20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:ゲーム 作者:koyuira

最終回   1
『次の駅は〜』
 聞き取ることが困難なほど雑多な車内のアナウンスに、圭は自分の降りる駅がまだ当分こないことにため息をついた。
 二見圭。今年で大学の三回生になる。成績は普通。特別美人というわけではないが、友人曰く行動がちまちまとしているらしく、天然なのもあいまってか小動物のようだと皆に可愛がられている。寝起きが悪い圭は三回生になった今年から一限の曜日を減らし、水曜だけにしている。今日もその一週間で唯一の億劫な日なのだが、何故かいつもより人が多い。満員電車なのはいつものことだが、なぜか見知らぬ学生が多いのだ。たいてい、朝は同じ時間に同じ人を見かけるのだが、今日は知らない学生が多い。しかも、何故か圭の周りに多かった。
何かあるのかと圭がぼんやりと考えられたのも、ここで終わりだった。次の駅に着き、反対側の扉が開いた途端人の多い車内に更に無理矢理人がなだれ込む。その反動で、ドア近くに立っていた圭はドアに押し付けられてしまった。自分の体を支えるのに精一杯になった圭は、ふと思い出した。そういえば、次の駅ではこちらの扉が開くのではなかったか。そう、今圭が必死にへばりついているこの扉が。
「どうしよう…。」
小声でそう呟いて、圭はきょろきょろと動かしづらい首を懸命に動かした。何か掴まれそうな物は無いか、壁になってくれるものはないか、と。そして、圭にとっては最悪なことも思い出す。次の駅は、多くの人が利用する乗り換えの駅だ。圭自身は使わないが、確かいつもこの駅で多くの人が降りる。もし一斉に来られたら簡単に押し出されてしまうだろう。そうなっても荷物だけは離さないようにしようと意気込んで、しかし心配になって往生際が悪くきょろきょろとしている内に、次の駅に着いてしまった。
どっと音がするような人の流れ。必死に流れに逆らうも、大衆の前には無意味だった。あっさりと外に出された圭は、お約束のように誰かの足に引っかかる。
「わっ。」
こけて人を巻き込み、あわや大惨事かというところで、圭は力強い腕に引っ張られた。咄嗟に目をつぶっていた圭は、ガキンッという音が聞こえてそっと目を開ける。そこには、停車している車体に腕をつけて体を支え、圭の二の腕を掴んで心配そうにしている青年がいた。
「…大丈夫?」
「……、…あれ?」
 青年と、自分の二の腕と、流れ出ていく人の波を交互に見る。状況が分かっていないような圭の表情に、青年は苦笑した。見た目は茶髪にピアスと軽薄そうなのだが、その表情と雰囲気は落ち着いていて、どこか安心できるような青年だった。
「大丈夫?」
 今度は幾分笑いを含んだ声で青年は圭を覗き込む。我に返った圭は、慌てて青年と視線を合わせた。
「わわっ、あの、えっと。」
「…大丈夫みたいだね、それじゃ。」
 圭の態度と全身をざっと一瞥してそう判断した青年は、気をつけるんだよ、と言い残してさっさと階段の方へと向かっていく。
「あ、あのっ。」
 せめてお礼を言わなければと青年をひきとめようとしたが、電車が発車しそうになる。時間に厳しい教授の授業なので、遅れるわけにもいかない。圭は名残惜しげに青年の後姿を目に焼き付けてから、急いで電車に滑り込んだ。
「……あれ?」
 電車内には人が少なかった。この駅で人が少なくなるのはいつものことだが、さっき圭の周りにいた学生たちも一斉にいなくなっている。あれだけの学生に一気に押し出されたら、転びそうになるのも仕方がない。ため息を吐いて、しかし圭は思い返す。あそこで転んでいたら、物凄い大惨事になっていたかもしれない。無意識に顔を青ざめさせた圭は、改めて先ほど助けてくれた青年に思いを馳せる。見た目はどこにでもいそうな軽薄そうな青年だったのに、雰囲気は落ち着いていて、どこかちぐはぐだった。圭の周りにはいないタイプだ。圭の無事を確認するなり行ってしまった見知らぬ青年。朝見かけないことから考えて、多分もう会うこともないだろう。なのに、どうしてこんなに気になるのか。
「そうだ、お礼…。」
 そう、お礼。お礼を言えなかったからこんなに気になってるんだ。納得した圭は一人頷いて、取り敢えず青年を探そうと試みた。いくら朝見かけないからといって、今日は会ったのだ。また、こういうことが起こるかもしれない。長期戦だ、と圭は両手で拳を握った。








「…見つからないよぅあっちゃん。」
 しくしくと倒れこんできた圭をちらりと一瞥し、篠崎敦子はこの一ヶ月で何度目になるかわからないため息をついた。
「何、あんたまだ諦めてないの?」
「ううう…あっちゃん冷たい〜。」
「いい加減冷たくもなるわよ…ああもうその手どけてよ。」
「っ、あっちゃんがいじめた〜。」
 うわーんと泣きまねをする圭とそれを冷たい目で見下ろす敦子に、周りはいつものことと気にする様子はない。
「だってね、もう一ヶ月だよ、一ヶ月!影も形もないってどういうこと?」
「…逆に影があったら怖いでしょうよ。…もう諦めれば?」
「だって!」
「もういいじゃん。それに一ヶ月前のことなんて相手も覚えてないよ。」
「…だってぇ。」
「普段のあんたならもうとっくに諦めてるのにね。…やっぱり恋は偉大ってことかしら。」
「こい?なっ、ち、違うよ!私はただお礼。」
「と言う名のアプローチね。でもね、あんたの話聞いてると一目ぼれとしか思えないわ。」
「一目ぼれじゃないよ!だってドラマの主人公みたいに頭の中で鐘鳴らなかったもん!」
 きゃんきゃんと子犬のように騒ぐ圭を呆れたように見下ろして、敦子は腕を組む。
「…どこの世界に人に会って鐘が鳴る頭持った人間がいるのよ。根気って言葉を知らないあんたがここまで粘るなんてそれしかないでしょうよ。認めないなら諦めなさい。可哀相なのはあんたなんだからね。」
 圭の鼻先に指を突きつけてから教室を出て行く敦子を恨みがまし気に見つめて、圭は唇を噛んだ。
 その日、バイトを終えて電車に乗った圭は、いつものように無意識に乗客の顔を見渡す。今回もまた青年を見つけられずに落ち込んでいると、昼間の敦子との会話を思い出した。確かに、普段の自分ならもうとっくに諦めているだろう。それなのにまだ探している。
「…一目ぼれ、なのかな。」
 どちらにしろ、もう会えないのなら意味が無い。この一ヶ月、人の多い朝も頑張って探したが、見かけた覚えがない。
「無理なのかな。」
 元々そう辛抱強い性質ではない圭は、終わりの見えない今の状況に疲れていた。






『まもなく右側扉が閉まります。ご注意ください』
 夜が遅いせいかあまり人のいない車内ではっきりと聞こえたアナウンスと共に、隣の扉から一人の青年が滑り込んできた。一度閉まりかけていたため、扉ががたんと音をたてる。反射的に顔を上げた圭の目に、あの青年が映る。
「…いた。」
 この一ヶ月、ずっと探していた人物だった筈なのに、実感が湧かない。しばし呆然として、慌てて圭は顔を伏せた。どういう行動をとろうかと頭の中では必死に考えているのに、顔が熱くなるばかりで具体的なことが思いつかない。だがこうしている間にも時間は過ぎていく。そうこうしているうちに、次の駅で降りてしまうかもしれない。意を決して、圭は立ち上がった。こくりと喉を鳴らし、青年が座っている方向へと足を向ける。
「あの…こんばんは。」
 恐る恐るといったように、圭は青年に声をかけた。酔っているのか赤ら顔で、始めて会った時とは違う見た目通りの軽薄さが滲み出ている。もしかしたら違う人かもしれない、とよく確かめもしなかった自分を圭は悔いた。しかし予想とは裏腹に、青年は顔を上げてまじまじと圭を見つめると、急に破顔した。
「あれ、この前の女の子?」
 笑顔で圭を指差す青年は子供のようで、けれどやはり軽薄そうだった。間違っていなかったことに安堵して、圭は微笑む。
「あ、はい。この前は、本当に有難う御座いました。ずっとお礼を言いたくて…。」
「お礼?そんなの良いのに。…ああ、じゃあさ、今暇?」
 気にするなとでも言うようにひらひらと手を振った後、一転して首を傾げて圭を見上げる瞳は輝いていた。何がそんなに楽しいのだろうと思ったが、今は質問に答えるのが先だ。
「今ですか?…大丈夫、ですけど。」
「やりぃ。ね、ちょっとオニーサンとお茶しない?」
 満足そうに目を細めた青年は、くいっとグラスを傾ける仕草をした。






「まずは自己紹介かな。俺の名前は高階隼人です。年は秘密。君は?」
 二十四時間営業のファミレスに落ち着き、お互いの注文が来たころに青年、高階は口を開いた。酔いも覚めてきたのか、軽薄さが消え、代わりに第一印象と同じ誠実そうな雰囲気が醸し出されていた。
「あ、圭、二見圭です。大学三年生です。あの、改めてこの前は、」
「ストップ。堅苦しいのはなしにしよう。それにしてもよかった。この前は急いでいてろくに確認も出来なかったけど…怪我はなかったようだね。」
「あ、はい。凄い元気です!本当に有難うございました。あの、高階…さん、には怪我は」
「俺は特に無いよ。それより何か話そう。そうだなぁ…趣味とか。あぁ、でも何だかお見合いみたいだね。」
 圭の言葉遮って高階は微笑む。先ほどの子供のような笑顔ではなく、落ち着いた笑みだった。
「趣味ですか?えっと…時計、かな。」
「時計?へぇ、良いね。」
「…そう、ですか?」
 普段友人達に言ってもあまり良い反応が返ってこない為か、嬉しさと照れくささで頬に熱が集まる。
「うん。俺もつい最近壊れてしまってね。お勧めとかあったら教えてくれない?」
「あ、はい。えっと…。」
 ざっと高階の全身を見やり、彼に似合いそうな時計を頭の中でピックアップしていく。はじき出したいくつかの時計を解説付きで話すと、高階は呆けたように肘をついた。
「…凄いね。男物までいけるんだ。本当に今度時計屋に付き合ってほしいくらいだ。」
「ご、ごめんなさい。私、調子に乗っちゃって…あ、あの、高階さんの趣味は?」
「俺の?そうだね。…手に入れること、かな。」
「何をですか?」
「うん?鞄、服、それこそ時計とか。手に入ったときは本当に嬉しいからね。」
 まるで今ここに欲しい物があるかのように、うっとりと微笑む。
「あ、わかります。私も欲しい時計が手に入ったら嬉しいです。」
「そうだよね。でも、俺は手に入れると、もうそれに興味がわかなくなるんだ。」
「うんと、私が手に入れると次のが欲しくなっちゃうようなものですかね?」
「…そうだね。」
そう言って口の端を上げるだけの笑みがらしくない気がして、圭は手持ち無沙汰にコーヒーに口をつけた。そんな圭に気づいたのか、高階は席を立つ。
「さて、そろそろ出ようか。今日は有難う。送るよ。」
「え、良いです、そんな。一人で帰れますから。」
「送らせて。」
 声の調子が変わる。酔っている様でもない。なのに、今までと違う雰囲気に戸惑う。ふ、と顔を和らげて、高階は微笑んだ。
「女の子をこんな時間に一人で帰らせられる訳ないだろう。ほら行くよ。」
 そう残して、高階はさっさと行ってしまう。慌てて追いかけた圭は、結局ごり押しされて家まで送られることになった。
「有難うございました。」
 家の門の前で、圭は深々と頭を下げる。
「どういたしまして。」
 それに笑って、高階も真似をするように頭を下げる。
「わわ、止めてください、もう本当にどうお礼を言って良いか…。」
 ファミレスを出る際に、さりげなく会計まで払ってもらった圭は恐縮していた。
「本当に良いのに…俺も付き合って貰ったし。」
「いえ、でも…。」
 引き下がらない圭に苦笑して、高階は顎に手をやって考えるように目を閉じた。
「…時計。」
「時計?」
「そうだ、時計。時計探すの手伝ってくれない?」
 良い考えだとばかりに頷く高階に、圭はただ戸惑うだけだった。
「はい?」
「駄目?」
「え、いえ、そういうわけじゃなくて、」
「じゃあ決まり。またメールするから。」
「あ、はい。ってあの…有難うございました。」
 勢いで押し切り、ひらひらと手を振りながら遠くなっていく背中にもう一度礼をして、圭は門に手をかける。
「…あれ、私、メアドなんて教えたっけ。」
 ふと、落ちた疑問。しかし、圭は自分でも緊張をしていたことを思い出し、その時に話したのだろうと納得して家に入っていった。
 高階が家までの道案内なしに、迷わず送ってきたことにも気がつかずに。





「『じゃあ明日の午後三時に。楽しみにしてるよ。』かぁ。」
 ごろんとベッドに寝転んでメールを見た圭は、一人ため息をついた。思えばあのバイト帰りの夜。思考が上手く働かず、あまり覚えていなかったことからも夢かと思っていたのだが。すぐ次の日に知らない電話番号から日程確認のメールが来た。送ってきた人物が高階だとわかると驚くのと同時に安堵した。あれは夢ではなかったのだと。聞けば携帯会社が同じで、番号だけ教えあって次の話題に移ってしまったらしいのだが、圭には覚えが無かった。多分緊張していたからだと自己完結し、そこからメールをするうちにメル友感覚になってしまった。何度か電話もしている。性格はやっぱり見た目と違って落ち着いているが、たまに無邪気な一面も見せる。話をしているうちにどんどん高階に惹かれていくようで、やはり敦子の言葉は正しかったのかとうな垂れる。そうこうしているうちに、約束の日はもう明日に迫っていた。こんなにとんとん拍子に話が進むのが怖くて、圭はもう一度メールを見てから携帯を握り締めた。
 次の日、圭の心とは裏腹に天気は雲ひとつ無い青空に恵まれた。十分前に約束の場所について見るともなしに周りを見ていると、急に不安になってきた。今日は高階の時計を買いに来ただけなのに、と圭は自分の格好を見下ろす。友人たちに大丈夫だからと言われてコーディネイトしてみたのだが、どう見ても初デートに張り切っているようにしか見えない。
「…メールして、一度帰ろうかな。」
「遅れてごめんね、圭ちゃん。」
「ひっ!」
「え?」
 メールを送ろうと携帯を取り出したとき、ぽん、と肩を叩かれて勢いで振り返った圭は、きょとんとしている高階を見つけて慌てて笑顔を作った。
「こっこんにちは!」
「はいこんにちは。どうかした?」
「いえ、何も無いです…。」
幾分笑いを含んだ声に恥ずかしそうに下を向いて、圭は気を取り直して話しかける。
「今日は何処行きます…あれ?高階さん?」
「ん?ああごめんごめん。可愛いなって思って。」
「かっ…!」
「そうそう、今日はもう店を決めてあるんだ。すぐそこだから、一緒に来てくれる?」
 さらりとかわされて、自分にとってはとても恥ずかしいけど嬉しかった言葉なのに、この人は言い慣れているのかもしれない、とぼんやりと圭は思う。そういえば、今日の高階の服装はフォーマルな格好だった。一つ一つの装飾品も凝っていて着こなしも違和感が無く、普段から服にも気を使っているだろうことが伺える。さりげなくリードしてくれていることからも、女の子の扱いが慣れているように見えた。自分にとっては特別な日でも、彼にとったら日常の一コマなのだろう。そう考えると、浮かれてしまった自分が情けなかった。
「ここだよ。」
お目当ての時計屋に着くと、高階はドアを開けて先に圭を通してくれた。
「あ、有難うございます。」
「どういたしまして。さぁどうぞ。」
「えっとじゃあ…わぁ。」
 店の中は、シックな雰囲気で統一された、どちらかと言うと高級店だった。そこここにディスプレイされている時計も、圭の趣味で集められた時計とは桁が違うように見える。しかしおかしなことに、何故か時計には値段がついていなかった。思わず気後れして後ずさる圭の肩を後ろから支えて、高階は苦笑した。
「見た目は高そうだけどね。実はここ中古の店なんだ。結構安いのも売ってるんだよ。」
 圭の不安を言い当てて、高階は圭を押すようにして歩を進める。
「値段はついてないけど、本当に時計のことが分かってる人しか来ないようにって。オーナーの我侭でね。…さて、時計が大好きな圭ちゃんはどれを選んでくれる?」
 唐突に、試されていると思った。根拠は無い。寧ろ、優しい言い方だった。なのに言葉の裏に嘲笑が見え隠れしている気がして、圭の肌が粟立つ。
「…どうかした?」
 圭の動揺に気がついているはずなのに、心配そうに言う高階に悪意は見えない。声の調子におかしい所も無く、圭はそんな風に感じてしまった自分を恥じた。
「なんでもないです。見てもいいですか?」
 それでも目線を合わせられなくて、時計に気を取られているように言うと、高階は頷く。
「勿論。ああでもあんまり高そうなのは無しね。俺の財布軽いから。」
 冗談めかして話す高階に少しだけ安堵して微笑んだ圭は、気持ちを切り替えて本格的に時計を探しだした。途中店員が寄ってこようとしたがそれを手で追い払って、高階は真剣に時計を見て悩んでいる圭を口元に手をやりながら見ていた。
「…これと、これと、これです。高階さんに合いそうなものを選んでみました。」
 十分ほどして戻ってきた圭の手には三つの箱入りの時計があった。値段も私見だが二つは適当なものから少し高価なものまでと、値段的にはまずまずだろうと思える。しかしその中の一つは明らかに他の二つと違っていた。
「あの、これ…迷ったんですけど。」
 三つの時計の中で食い入るように一つの時計を見ている高階をちらりと見てから、圭はその一つを差し出した。
「ランゲ&ゾーネ、ダトグラフです。文字盤は黒で、裏はスケルトンになっています。クロノグラフといわれるものの中で最高峰だと、私は思っています。高階さんの見た目とはちょっと合わないかも、って思われるかもしれないんですけど、雰囲気が…落ち着いているので。違和感は無いと思いました。本当は雰囲気も似ているのでダブルスプリットにもしようかと思ったんですけど…あまりにも値段が破格過ぎて。っていってもこれも凄く高いから、まぁ一度見るだけでもってとこなんですけど。」
 少し照れくさそうにする圭に、高階は一つ微笑んでダトグラフを手に取る。
「俺に似合う?」
「…はい、とても。あ、でも中古でも四百万くらいだと思うんです。すっごく高いですから、この二つのうちの」
「羽柴さん、これ買います。」
「え?」
「どうも高階様。いつもごひいきにありがとうございます。今回は…おやダトグラフですね。お目が高い。ですがこの前お買い上げになられたランゲマティック・パーぺチュアルはお気に召されなかったんですか?」
「ランゲマティック!」
驚きのあまり声を上げると、いつのまにか傍に寄っていた羽柴と呼ばれた若い店員と高階の注視を浴びる。慌てて手で口をふさぐと、店員はにっこりと微笑みかけた。
「高階様のお連れ様ですか?この時計を選ばれたのはお連れ様でしたね。とてもお目が高いことと存じますが。ぜひともこれからもごひいきになさってくださいね。今度はお連れ様ご自身の物もお選びになってください。」
 そう締めくくり、店員は恭しくダトグラフと高階から渡されたカードを手にとると奥へと行ってしまった。色々と誤解されたままなのに居心地が悪くなる。また、こんなに高いものをカードで買えてしまい、更に前回はランゲマティック・パーぺチュアルまでも買ったらしい高階にも聞きたいこともあった。そんな気持ちが顔に出ていたのか、高階は圭を見下ろして吹き出した。
「…っ、そんな膨れっ面しないで。何か言いたい?」
「…前の時計、つい最近壊れたって言ってましたよね。どうしてだったんですか?」
 聞きたいことはたくさんあるのに、口から出てきたのはそんな言葉だった。
「…………。」
「言えないんですか?」
 時計が壊れた理由で言えないことなんてあるのか。そんな目で見ていたのだろう。高階は困ったように首をかしげた。
「聞いても後悔しない?」
「どうして私が後悔するんです。」
 訝しげに眉間に眉を寄せる圭にため息をついて、高階は重そうに口を開く。
「…ある朝、一人の女の子が電車で人に巻き込まれて転びそうになってね。危ないなぁって思って咄嗟に庇って引き寄せたんだ。」
 どこかで聞いた覚えのある話だ。いや、寧ろつい最近起こらなかっただろうか。
「そしたらその反動でガキンッて。まぁその女の子には怪我が無くてよかったよ。」
「………………。」
「………………。」
「すみませんっ!」
数秒後に勢いよく頭を下げる圭を高階は慌てて留めた。
「ああもう。だから言ったのに。俺の反射神経も悪かったし、気にしないで。ちょうど飽きてきたところだったんだ。それより今日は有難う。」
「ランゲマティック・パーぺチュアル!」
「………落ち着いて。」
 パニックに陥り人の話を聞いていない圭を宥めるため、苦笑しながら高階は肩に手を置く。びくりと震えて涙目で高階を見つめた圭は、再度勢いよく頭を下げる。
「すみません!弁償は何年かかってもします!あ、でも大学辞めて働くのはちょっとだけ待ってください!あ、でもそんなの図々しいですか!うわぁどうしよう!」
「…圭ちゃん。」
 だから落ち着いて、と言う代わりに、下がっている頭を無理やり持ち上げた。
「…っ、高階さんっ、ほ、ホントにごめんなさ…っ」
 可哀相な程青ざめる圭に高階は含み笑いする。
「ホント。どうしようかな。凄く気に入ってたのに。」
「…ごめんなさい。」
「何かしてもらわないと気が済まないな。」
 高階が先ほどと違ったことを口にしていても、圭は混乱して気がつかずに弱々しく頭を振るだけだった。
「…何かって、でも私お金ないし、何にも」
「じゃあ何もしてくれないんだ?」
「それはっ、出来ることならなんでもします、けど。」
 らんげまてぃっくはななひゃくまん、と圭の頭にはつたないその言葉しか回っていなかった。
「じゃあ何でも言うこと聞いてくれる?」
「勿論です。」
 微妙に話がずれていても気づかないのが圭だった。
「じゃあ俺と付き合って。」
「勿論で…はい?」
 ぱちりと、二人の視線があった。
「よろしいですか?」
 控えめにかけられた声に圭は勢いよく、高階はゆっくりと振り返る。いつから待っていたのか、包装済みの時計とカードを抱えて店員が立っていた。
「え、あ、あの…っ。」
「ああ、有難う羽柴さん。」
「いえいえ。これからもどうぞごひいきに。」
「ああ。」
 今までの会話が聞かれてたのかと思わず上擦って答えた圭とは対象的に落ち着いて対処する高階に品物とカードを渡した店員は、意味深に微笑んで二人を見送った。
「…一目ぼれだったんだ。」
 店を出て、高階は手品の種明かしをするようにゆったりとした笑みを浮かべた。
「……。」
 しかしようやっと落ち着いてきた圭は、またもや爆弾発言に赤面するだけだった。
「…少しは脈ありかなって自分で勝手に思ってたんだけど…違った?」
「え、いや、あの、」
「あはは。まぁいいよ。ちょっと汚いかと思うけど、『勿論』付き合ってくれるんだよね?」
 狼狽する圭の言葉を遮って、いつのまにか取り出した時計を顔の前で振りながら高階はにっこりと微笑んだ。
「あの、」
プルル、と無機質な音をたてて、高階の携帯が震えた。ディスプレイで相手を確認すると、すまなさそうに圭に手を合わせた。
「ごめん、電話だ。ちょっと待ってて。」
「あ、はい…。」
 そう言って離れる高階を見送りながら、圭は混乱している頭で今の状況を何とか理解しようとしていた。
ふう、と深呼吸をする。考える。敦子曰く一目ぼれ疑惑の高階の時計を自分のせいで壊してしまい、それを謝ると付き合ってと言われた。
「…間違ってない、よね?」
 不安げに呟きながら、圭は電話をしている高階を見る。顔が悪いわけではない。寧ろ普通にかっこいい。しかもカードで高価な時計を買えるなんて、相当な金持ちだ。外見とちぐはぐだが、落ち着いた雰囲気。一緒にいて、何かと気を使ってくれる。凄くいい人だと思う。そんな人に一目ぼれだと言われて、圭は本当に驚いた。
けれど。
「どうして私?」
 一目ぼれに理由なんて無い。けれどぽつりと口から零れ出たその言葉は、風に消え入るように頼りなかった。


少し離れたところに落ち着いて、高階は携帯を静かに耳に宛てて相手の言葉を待った。
『よ、お疲れさん。』
「…お前か。」
『おう。上手くいったんだろ?』
「ああ。思ったより単純な女だった。」
『なんだそりゃ。じゃあなんで選んだんだよ。』
「ああいうタイプと遊んだことないしな。たまにはいいかと思って。」
『ふーん。で、今日はどこ行ったんだよ。』
「時計買いに行った。まぁセンスは良かったな。」
『そーいや前壊れたんだっけ。タグ・ホイヤーだったか?』
「ああ。でも向こうはランゲマティックが壊れたと思ってる。」
『はぁ?お前ランゲなんて持ってねぇじゃん。』
「俺は一言も前の時計がランゲなんて言ってない。勝手に勘違いしてるのは向こうだ。…それにその方が罪悪感が増すと思わないか?」
『あーあ楽しそうに。お前その為に店員囲い込んだんじゃねぇだろーな。』
「そんな面倒なことしないさ。羽柴の店に行ったんだ。」
『思いっきり俺らの身内じゃねぇか。』
「たまたまだよ。」
『はいはい、たまたまね。それにしても可哀想に。今回の子も一ヶ月もたねぇな。』
「酷いこと言うなよ。一応気に入ってるんだ。」
『へえ珍しい。今更恋の予感って?』
「違う。今回はランゲの分とまではいかないまでも尽くしてもらえそうなんだ。」
『…お前マジ外道だな。そうだ、今度は俺の番だからな。皆でせいぜい上手くくっつけてくれよ?お前の時みたいに朝の満員電車で押し出すとかな。』
「ふん、お前は俺よりたちが悪い。」
『はぁ?俺は一途よ?お前らとは違いますー。』
「一途?ただのストーカーだろう。」
『とっかえひっかえよりマシだっつーの。どれだけ住所と携番調べんのに金かかってると思ってんだ。まあ次が欲しくなったらまた言えよな。今度もばっちり計画立ててやっから。』
「次か。またよろしくな。」
『おお。じゃあまたな。その『圭ちゃん』の感想俺らに聞かせろよ。』
 プツリという音をたてて、携帯が切れる。どこか不安そうにこちらを見る圭に携帯を振ってから、高階は目を細めた。


「さてと『圭ちゃん』。君は俺をどれだけ楽しませてくれる――?」


■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 463