「次は、姉さんの番かもしれないね。」 電話の向こうでしばらく黙り込んでいた弟は、穏やかにそう呟いた。
その時、和夫は久しぶりに好物のケーキを食べようと椅子に座ったところだった。どこからともなく視線を感じ、ふと窓に眼をやると、血のような赤い色が目に付いた。反射的に息を呑むが、なんのことはない。赤い服を着た十歳程の少年がこちらを見ていただけだった。瞳を輝かせてケーキを見つめるその子供は全く和夫が眼に入っていないようだった。どことなく居心地が悪くなり、こちらもお返しとばかりに観察してみる。すると、なんだか見覚えのある顔立ちをしている気がする。さてどこで見たのかと思いを巡らしていると、子供が顔を上げた。和夫が見ていることに驚いたようだが、眼が合うと戸惑い気味に首を傾げた。その仕草にも見覚えがあり、自分が忘れているだけでやはり知り合いの子供か孫かもしれないと窓に近寄った。またも驚いたように身を引く姿に思わず微笑んで、窓の鍵を開けてやる。そうすると、その子供が誰も乗っていない古い乳母車を引いているのに気がついた。 「こんにちは。」 「…こんにちは。」 不思議に思いながらも笑顔を向ける。子供は怒られるとでも思っているのか、泣きそうに顔を歪めながらもぎこちなく口を開いた。緊張を緩めてやろうと先ほどから見つめていたケーキを指差した。 「ケーキを一緒にどうだい。」 和夫の言葉に一瞬嬉しそうに顔を輝かせた子供は、すぐに悔しそうに唇をかんだ。 「ケーキは誕生日だけって決まってるんだ。昨日久しぶりに食べたし。」 そう言って眉尻を下げる子供が微笑ましく、もう一押ししてみる。 「昨日が誕生日だったのかい?まぁ一日くらい良いじゃないか。おいで。」 手招きをすると、子供は迷うようにケーキと和夫を見比べていたが、やがて諦めたように肩を落とした。その仕草が子供らしくなくて違和感を感じる。もう一押ししてみようと口を開きかけたが、それを遮るように子供が首を傾げた。 「ありがとう。でもお前が食べなさい。好きだったろう?」 今までと違う妙に大人びた口調と、口の端だけを上げる笑み。呆気に取られていると、急に子供が身を翻した。その姿に妙に既視感を覚えて、無意識に手が伸びる。子供はするりとぬけ、その姿は窓から遠ざかっていく。掴まえられなかったことに自分でも驚くくらいに落胆していると、ふと子供が振り返った。その顔に浮かぶ慈愛に満ちた微笑が、やけに瞼に焼きつく。気付くと、もう子供の姿は見えなかった。何だったのだろうと首を傾げて椅子に座った。 しかし、そこで奇妙なことに気がついた。あの子供は、どうやって入ってきたのだろう。和夫の家は広い。老朽化しているが、年金で暮らす老人の独り暮らしには勿体無いほどの一軒家だ。昔家族と暮らしていた家をそのまま譲り受けたものだが、門はしっかりと鍵で閉めてある。この家の鍵は和夫の家族しか持っていない筈だ。それに、窓の外に子供がいたが、それも変だ。この部屋は奥まったところに位置していて、偶然入り込むなど有り得ない。そう訝しく思いながら、薄気味悪さに腕をさすった。少しして、だんだんと落ち着いてきて子供一人に何を取り乱していたのかと恥ずかしく思っていると、電話が鳴った。びくついた心臓をなだめ、無意味に辺りを見渡しながら受話器を手に取る。 「はい。」 『和夫、私よ。』 電話の相手は姉だった。知らず安堵して、ため息をつく。気を取り直して、和夫は明るい声を出した。 「姉さん?どうかしたのかい?」 『ええ、昨日兄さんの誕生日だったでしょう。あれでやっと遺品の供養が全部終わってね。』 「ああ。昨日ので最後だったのか。毎年毎年、命日、誕生日と大変だったなぁ。」 『何言ってるの。あなたは命日しか来ないじゃない。あ、そうそう、ケーキもお供えしたのよ。』 どこか誇らしげな姉の言葉に、引っかかるものがあった。 「ケーキ?」 『そうよ。昔は高価だったから誕生日だけって決まってたでしょう。まぁ死んでからは流石に供えてなかったけど。供養が全部終わったお祝い…なんていうと不謹慎だけど、丁度良いかと思って。兄さんはケーキが大好きだったし、久しぶりに食べられて喜んだんじゃないかしら?』 「誕生日だけ…。」 ついさっきどこかで聞いたような台詞があった気がして、和夫は首を傾げた。 『まあ、兄さんはあなたが小さい頃に事故で死んでしまったし。あんまり覚えていないかもね。でも、あなたはまだ十歳だった兄さんによく乳母車で散歩に連れて行ってもらってたのよ。ああでも、そこまで覚えてたら逆に怖いかしら。』 「…乳母車?」 ころころと笑う姉の言葉に、和夫は先程の子供を思い出していた。なんだか似ている。ケーキが好きで、空だったけれど古い乳母車を引いていた赤い服の男の子。…赤い、服。そういえば、よく見えなかったけれど、服の全体が赤いわけではなかった気がする。どちらかというと、一部分から染み出して広がったような。 そこまで考えて、和夫は頭を振った。あるわけがないそんなこと、と自分の考えを追い払うように何度も何度も頭を振る。けれど、子供の表情、仕草、不可思議な点。考えれば考える程そうではないかと思えてくる。ふと、頭の中におかしな考えが浮かんだ。あれは兄で、遺品の供養が完了したことと、それこそ本当に久しぶりに食べたケーキのことでお礼に会いに来た。けれど、思いがけず好物のケーキに眼が行ってしまい、それを見咎められたと勘違いして。焦って逃げようとしたのか、それでも最後は兄らしい言葉を言っていたけれど…。 一瞬、最後に見たあの子供の慈愛に満ちた微笑が脳裏に思い浮かんだ。 「…姉さん、来年からも、ケーキお供えしよう。」 『あら。どうしたのいきなり。…和夫?』 電話の向こうで、首を傾げた姉が見える。和夫の家族は癖なのか、揃ってよく首を傾げる。そういえば、あの子供も首を傾げていた。 自然と、和夫の唇の端が震える。こらえきれない。涙が滲むのを感じながら、和夫はゆっくりと目を閉じた。
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