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作品名:僕はバク 作者:安賀宇久雄

最終回   1
僕はバク。
夢を食べる。
僕はバク。

夜になると、僕は天空に駆け上がる。
高い空の上から、ゾウみたいな(けれどゾウよりはずいぶん短い鼻で)悪夢の臭いを嗅ぎまわる。
毎晩毎晩、いろんな臭いが漂ってくる。

僕はバク。
悪夢が大好物。
僕はバク。

ある晩、とても濃密な臭いが漂ってきた。
むせかえるような臭い。
僕はよだれがじわっと湧きだすのを、こらえることができなかった。

僕はバク。
その臭いのもとへ一気に駆け下りた。
僕はバク。

夢の主は、まだ若い女の人だった。
何度も居心地が悪そうに寝返りをうっていた。
まぶたはきつく閉じられていたけれど、その眉間には残酷なほど深く皺が寄っていた。

僕はバク。
僕は人の夢を見ることができる。
僕はバク。

女の人は、何か得体の知れないものに追われているようだった。
女の人自身がその得体の知れないものから本気で逃げ出したいのか、本当は飛び込みたいのだけれど勇気が出ないのか
そこまではわからない。けれど、とにかくその女の人はひどく怯えていた。

僕はバク。
悪夢は大好物だけど夢の理由まではわからない。
僕はバク。

とにかくこの得体の知れないものは、うまそうだった。
うまそうだったけれど、とても朝までに食べきれる自信がない。それほどそれは巨大で、果てしもなかった。
僕はまずちょっぴり、先っちょだけをかじってみた。

僕はバク。
それはとてもおいしかったけれども、味わった記憶のない不思議な味がした。でも何かに似ている味。
僕はバク。

僕が一口、悪夢を食べる毎に、女の人の眉間の皺は、ちょっぴりちょっぴりほどけていくようだった。
こわばっていた口元も、少しずつ少しずつでも緊張を解いていくように見えた。
僕はほとんどむさぼるようにその悪夢に挑みかかったけれど、やっぱりとても朝までに食べきれる量じゃあなかった。

僕はバク。
夢は一夜限りのもの。もうあの不思議な味にはありつけないのかな。
僕はバク。

次の晩も、僕は夜空の上から鼻をならした。ちょっぴり期待をこめて。
すると! あの濃密でむせかえるような臭いが今夜も確かに漂ってきた。僕はそのことをはっきりと確かめる前に、
もう駆け出していた。その夢のもとへ。きっと昨日とおんなじあの若い女の人のもとへ。

僕はバク。
こりゃ掘り出し物かもしれない。こんなにおいしい悪夢は食べた事がない。
僕はバク。

夢の主はやっぱり昨日とおんなじ女の人だった。
女の人が飼っているらしい真っ白い猫と暗闇で目が合ったけれど、ニヤリっと笑ってやったら、驚いて逃げやがった。
人に僕の姿は見えないけれど、動物には僕が見えるらしい。

僕はバク。
人間の悪夢以外に興味はない。人間の見る悪夢は複雑なだけあって、味わいが違う。深みが違う。
僕はバク。

僕は朝までずっと食べ続けたけれど、結局また、ずいぶんと残してしまった。
何しろこんなに巨大な悪夢は見たことがない。
これだけ大きい悪夢って、どうやったら見ることができるんだろう?

僕はバク。
はじめて夢を見る人間に興味を持った。
僕はバク。

次の夜、やっぱりあの夢の臭いは漂ってきた。
その次の夜も、また次の夜も、同じように女の人は悪夢を見ていて、僕はそれを食べた。
女の人はいつもとても苦しそうで、夜明け前にはほんの少し安らかな顔をした。

僕はバク。
この女の人はなぜこんなに悪夢ばかりを見るのだろう?
僕はバク。

ある晩、いつものように女の人のもとにやってきて、いつものように口を開けた瞬間、ひっくりかえるほど驚いた。
女の人が目を開けて、僕を見ていたのだ。僕はまともに目を合わせてしまった。
驚いた僕が女の人から飛びのくと、女の人の視線も僕を追って動いた。

僕はバク。
そうして女の人には僕が見えているんだ!
僕はバク。

女の人はとても落ち着いた様子で僕を見つめていた。
「僕が見えるの?」と僕は聞いた。
女の人はとても小さく、けれどしっかりと頷いた。

僕はバク。
こんなことってあるだろうか? 僕が見えるなんて。ちっとも怖がったり驚いたりしないなんて。
僕はバク。

「毎晩来てくれてるわね」女の人は言った。
「おかげで毎晩、少し眠れるわ。ありがとう」
 僕は何と言っていいのかわからなかった。

 僕はバク。
 こんな時なんていえばいいの? 「どういたしまして?」それとも「こちらこそごちそうさま?」
 僕はバク。

「僕のことを怖がったり、気味悪がったりしないの?」
 僕はそう言ってから、なんて間抜けなことを聞いたんだろうと思ったけれど、遅かった。
「とんでもない。あなたは毎日私の夢に現れて、私の夢を食べてくれる。感謝はしても怖がるなんてことはないわ」

僕はバク。
 長いあいだ人の悪夢を食べてきたけれど、人間と話しをしたのは始めて。ましてや感謝されるなんて!
 僕はバク。

 女の人はとても悪い人間には見えなかった。
 毎晩悪夢にうなされているせいで少しやつれて見えたけれど、あらためてその瞳を見るととてもきれいだった。
 その瞳を見て、僕はこの女の人の夢の味の懐かしさを思い出したような気がした。

 僕はバク。
 悪夢にもいろんな味があることを知ってる?
 僕はバク。

 悪いことをして、その恨みや後悔で見る夢って言うのは、あんまりおいしくない。ざらざらして、喉ごしもわるい。
 逆に怖い映画なんかを観てしまって、怯えながら眠った子供たちが見る悪夢というのは、ほんのりと甘くて、おいしい。
 この女の人の悪夢は子供たちが見る悪夢の味に似ていた。でもそれよりもちょっぴりしょっぱい味がした。

 僕はバク。
 きっとこの女の人は、小さな女の子みたいに純粋に何かに怯えてるんじゃないかって思った。
 僕はバク。

「いったい何に怯えているの?」
 僕は女の人に聞いてみた。何の説明もなしに問いかけたから、女の人は不思議そうな顔をした。
けれどすぐにちいさなため息をついてこう言った。「わからないの。本当に」

 僕はバク。
 ため息をついた女の人の顔を見たとき、僕はどういうわけかちょっぴり震えた。僕は目を細めた。かわいそうだった。
 僕はバク。

「いったいどうしたらあなたを救ってあげられるだろう」僕は言った。
「とても僕一人じゃあ、あなたの悪夢を食べ切れそうにないよ」
「ありがとう。でも大丈夫。それでも少しは楽になるから」女の人はそういうと、疲れ果てたように目をとじた。

 僕はバク。
 僕にできることはないのかな? 一人じゃとても食べきれない。一人じゃ? そうか! それなら――
 僕はバク。

 次の晩、僕はありったけの知り合いのバクに声をかけた。
 とびきりおいしい悪夢を見つけたんだ。とても食べきれないくらいたくさんある。さあ、みんなで行かないか?
 みんな鼻をならして喜んでくれると思った。でも、違った。

 僕はバク。
 悪夢なんて今じゃうんざりするくらいにあふれてる。自分の食べる分だけで手一杯さと誰かが言った。
 僕はバク。

 あてが外れた僕は、結局一人であの女の人を救うしかないと悟った。
 確かに最近はやたらと悪夢があふれている。人間たちはよほど何かに追い詰められたり、苦しめられているらしい。
 その数が昔と比べて、ずっとずっと増えているんだろうな。

 僕はバク。
 僕たちにはありがたいことだけれど、それにしてもとても食べきれたものじゃない。
 僕はバク。

 とにかく毎日少しずつでも、あの女の人の悪夢を食べてあげなくちゃ。僕が食べてあげなくちゃ。
「こんばんは。今夜もがんばって食べるからね」女の人に声をかけると、女の人は優しく笑った。
「ありがとう。本当に、ありがとう」

 僕はバク。
 何にも考えないで、ひたすらに僕は食べた。
 僕はバク。

 毎晩毎晩、僕は夢を食べ続けた。
 飽きることなんてなかったけれど、やっぱり量が多すぎた。それに一晩たつと悪夢はすっかり元の量に戻っていた。
 それでも僕は食べ続けた。もう夜空で鼻をならしたりしない。夜になると僕はまっすぐに駆けつけ、夢を食べ続けた。

 僕はバク。
 この女の人を救いたい。悪い夢を全部、食べてあげたい。
 僕はバク。

 幾晩通ったことだろう。
 飼い猫ももうすっかり僕の顔を覚えてしまった様子で、驚きもしないし、怖がることもない。
 それどころか時々すり寄ってきて、遊んでくれとでもいうように喉を鳴らしたりするようになった。

 僕はバク。
 残念だけどそれどころじゃないんだ。僕は夢を食べきらなきゃ。今夜こそ今夜こそ。でも夢はやっぱり食べきれない。
 僕はバク。

「ねえ」ある晩、女の人が僕に声をかけた。
「もう私の夢はいいから、どこか他の人の食べきれる夢を食べてあげて。そうすればその人はぐっすり眠れるわ」
 僕は口をとめ、女の人を見つめた。不意に、涙が出た。

 僕はバク。
 どうしてそんなことを言うの?
 僕はバク。

「泣かないで。ねえ、泣かないで」女の人は自分も泣きそうになりながら、僕に言った。
 僕は何も答えなかった。その場から立ち去りもしなかった。
 僕は再び食べ始めた。むさぼるように、食べ続けた。

僕はバク
僕はあなたを救いたいんだ。もう他の人間の悪夢なんて食べたくないんだ。
僕はバク。

それは突然にやってきた。
 いつものように女の人の部屋に近づいたとき、僕は異変に気がついた。
 あの濃密で、濃厚な夢の臭いがどういうわけか今夜は漂ってきていない。

 僕はバク。
 女の人の悪夢は、もうすっかり消えてしまっていた。
 僕はバク。

 今までに見たことのない、穏やかで安らかな寝顔の女の人が横たわっていた。
 規則正しい寝息をたてて、安心しきった顔。口元がまるで笑っているように見えた。
 僕が女の人の鼻先に顔を近づけても、女の人は目を開けることはなかった。

 僕はバク。
 彼女の傍らには見たことのない男が眠っていた。男の腕にすっかり体を預けるように女の人が眠っていた。
 僕はバク。

 僕はそっと、夜空に駆け上がった。
 もうあの女の人は、悪夢を見ないだろう。そう考えるとなぜだかとっても不思議な気分だった。
僕は何度も何度も、女の人の家を振り向いて見た。

僕はバク。
人間の悪い夢を食べる。
僕はバク。
 悪夢が大好物。
 僕はバク。
 人間自体になんか興味はない。悪夢を見る理由にも興味なんかない。
 だって――
 僕はバク。
 僕はバク。
 僕はバク……。


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