだけほころんでいる。 「でも昆布のだし効いてる…おいしいよ?」 「尚は良い子ね。孝明、そんなこと言うならもう食べさせませんよ!」 「それは勘弁。…うーん。まあ、おいしいかな?」 「かなですって?まあ孝明!あなたその頬杖やめなさい!」 「まあまあ。せっかく久しぶりに家族が揃ったんだから。マナーも今日くらいは…。」 あったかい、空気。なんだか、心がほっこりする。普段皆が揃うことなんて滅多に無いから、久しぶりで、すごく嬉しい。母さんも普段料理なんてしないのに、皆が揃ったときだけはりきって作る。定番の、湯豆腐。冬も夏も関係ない。唯一の得意料理らしいけど、抜群においしいわけじゃない。それでも、僕にとっては何よりもほっとする味。それに、皆が囲んで食べる食卓っていうのが、家族って感じで。普段は滅多に揃わないし、複数で食べてもマナーに気を使ってこんなふうに話さないから、このときだけ。だから湯豆腐はキーワード。家族が皆で集まって、笑い合えるひととき。 「うーん、まあうまいんじゃない?」 「孝明!その言葉遣いを…!」 「…尚、食べてるか?」 「…うん。」 ずっと、続けば良いのに。そう思って、僕はもうひとかけら、湯豆腐を口に放り込んだ。
俺には一人、弟がいる。尚という名前だ。見るからにぽややんとしていて、本当にお前は日本男児かと言いたくなるほどおっとりとしている。母方の祖母がそんな性格だったと聞いたから、多分その血の流れを受けているんだろうが。 俺の家は代々医者の家系で、当然のように俺も尚も医者になるべく勉強させられてきた。そう頭が良いわけではない俺よりも、更に頭が悪い尚に何故か期待がかかっているのは変な話のように思う。小さい頃、平均レベルでそれほど秀でた部分の無かった俺に、親戚連中が集まって跡継ぎがどうのこうのと言っていた記憶がある。タイミングよくその話の翌年に生まれた尚に期待がかかっていったのは仕方がないかもしれないが、代わりとされた尚はたまったもんじゃなかっただろう。かくいう俺も受けたらしい赤ん坊の頃からの英才教育に教養、マナー。といっても、尚が出来てこれ幸いとばかりに早々に抜け出した俺が言えることではないのだが。 お互いが成長するにつれて医者になるべき道…重荷を尚に任せていった俺だが、案外尚との仲は良い…筈だった。というのも、先週、尚の十六歳の誕生日があったあたりから、尚は俺を含め家族全員を避けるようになったのだ。親父もお袋も気づいているだろうに何も言わないから、ここ一週間、家の中がぎこちなくて嫌な空気だ。 そんなことを考えながら、俺は目の前にあるやたら重厚感のあるドアを睨んだ。何を隠そう、今から尚とガチンコで話をするのだ。こんな状態がずっと続くなんて嫌だし、その前になんで俺まで避けられるのか知りたい。何か理由があるなら聞きたいし、悩みがあるならアドバイスしてやりたい。だてに、五年早く生まれているわけではないのだ。 「尚、入るぞ。」 一言断って、返事を聞く前にドアを開ける。 「え、兄さん?」 何をしていたんだか、机の引きだしを閉めて、慌てたように振り替える尚の仕草はどことなく子供っぽい。尚はおっとりとした性格が表れているのか、厳しい躾の結果か、同年代の男のような粗野な雰囲気がない。言葉遣いもそうだ。俺としてはせめて兄貴といって欲しい気がしないでもない。高校生にもなって兄さんなんて、普通言わない。 「…兄さん?」 返事をしない俺に、不安そうに首を傾げる尚。もしかしたら、俺の顔が無表情なのを怖がっているのかもしれない。昔から、それこそ尚が生まれてからずっとこうなのに、未だに慣れないのだろうか。それはそれで少し寂しい気がしないでもない。 「尚。お前、この一週間どうしたんだ。」 「…っ、何が。」 ああ、とうとう言われた、みたいな顔をしている。こいつのまだまだ子供だと思える面はこういうところだ。感情がすぐ表に出るから、言葉でいくら偽っても意味がない。 「何がって、分かってるんだろう。どうしたんだ、お前らしくないぞ。」 まず手始めに軽く聞いてみる。いつもなら素直な尚はこれだけで話し出してくれるのだが、今日は手強そうだ。 「僕らしいって、何。」 「尚?…本当にどうしたんだ。口には出さないが、親父もお袋も心配してる。」 …というのは嘘だ。お袋は知らないが、もともと親父は何故か一方的に尚を避けていた節もあったから、下手したら気づいてすらいないかもしれない。 「嘘だっ!そんなことない!」 いきなり、尚が部屋に響くくらいの大声をあげた。少し、びっくりした。尚は普段大声を出さないし、人の言葉を頭ごなしに否定しない。…やっぱり、何かあったのだろうか。 「…親父たちと喧嘩でもしたのか?」 「兄さんには、関係ないよ。」 ああもう、意固地になってやがる。こいつは変なところで頑固だからな。 「だったら、何で俺まで避けるんだ。」 「それは…。」 ためらうようにちらりと俺の目を見て黙り込む。なんだなんだ、俺はあんまり気が長い方じゃないぞ。だが、自分が原因じゃなかったことには少し安堵する。誰だって知らないうちに原因にされてたりしたら嫌だしな。 「尚。」 びくりと、尚の肩が震えた。少し声を低めたからかもしれないが、言うか言わないかで迷っているのだろう。ここはもう一押ししてやるか、と口を開きかけたとき。尚は、震える声でささやいた。 「…僕、…僕は、設計図、にそって、作られたんだ。」
僕には一人、兄がいる。孝明という名前で、とにかく無表情。本人は元からだとあっけらかんとしているけれど、口調と表情が合わないのは見ていて怖い。僕の家は医者の家系で、兄も僕も小さな頃から、教養やマナーを含めて勉強させられてきた。兄はそこそこ頭が良いけれど、僕は全然駄目だ。呑み込みが遅いらしい。それなのに、僕より頭の良い兄を差し置いて僕を跡継ぎとしようとしているのはどうしてなのか。僕が生まれたときから僕の役割は決まっていたみたいだけれど、それにも疑問が残る。兄は、自分が頭が良くなかったからだと笑っていた。ではそれならどうして兄より更に駄目だとわかっている今もそれが変わらないのだろう。 十六歳の誕生日の夜、僕は父さんと母さんに部屋に呼ばれた。きっと、また成績のことを言われるのだと思っていた。いつものことだけれど、僕は成績が良くない。十時に来るようにと言われていたけれど、勉強が早く終わったので九時半くらいに二人の部屋に着いた。ノックをしようとしたとき、母さんの声が聞こえた。 『あの子、全然成績があがらないわね…どうしてかしら。せっかく…』 ぼそぼそと小声で話される内容。僕の手は、いや、全身がその言葉の羅列を受け入れるのを拒否したように完全に停止する。どのくらいそこにいたのか。約束の時間になっても来ない僕をいぶかしんだのか、母さんがドアを開けに来た。その場にいた僕に驚いて、詰る母さんといつものように無表情の父さん。しかし何を言っても反応しない僕に何かを感づいたのか。ゆっくりと変わっていく二人の僕を見る目が、今も瞼の裏に焼きついている。
「…どういう意味だよ、尚。」 戸惑った兄の声に、自分がいらぬ言葉を滑らせたことを自覚した。 「答えろ、尚。どういう意味だ?」 すっと眼を眇める兄の視線が、痛い。 なんだかんだいって、心配性の兄がドアから顔を出したとき。僕は、少なからず安堵した。もう、隠し通すことは出来ない。いや、そうではない。聞いて欲しかったのだ。家族の中で、唯一このことを知らない兄に。 「…僕の、命、には。設計図が、あるんだ。」 声が、震える。兄の眼は、僕を射たままで。 …数ある選択肢からから選ばれた、命。 あの後に両親に聞かされた話は、一週間たった今でも消化しきれない。 「…卵子が卵管采に取り込まれ、卵管内で精子と受精。受精した卵子が受精卵となり、子宮に着床。」 兄の静かな声が部屋に響く。 新しい命が出来るまでの、設計図。 けれど、違う。 その設計図ではない。そういう意味ではない。 僕の、僕の設計図は。 「それが俺の命の設計図だ。お前と何の違いがある?」 「違うっ…!」 「何が違う。」 ああ、頭が痛い。目の奥が熱い。 「だって、そうじゃない。そうじゃないんだ!僕は、…僕は、精子バンクから親戚の総意で選ばれた『父』と母の間に生まれた…!初めから違う、初めが違うんだ。」 十月十日。子は、母親の胎内で大事に大事に慈しまれ、守られて育つ。その一日一日を、愛と願いに包まれながら、いつか見る世界を夢に描く。それが、命の根源。 けれど、自分は。 親の愛ではなく、一族の望みを受けて。こうあってほしいと願うのではなく、こうあるべきだと望まれて。間違うことなく、そうであるようにとレールを引かれた。はぐくまれるでもなく、慈しまれるでもなく。
あの日、母は言った。孝明の出来が良くなかったから、一族の総意で『父親』を変えたのだと。『父』は言った。高い金を出したのに、お前がそんなことでどうすると。ずっと、『父』にいつもどこか避けられていると感じていた。きっと勉強が出来ないせいだと、僕が悪いのだと思っていた。だから、認めてもらいたいとずっと努力してきた。勉強も、マナーも、医者としての心構えも。 なのに。 全部。全部無駄だった。最初から、無駄だったのだ。
「それにね、兄さん。あの二人、ううん。この一族、凄いんだよ。僕が『失敗』したから、本当はもう一人『作ろう』と思ってたんだって。でもね、母さんの体がもう無理だったから、諦めたんだって。」 勝手に、目から涙が溢れていく。それが、『作られる』ことのなかった『弟』に対してか、何も知らずに父に認めてもらおうと無駄な努力をしていた自分に対してなのかは分からなかったけれど。 もし、人の定義が無条件に親に愛されているということなら。兄が見ている僕は、人の形をしているけれど、それはもう、人とは違うモノではないだろうか。 「尚…」 流石の兄も言う言葉が見つからないのか、僕の名前を呼んだきり、口を開かない。自然と、自嘲的な笑みがこぼれる。 「兄さん。僕、怒ってるんだ。」 いきなり明るい声を出した僕をいぶかしんだのか、兄は眉をひそめた。さっきやろうと思ってたときに、兄さんが入ってきただけなんだけど。そう言って微笑んだ僕に、兄は何かを言おうと口を開きかけた。そして僕が机の引き出しにしまったものを取り出すと、目を見開いた。予想通りのリアクションにほくそ笑むと、兄の視線が射るように変わる。 「…何の真似だ。」 水底を這うような声音に、無意識に視線をそらす。底冷えする兄の瞳が怖いのは、兄の怒りが怖いのではなく。 本当の兄弟ではないとわかった兄に、突き放されることが。 不完全な人間である僕というモノから、遠ざかられることが。 もう、今までの兄弟でいられなくなってしまうことが。 本当は、覚悟の一つすら、まるで出来ていないから。 「い、言ったでしょ?僕は怒ってるんだ。こんなことを提案した一族も、それを了承した父さんも母さんも。…だから、復讐するんだ。」 「…その剃刀で、俺を殺してか?」 どこか押し殺したような兄の声に、僕は慌てて首を振る。 「違うよっ!どうして兄さんを死なせなきゃならないんだっ!」 「だが、お前は怒りを感じているんだろう。それは、何も知らずにお前にばかりおしつけていた俺に対してもじゃないのか?」 「…………っ!」 ぐさり、ときた。自分でも無意識だった心の奥底を、覗かれた気がした。…それでも。 「そう、かもしれない。でも、そうじゃない。兄さんを、傷つけるつもりなんて、ない。」 「…だったら、それはなんだ。」 「父さんも母さんも、これ以上作らないって言ってた。だから、『元』が良い筈のお前が頑張れって言ってた。だから、僕は。」 「おい、尚?」 「僕は、ここで、全て…」 手に持った剃刀は、とても軽い。こんなに軽いもので、命を終わらせることが出来るなんて。…でも、僕にはお似合いかもしれない。 「全て、終わらせてやるんだ…っ」 だてに、医者の息子じゃない。どこをどうすれば致命傷になるかなんて、わかってる。 「尚っ!」 近くにいたはずの兄さんの焦った声が、遠くから聞こえた気がした。
唐突に。尚の目に、白い天井が映りこんだ。見慣れない、天井。驚いて起き上がろうとするが、思うように体が動かない。状況がわからない尚の体が僅かに揺れ、その様子に気がついたのか、傍にいた孝明が覗き込んだ。 「尚!…目が覚めたか。」 そのどこかほっとしたような表情に、尚はどうしたのだろうと戸惑う。 「兄さん?どうして僕………あ。」 言葉を詰まらせる尚を見て、孝明は腕を組んでベッドの住人を見下ろした。 「思い出したのか。」 しかし顔を青ざめさせて何も話そうとしない尚に、一つため息をついて組んでいた腕を下ろす。 「…お前が寝てた間、親父とお袋が大変だったんだぜ。」 「母さんと…父さんが…?」 少し口調を緩めてやると、尚はゆるゆると頭を上げた。 「ああ。親父は気を失いかけるわ、お袋は泣きながらお前にすがりつくわでもう大変!いやあ、親父って意外と気弱かったんだな。」 「…うそ。」 「ホントホント。早く救急車呼べよってくらい。まあ俺が呼んどいたけど。嘘だと思うなら待ってろよ。あの人達、クソ忙しいくせに毎日お前の顔見に来てんだぜ。」 「そんな…。」 『尚っ!!!』 タイミングよく扉が開かれ、話の渦中の二人がはいってくる。二人ともどこか衰弱した様子で、そんな二人を見るのは初めてだった尚は呆然と見つめた。 「母さん、父さん…」 「もう、この子ったら、やっと目を覚ましたのね!」 「尚、よかった…。」 二人のその言葉に、尚は戸惑ったように視線を揺らす。 「…あの、僕」 しかし尚が口を開きかけた途端、母親である百合子が口火を切った。 「どうしてこんなことをしたの尚!あなたは孝明と違ってこういうことでは面倒なんてかけない子だったのに…。」 百合子の言葉に、尚が止まる。 「面、倒…?」 「そうよ。本当に驚いたんですからね!でも目が覚めて良かったわ。こんなことでお勉強を遅らせるわけにはいかないもの。」 「…母さん」 「もうこんなことがないようにしなくては。…顔色は悪いけど、大丈夫そうね。さあ、目を覚ましたことを先生にお伝えして、退院の目処を…」 「かあさ、」 尚は呆然と、百合子を見上げることしか出来なかった。 「お袋!止めろよ!」 止まらない百合子の言葉に、何も反応できない尚の様子に、孝明が急いで口を挟む。 「なんです孝明。大きな声を出してみっともない。」 「何言って…、なんで尚がこんなことするまで苦しんだと思ってるんだよ!」 「ああ、そうだわ。尚、どうしてなの?あなたがこんなことをするなんてよっぽどでしょう?何があったの?」 「違うだろお袋!本当にわかんないのかよ!」 「孝明。何度言ったら分かるの。大きい声を出さないで。それに、どういう意味なの?」 「…本当にわかんないのかよ!?尚が一週間前くらいから様子おかしかったの、気づいてただろ!?」 「当たり前でしょう。…一週間前?あら、まさか、あのことで?いえ、でも尚は強い子よ。あれぐらいのこと、すぐ整理できるわ。ねえ、尚。あのことが原因じゃないでしょう?」 「…母さん」 分かってくれていなかった。この人は、全然、分かってくれていなかったのか。枯れ果てたと思っていた涙が、また溢れてくる。 「いやだ、尚…まさか、本当に」 「なんで大丈夫なんて思ったんだよ!尚はまだ十六歳なんだぞ!」 「だって、…だって、尚はあなたより凄くしっかりしてるわ。まさかあんなことで、」 「その思い込みが!…尚をここまで追い詰めたって、なんでわからないんだよ!」 「そんな…」 「孝明、落ち着きなさい。」 止まらない二人に、今までずっと事の成り行きを静観していた…というよりも、声を出すのをためらっていたようだった父親の成久が口を開いた。そんな成久に、流石に勢いを削がれたのか、孝明も押し黙る。 「…尚。まずはお前に謝りたい。お前がここまで思いつめていたなんて、知らなかった…悪かった。」 そう言って頭を下げた成久を、尚は呆然と見つめた。 「…父さん?」 「私たちは…勘違いをしていたんだ。そう、お前はまだ子どもだった。なのに私も、百合子も、尚は大丈夫だと決め付けていた。」 静かに涙を流す尚を痛ましそうに見やりながら、成久は言葉を続ける。 「本当にすまない。だが、尚が自分で自死しようとしたときになってやっと気づいたんだ。百合子もきっと気づいていただろう。けれど無意識に認めたくなかった。自分の言った言葉で…、自分の選んだ選択肢のせいで、自分の子どもがここまで追い詰められただなどと。」 「…父さん。」 「親戚の総意でといっても、やめようと思えば止められたんだ。父親を変えるなんて、シングルマザーでもないのに、普通じゃないだろう?なのに、どうしてわざわざこの道を選んだ思う。」 びくり、と尚の体が震える。その問いは、尚の根源に触れる話。震える体を叱咤して、それでも尚は声を絞り出した。 「優秀な、跡継ぎが欲しかったから…?」 消え入りそうなその答えに、しかし成久は首を振った。 「違う、尚。そうじゃない。幸せになって欲しかったんだ。…孝明が生まれたとき、私たちはとても喜んだ。だが、あまり成績が良くなかったからだろう。孝明は、嫌いな勉強をずっとさせられて、親戚たちのきつい風当たりと、跡取りという重圧に耐えていた。」 重々しい声が、病室に響いてく。 「私たちは思った。もし生まれてくる子がとても優秀な子なら、勉強を続けることも苦にならないだろうし、親戚の風当たりも強くないだろう。跡取りという役目だって、精力的に取り組んでくれるかもしれないと。」 「…父さん」 「私も元々そんなに頭が良くないからな、努力して及第点といったところだ。そのとき、ふとある考えが頭をよぎったんだ。『元がよければ賢い子が生まれるじゃないか』と。」 尚と孝明が一斉に成久を見た。 「その後はご覧の通りだ。親戚にはそれっぽい言い訳でこの話を持ち込んだら意外にも絶賛されてね。裏の事情はともかく、とんとん拍子にことが運んで…尚、お前がいるんだよ。」 誕生日の夜には話されなかった真実を聞いて、尚は、ただ呆然と父親を見ていることしか出来なかった。 「それとな、尚。その、私がお前を避けていたと感じていたと思うんだが…。」 また、尚の体が揺れる。 「後ろめたかったんだ。」 そんな尚に目を細めて、成久はぽつりと呟いた。 「お前の幸せを願ってこうした筈なのに、お前は…その、あまり頭が良くなかった。だが親戚連中は元がいいからとお前に寄せる期待を減らそうともしない。…つらい思いをさせたと思う。…私たちのせいで、お前の人生が狂ってしまったのかもしれないと思うと、どうしてもお前に普通に接してやれなかった。」 震えていながらも無言で自分を見つめてくる尚に、成久はもう一度、頭を下げた。 「許してくれとは言わない。だが、お前は私たちの家族だ。…私の、子どもなんだ。それだけは…」 「…僕ね。」 ぽつりと、尚が呟いた。 「尚?」 「…僕もね、怖かったんだ。一人だけ、違ったから。あの夜、お前は家族じゃないって言われたみたいで。なんていうのかな…疎外感?僕だけ違ってたんだって。」 そう言って弱々しく微笑む尚に、成久も、百合子も顔を青ざめさせた。 「…家族皆が揃ったとき、母さん湯豆腐作るよね。僕、湯豆腐が好きだった。湯豆腐の時間が、好きだった。いつも冷えてる家の中が、あの時だけ、暖かくて。なんだか…家族の証、みたいなものに思えてた。でも、僕は家族じゃなかったんだって思ったら、何か、自分の中の何かが、崩れてしまいそうになって。」 弱弱しく微笑む尚に、成久と百合子は間髪要れずに叫んだ。 「違う」 「違うわ!」 それに嬉しそうに微笑んで、尚はゆっくりと息をついた。 「でも、…全部、僕の勘違いだったんだね。…父さん、母さん、兄さんも…ごめんなさい。それと、有難う…。」 勘違いだった、全て、自分の勘違いと早とちりだったのだ。そう思って、尚は謝罪と感謝の気持ちを言葉に表した。そんな尚に、誰も、何も言わない。数十秒にも、数十分にも思える時間の中に、硬質な声が響いた。 「…いつ退院か、今から先生に聞いてきます。」 「お袋!まだそんな…!」 慌てて振り向いた孝明に、百合子はつん、と顎を反らした。 「何を勘違いしているのか知らないけれど孝明。私は退院する日に夕飯を作らなければいけないから、予定を調整するために聞いてくるだけです。」 「…お袋」 「…母さん」 「…ゆっくり養生しなさい、尚。」 二人の視線を受けて、顔を少しだけ赤くした百合子は、成久をともなって足早に病室から出て行った。そんな様子を目にして、孝明は苦笑して尚を見やった。 「…もっと怒ってよかったんだぞ。」 「…え?」 思いがけないことを言われたかのように見上げる尚に、孝明はどこか怒ったように腕を組んだ。 「だってそうだろう。親父だって、どんな理由があったにせよ、お前を避けていたことは事実なんだ。母さんもあんな人だし。…それに、俺も。」 「…兄さんには悪かったと思ってる。やつ当たりみたいになっちゃって。」 この期に及んでまだ自分が悪いと思っているような尚に、孝明は切れた。 「違う!そうじゃない!」 「兄さん?」 「謝るな!謝るのは俺たちであってお前じゃないんだ!」 「…でも、父さんたちも苦しんでたってわかったし。」 「そういう問題じゃ…!」 何故こいつはこうなのだ、と顔を歪めた孝明に、尚はゆっくりと微笑んだ。 「良いんだ。僕が謝ったからきっと、今頃あの人達も凄く悩んでるだろうし。」 「…尚?」 「僕が言わなくても、ううん、言わないからこそ。あの人達は一生、僕に負い目を負う。だからね、良いんだ。」 にっこりと。そう、とてもにっこりと微笑む弟に。 「…お前、性格変わったな。」 弟に男らしくなってほしい、そう思っていた孝明の望みは、違う方向で叶えられたようだった。一つ首を振って、葛藤やら何やらを全て吐き出す。 「…まあいい。問題はお前の退院の日だが…お袋、湯豆腐作る気だな。」 「うん。」 「なんか料理になるとどんくさいんだよな、あの人。豆腐は崩れてるし、角は取れてなんか丸いし。ぼやぼやした味でさあ。」 「…うん。」 「ひっくり返すわこぼすわ。あの完璧に見えるお袋が。俺はあれで完璧な人間はいないって悟ったね。」 「……うん。」 「…尚。」 「…うん?」 「体早く治せよ」 「うん」 「んでもってぼやぼや味の湯豆腐食うぞ。」 「…うん」 「なんだよ。何笑ってるんだ。」 「ううん。ねえ兄さん。」 「なんだ?」 「僕、早く退院したい。」 「…ああ。そうだな。」 柔らかな光りが病室を染める中、尚は微笑む。一点の曇りもない、穏やかな笑顔で。
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