賢者はゆっくりと語り始めた。 かつてごく普通の貧しい農家に生まれた一少女が、魔女にまで身を落とした顛末を。 少女がまだ幼い時、父親が病で死んだ。一家を守るため、母親は朝となく昼となく夜となく働かなければならなかった。今にして思えば母親は少女のためにこそ懸命であったに違いない。女ひとりが手に出来る賃金はとても安く、不幸なことに頼りになるような身寄りとてなかった。しかし幼い少女にはただ母親がちっとも自分に構ってくれず、忙しく働いているとしか思えなかった。少女が訴える様々な欲求−といってそれは子供なりにごく当然の、たとえばお腹がすいたとか、眠るまで側にいて欲しいとかといった些細な要求でしかなかった−に対し、母親はあからさまに疲れ切った顔をして言った。 「お願いだから……いい子でいておくれ。黙って。母さんは疲れているんだから」 そんなやりとりが繰り返され、少女はいつからか暗黙のうちに、半ば無意識に母親の負担にならぬよう気遣いをせねばならなかった。少女は空腹に耐え、孤独に耐えた。暗闇の中ひとりで床に入り、山から聞こえるオオカミの遠吠えや、吹き抜ける風が木々を揺らす音におののきながら長い夜を幾夜も越えねばならなかった。 思い返せば、村人たちも決して手をさしのべてくれなかったわけではなかった。たとえば近所に住む老婆は自身も貧しいながら、不憫な少女にひとかけらのパンを届けてくれたりした。しかし、日々の永久に続くと思われる孤独と母親から疎まれているのではないかという極端な思いこみは、そんな親切心でさえ卑屈で陰湿な、悪意のある解釈しか少女にもたらさなかった。 「あのばあさん、たったこれっぽっちしかパンをくれやしない。なんて酷い、けちくさいばあさんだろう。私がこのパン屑をありがたがって食べるのを見て、きっと陰で笑っているに違いないわ」というように。 一旦卑屈にねじ曲げられた思いこみは、日々増幅され、熟成され、その対象を広げていった。 無邪気に遊ぶ子供らの声が聞こえてくると、 「私がこんなに寂しい思いをしているのに、誰ひとり誘いに来てもくれない。どうせ私のことをみんな嫌っているか、避けているに違いないわ。だって私は貧乏だし、もう何日も体も拭いていないから。そうしてみんなは私がいないからあんなにはしゃいでいるんだわ」 その子供らが少女を誘いに来たら来たで、 「そうやって私を誘っておいて、私のお腹がすきすぎてうまく走ったりできない様子を、みんなして笑ってやろうと思ってるに違いないわ。そんな手に乗るものですか」 と考えたりした。 彼女の成長と同時に、頭の中でいびつに解釈された世界もまた成長増幅をしていった。彼女の認識する世界は人々の悪意に満ち満ちていた。 人々の笑い声はすべて、自分に対する嘲笑としか思えなかった。何気のない眼差しは冷酷な軽蔑としか思えなかった。母親の疲れた横顔は、自分という存在を丸ごと否定している意思表示以外の何物でもないと思われた。 「母さんはきっとこう思っているに違いないわ。この子さえいなければ、私はもっとずっと幸せだったに違いないと」 そんなある日のこと、村の一角で火事がおこった。炎は見る間に家屋と家畜小屋とを飲み込み、のたうつように天高く火の粉を散らして一晩中燃え続けた。人々は遠巻きに為す術もなく立ちつくすほかなかった。もはや手の施しようがないことを誰もがわかっていたからである。ただ、家の持ち主とその家族だけが奇蹟を信じて、半狂乱で何事か叫びながら、柄杓や桶で水をかけていた。しかし高温の熱風は彼らですら近づくことを躊躇させ、その水は炎に届くことはなかった。 夜が明け、すべてが燃え尽きた後、崩れ落ちた柱からまだぶすぶすと立ち上る幾筋かの煙の中に呆然と立ちすくむ人影の姿を見たとき、少女はかつてないほどの興奮と喜びを感じた。それは思いがけない感情で、少女自身もその不思議な快感にとまどいを隠せなかった。 つい昨日まであの家族たちは楽しげに食事をし、家畜の姿に目をやり、豊かな生活に満足を感じ、そうしてあの少女の家のようにはなりたくないものだなあなどと笑っていたに違いない。それがどうだろう。今ではその何もかもが燃え尽きてしまって、私の家なんかよりもっと無様で、落ちぶれている。もはや笑うことなど出来るわけもなく、泣くことすら忘れて、表情一つ変えられやしない。 そう考えると、少女は突如笑いたい衝動にとらわれた。 少女は急いで家に駆け戻り、ひとりになるとこらえきれずに体をよじって笑った。呼吸が出来なるなるまで笑い、苦しげに深呼吸をして、また、笑った。 幸せそうなものが自分よりも惨めな境遇に一瞬にして転落すること、その時に感じられるこの上ない悦楽に少女はすっかり魅せられてしまった。それでもしばらくは、少女もその感情を胸のうちに秘めた。しかし、成長とともに歪んで発達した少女の価値観は、いつしかその感情の発露を、人前でも臆面なく披露することを許可した。 たとえば雨上がり、水たまりに足を取られて転倒した老人を見て、げらげらと指さして笑った。またあるとき、荷車が石を跳ね上げた瞬間に平衡を失って横転し、積荷の収穫物が地面一面に散乱した場面に出くわしたときは手を叩いて喜んだ。 それでもそんなうちはまだ、村人も怪訝な目で少女に不愉快な視線を向けるだけにとどまった。しかし、病気や怪我で死人がでた家の玄関先に我先に駆けつけて、泣き崩れる家族を心の底から嬉しそうに眺めだし、時にはこらえきれずに笑い声を漏らすようになって、当然の事ながら村人の怒りは爆発した。 ある夜、かねてより示し合わせていた村人たちは手に手に松明を持ち、無言のまま少女の家に向かった。ざくざくと夜道を駆ける人々の歩調にあわせて、ゆらめく炎が怒りに満ち満ちた村人ひとりひとりの顔を不気味にうつしだしていた。 少女の家の前につくと、村人のひとりが少女の家の薄い扉を躊躇なく一撃で蹴破った。 後に続いて幾人かの屈強な村人が広くもない少女の部屋に押し入り、突然のことで茫然自失としている母親と少女とを外に引きずり出した。 村人たちは二人を取り囲むと、口々に罵詈雑言を浴びせかけた。 一言一言は聞き取れなかったが、その端々に「魔女」とか「死んでしまえ」といった言葉が含まれていることはわかった。呆然と座り込んでいる少女の傍らで、母親が泣き叫びながらしきりと詫びている姿が見てとれた。おそらく母親には何のことだか理解できていないに違いない。しかし、この異様な空気と恐怖から逃れたい一心で、まず何であれ詫びずにはいられなったのだろう。 村人から石を投げつけられ、幾たびもこづかれ引っ張り回されながらも、少女は自分を愛してくれなかった母親がぼろきれのように扱われ、泣き叫ぶ様を小気味よく思った。同時に、自分をいわれもなく−少女はそう信じていた。母親は仕方がない、だって自分を愛してくれなかったのだから−虐待する村人たちを心の底から怨み、呪った。 少女の家に火が放たれた。 「失せろ! この村から出ていけ!」 誰かが言い、興奮状態の人々は口々に同じような言葉を叫んだ。 小さな家は瞬く間に燃え上がり、母親の絶叫に応えるかのように屋根が崩れ落ちたとき人々は歓声を上げて喜んだ。 「死のうか……」 村人たちが引き上げた後、朝焼けの中しばらく黙り込んでいた母親が、力無く言った。 「もうこの村にはいられないし、お金もない。行くあてもない。ね、死のうか」 焦点の定まらない眼差しで、母親は少女を見、小さく微笑んだ。その表情はすべてに疲れきった先にたどり着いた達観の境地のようにも見えた。 「どうして死ぬなんていうの?」少女は嘲笑をこめて母親に言い放った。 「死ぬなら母さんだけ勝手に死ぬがいいわ。私は、死なない。こんなひどい目にあって、なんだって死ななきゃいけないの? こんなことをした連中にたっぷり復讐しなけりゃ、死んでも死にきれないじゃないの」 母親は思いがけない娘の反応におどろいた様子だった。目の前の娘は、母親の知る我が子ではなかった。 「復讐なんて、勝手に死ねだなんて、お前はなんという恐ろしい言葉を使うようになったんだね」 「驚いた? 母さんは私のことなんかちっとも知りゃしないでしょうね。私は母さんがすっかり放置してくれたおかげで、自分で物を考えることを覚えたのよ。人間のずるさも、醜さも、したたかさも、すっかり自分で理解したのよ。母さんの知らないうちにね。そうしてわかった。人生なんて、とってもくだらないものだって。がんばったって、がんばらなくったって、報われる人間は報われるし、そうでない人間は何をやったって駄目だってことも。どんだけ努力しても、まじめに生きていても、どこかの悪党がその人間の家に火をつけたら、その家は燃えるの。いい? 善人だろうが悪人だろうが、不幸はお構いなしに降り注ぐってこと。ならがんばらないほうがいいでしょう? それどころか、なまじ善人でいると、どういうわけか悪人に狙われるってこともわかった。そうして根こそぎかすめとられるのよ。みんな私のことを心がないとか、人の痛みのわからない奴とか、散々に罵った。私が道端に無様に転がる人間を笑ったときにね。でも、そういって眉をひそめる人間の陰に隠れて、その何倍もの人間が、私と同じように笑っていたのを私は知ってる。泥まみれになってひっくりかえった人に手を差し伸べる人間より、指差して笑う人間のほうが本当は何倍も何倍も多いの。人が死んだときもそう。私はすっかりわかったの。見えてしまったの。死んだ人間を悼んでいる人なんて本当に数えるほど。ほとんどの人間は付き合いで葬式に来ているか、本当に死んでいるか確かめに来てるの。少し前に自分で首を吊って死んだおじいさんがいたの覚えてる? 靴屋の。母さんは仕事仕事で忙しくって、覚えてやしないでしょうね? とっても腕のいいおじいさんだった。少なくとも何の害もないおじいさんだった。そのおじいさんが悪い男にだまされて、何年もかかって貯めたお金をごっそり騙し取られた。そのとたん、みんなは寄ってたかって靴の材料の代金をすぐに払うようにっておじいさんの家に詰め掛けた。それまでは靴が売れたらその後でいいよなんて気安く言っていたくせに、おじいさんの懐具合が怪しいとなるとみんな我先に手のひらを返した。おじいさんは何度も何度も頭を下げて、今はお金がないから、いくつかの靴を仕上げるまで待ってほしいって言った。みっともなかったわ。虫みたいに這いつくばってお願いしたんだから。でも、誰もわかったといわなかった。そんなこと言ったら自分だけ取りっぱぐれちまうって、取立てに来た一人が教えてくれたわ。結局、おじいさんの願いは聞き入れられないで、お金が無いならって言って、靴を作る道具も、作りかけの靴も、みんながばらばらに持っていってしまった。靴を作ることしかできないおじいさんが、靴を作る道具をそっくり取り上げられて、その後にできることといったら? そう。それで次の朝には、ぶらーんよ。ところが、葬式には村中のみんなが集まった。しかも泣いてるの。そして口々に言うことには「本当にいい人だった」「あんなに腕のいい職人はいなかった」「そんなに困っているなら一言相談してくれたなら」「ここまで思いつめてたとは思いも寄らなかった」そんなことばっかり。しかも、葬式が終わって、まだおじいさんの魂がそこいらに漂っているそのうちに、さっきまで自分の非力を嘆いていた人間がケロリとした顔で話し合ってるのよ。おじいさんの家から分捕って行った道具の価値や値段についてさ。そうしてやれ損しただの得しただのって言い合ってるのよ。私はびっくりした。もう何も信じるまいって思った。そうして誓った。こんな連中のために心を痛めたり、同情したり、哀れんだり絶対にするものかってね。ましてやこんな連中にへらへら笑いかけたり、仲のいいふりをしたりするのはまっぴらだって。だから私は死なない。わたしはこのまま死んだりなんかしない。私は幸せな人間を不幸にする。それを生き甲斐にする。おじいさんみたいに殺されるのはまっぴら!」
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