さて。 人々の喜びに満ち満ちて、日増しに明るさを増すこの国の空気をただひとり面白く思わない者がいた。ほかならぬ、王女に呪いをかけた魔女だった。 「ええい、何といまいましい!」 森の奥深く、蔦と苔に覆われた朽木作りの魔女の館の、日の当たらぬ薄暗い部屋の中で魔法の鏡を見入りながら魔女は地団駄を踏んで悔しがった。 鏡は民衆に囲まれてにこやかに笑う王様の姿を映し出していた。 「あの王から娘を取り上げ、一生涙に暮れさせてやろうとかけた呪いだのに、あいつめはむしろ今までよりも生き生きとして喜びに満ちあふれてるわい。それどころか国全体が晴れやかでにこやかで活気づいておる! おのれ、どうしてくれようか、どうしてくれようか!」 魔女は曲がった鼻から苛立たしく鼻息を吹き出した。 「こうなったからにはわしの全魔力を使って国中を漆黒の闇にしてくれよう。やむことのない炎の雨を降らせてやろう。わしの力を思い知るがいい。そうとなったら早速準備を始めねば」 魔女は本棚の一番上の段で埃をかぶっている恐ろしく分厚い『大魔術辞典』の中から『悪魔も逃げ出す大魔術』の項を開いて、長く黒いひん曲がった爪でその頁をなぞった。 「準備する物、干からびた大トカゲの尻尾三十本、満月の夜に生まれた山羊の生き肝三つ、それから……、竜の軟骨に樹齢四百年以上の樫の木の新芽に」 その時、崩れ落ちそうな魔女の家の、薄汚れた玄関の扉を叩く者があった。 「森の魔女とやらはおいでかの?」 おびえた様子もなく、かしこまった様子もなく、その声は努めて穏やかでありながらずっしりとした重みのようなものを備えていた。 「ええい誰じゃい! わしは今忙しいんじゃ」 魔女は本から目をそらさず、吐き捨てるように言った。 「それから賢者の持つ杖を燃やした灰……、これは手に入れるのがちょいと難しいのう」 また扉の向こうから声がした。 「誰じゃいと言われてもな、まあ、森と街の重なり合うところに住む老人といえばよいかな」 「森と街の間に住む老人……じゃと?」 一拍おいた後、魔女は驚いた様子で扉に顔を向けた。 「とすると、お前は賢者か?」 「うむ、まあ、そう呼ぶ者もおるわい」 なんという強運! 魔女は胸の奥で小躍りした。賢者の杖が向こうからやってきたわい。 魔女は大魔法辞典を床に投げ捨てると、急いで玄関に駆け寄り、恐ろしく建てつけの悪い扉を開けた。 扉の向こうに現れた老人は、いびつに曲がった杖とそれに絡まるように腰まで伸びた真っ白な髭を持っていた。幾筋もの皺が刻まれた表情はおだやかで口元にかすかに優しさをたたえながら、その反面瞳の輝きははっと息をのむような冷徹さで澄みきっていた。それらは噂に聞く賢者としての充分な威厳と貫禄を無言のうちに漂わせていた。 「賢者がわざわざ何の用じゃい」 賢者の漂わせる言葉に出来ない高貴な空気にいささかたじろぎながら魔女は言った。 「こんなところまでのこのこあらわれよって」 「こんなところ? なるほどまったくじゃ。何もこんな森の奥深くに住まずとも、森を出て皆と共に交わりながら暮らせばよいものを」 賢者はそういいながら、お構いなしに魔女の家に足を踏み入れた。 「ふん! 人嫌いで有名だったお前が言うことか」 魔女は賢者の背中に向かって小石を投げるように言った。 「はは、そりゃもっともじゃな」 賢者は魔女の家の中を見渡しながら軽やかに笑った。 「でも、案外人と交わるというのも悪くはないものだぞ。ほれ、見てみるがいい」 杖の先で魔法の鏡に映し出されている王様と人々の喜びに湧く光景を指しながら、賢者は言った。 「あれほどまでに王が笑う顔を見たことがあるか? 人々の王に寄せる心から信頼と尊敬が見えはせぬか? 貧しい者も富める者も皆それぞれがそれぞれの領分を持ち寄り分け合いしておる様は美しいとは思わんか」 「思わぬ!」 魔女はずかずかと魔法の鏡の前に歩み寄ると、賢者の杖をはねのけて立ちはだかった。 「何が美しい? はは、馬鹿馬鹿しい。それぞれの領分を持ち寄り分け合いじゃと?そんなものはみな嘘っぱちに決まっておるわい。みな己のことで精一杯じゃ。隙あらばかすめ取り、陥れ、蔑む。暇があれば妬み、羨み、罵る。他人が泥にまみれる様を気遣うふりをして笑い、高みに昇る様を讃えながらどうにか梯子を蹴飛ばせないかと思案する。それこそが人間というものじゃ。他人が絶望と落胆の中でおろおろと無様にうろたえのたうち回る様を見るのが人間にとっては何より至福の時じゃ。ましてやそれがあの王のように傲慢で腹黒く無慈悲である者であればなおのことじゃ」 「それで姫をカエルなんぞにしたというわけか」 賢者は悲しげに魔女を見つめた。 「確かにお前のいう事には多少なりとも理解はしよう。皆が皆善人ではないからな。しかしそんなことをしたところで本当にお前は満たされ、安らかな気持ちになれるのか」 「ああ、なれるとも! わしよりも美しい者、富める者、健やかなる者、陽気な者、そいつらが墜ちていく様を眺めれば、わしの心は満たされる。夜もぐっすり眠れるというものじゃ」 「しかしその調子ではお前の羨望の種はどうやら永久につきることがないのではないか」 「せ、羨望だと?」 魔女はムキになって言った。 「羨望と言ったか賢者よ。わしはそんな気持ちなどもってはおらんわい!」 「いいや、お前のその感情が羨望でなくてなんであろう。お前は自らも富みたい、健やかでありたい、いやもっと単純に腹の底から笑いたい、あの人々の輪に加わって交わりたいと思っているのではないかな」 「なにを!」と言いかけた魔女を毅然と制し、賢者は続けた。 「しかしお前はそのための努力を怠った。おまえはいつも逃げ回っておる。そうしていつか誰かが輪に加わりませんかと誘いに来るのをただ待っている。自らの足で山を下り、輪に飛び込もうとはせず、ただうらやましそうに遠くから眺めているばかりじゃないのか。自分の方から飛び込むことをせずにどうして他人が手をさしのべようか。自分で食べ物を得ようとはせずに、そのくせ汗を流して収穫した作物をほおばる隣人に、どうして自分には分け与えないのかと腹を立てる筋合いがあろうか。惨めな自分の境遇を誰よりも惨めに感じているからこそ、他人をもまた自らの境遇にまで引きずり落とそうとする。そんなことをすればまた更に己自身が惨めになるということを、どうしてお前ほどの者がわからんのか」 魔女は賢者の言葉を聞きながら、凍りついたように動かなかった。ただ、最後の「お前ほどの者」という言葉を聞いたとき、ほんの少し、それは当人以外にはわからぬほどかすかに、その顔色の悪い頬を赤らめた。 「わしほどの者……」 魔女は呟くように言った。賢者は緊張を解き、しばらくの沈黙の後、穏やかに言った。 「そうとも。お前は自分の力を過信し、かつ貶めている。お前の魔術は使いようによってどれほど人々の役に立つであろう。お前が本気になれば荒れ地を豊穣な大地に変えることも出来よう。枯れた砂漠に雨を降らすこともできるかも知れぬ。そうすればお前は人々から感謝され、人々はお前を心から仲間として迎えるに違いない。姫をカエルに変えてしまうなどという馬鹿げたことにお前の力を使うより、その方がよほど正しい道というものだ」 賢者は言った。そうして魔女の手を取ると、にこやかな笑顔を浮かべ、 「まあ焦らず、まずわしとゆっくり話をせぬか。そこから始めようではないか。なあに、これもよい機会じゃ。わしはこれから折を見てここにやってくることにする。いろいろな話をしよう。ゆっくりとな」
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