一方、気を失った魔女は場内の客間に横たわったまま、ずっと眠り続けていた。 傍らに賢者が付き添い、優しく額をなでたり、心配そうに手を握ったりした。魔女はおだやかな表情のまま、深く深く寝入っていた。規則的で、穏やかな寝息だけが、淡々と繰り返された。 賢者はこの数日、驚きをもって魔女の寝姿に見入らずに入られなかった。 魔女の容姿は明らかな変化を遂げていたのである。 鼻から、まずいぼが消えた。垂れ下がっていたその鼻自体の形もスッキリと整ったものに変わっていった。かさかさに乾いていた頬には張りと赤みがよみがえり、いまでは艶やかな潤いさえたたえていた。唇もひび割れが消えてしっとりと赤みがかっていた。時折覗く歯も白さと輝きを取り戻し、釣り針のように曲がっていたはずの腰も今では新品のスプーンの柄のようにやわらかな曲線を取り戻していた。 首筋や指先から皺は消え、鏡のように美しい爪は魔女ではなく、若い娘の生命力そのものの神々しささえ漂わせた。 「今までの鬱積した憎しみや苦しみが、これほどまでにこの女の容姿を無惨に変えていたのか……」 賢者はそう考えると、魔女と呼ばれた女の本来の美しさに息を呑むと共に、彼女が背負い続けていた哀しみを思って顔をしかめた。 「辛かったのだろう。でも、お前さんはやっと本当の自分に戻ることが出来たのだ」 賢者はそっと魔女と呼ばれた女の、艶やかで絹糸のような髪の毛を撫でた。
王様は広場の真ん中に立ち、固唾を呑んでその時を待っていた。 まさに今この瞬間、王様が心待ちにしてきた{花}がゆっくりと花びらを開ききろうとしていた。 柵のまわりには幾重にも人垣が出来て、皆一様にじっと王様の花を見つめていた。 「どうにも、こうやってじっと待ってると息が詰まりそうだ……」 文字通り呼吸を忘れて待ちわびている人々の声を代表するように、人垣の後ろの方で一人の少年が呟いたまさにその時、突如地鳴りのような大歓声と拍手が沸き起こった。それは津波のように人垣から人垣に伝わり、やがて混ざり合って爆発的な歓喜の声に変わった。 「王様ばんざあい!」 少年はまわりにいたすべての人たちに握手と抱擁を求められた。いたるところで人々が溶け合うように抱き合い、肩をたたき合っていた。 「咲いたんですか? 咲いたんですか!」 興奮して飛び回っている男をつかまえて、少年は喘ぐように聞いた。 「咲いたぞ! ついに王様の花が咲いたんだ!」 少年ははじけるような笑顔を浮かべると、すぐさま人垣の中に飛び込んだ。人という人をかき分け、すり抜け、少年はもみくちゃにされながら王様の柵に取りすがった。 「咲いた!」 少年の目に、膝を折って身をかがめている王様の姿と、その先に真っ白な一輪の花が飛び込んできた。 その花はごく小さく、可憐で、頼りなげに咲いていた。しかし、その白さには一点の濁りもなく、また滲むような輝きさえ放っていた。 「あ……、あれが、世界でいちばん美しい……、花」 少年はなお柵に取りすがり、後ろから興奮した人々が押し寄せるたびに顔をゆがめながら呟いた。 やがて、王様がゆっくりと立ち上がった。王様は歓喜に打ち震える人々の間を縫って祭壇に歩み寄ると、その壇上に毅然と立ってあらためて民衆の祝福を全身に浴びた。 「わしは……」 民衆の感性がざわめきに変わるのを待って、王様はゆっくりと口を開いた。民衆のざわめきはやがてさざ波になり、そのうち凪のように静まり返った。 「わしはかつて財宝を愛し、地位を愛し、名誉を愛した。そうして何より自分自身を愛した。カエルになった姫を憎み、魔女を憎み、自分自身の不幸を哀れんだ。わしの不幸につけ込もうとする者達、その者達の醜い心の内を見た。醜悪な人間を呼び寄せるのはわし自身が醜悪であるが故と気がつかぬまま、わしは我が身の不幸を呪うことしかできなかった。やがて、魔女の呪いを解くという種を得、わしは皆の者に助けられ、教えられ、励まされてこの種を育てることが出来た。皆と共に汗を流し、笑い、働く喜びを知ることが出来た。わし一人の力ではとてもこの花を咲かせることは出来なかった。わしは今、みなに伝えねばならぬことがある。今、ついにわしの種は花をつけた。白い、小さな花じゃ。わしの全財宝の輝きもこの花の白さには及ばない。この花はわしと、皆の者とで咲かせた花じゃ。この花こそ、誰が何といおうが、世界でいちばん美しい花に間違いない! ありがとう! 汗する喜びを! ありがとう! 金よりも尊い物を得た喜びを! ありがとう! 共に信じあう喜びを! ありがとう!」 王様の言葉は、民衆の土砂降りのような拍手に迎えられた。 「ありがとうございます! 王様!」 誰いうとなく、そんな声がわき上がり、それはやがて大合唱となって広場全体を包み込んだ。 「ありがとうございます! 王様!」 王様はちぎれんばかりに手を振り、幾度も頭を下げ、そうして知らぬ間に泣きだしていた。今、王様の全身は貫かれたような感動にただひたすら打ち震えていた。誰もが互いに互いを褒め称え、感謝し、抱擁したり踊ったりした。 と、その時、王様の肩をそっと抱く者がいた。 王様が振り返ると、そこにはもう再び見ることは叶わないと半ば諦めかけていた美しい姫が、記憶のままの姿で微笑んでいた。 「お父様、私、私」 その先は声にならなかった。 王様は姫の体を強く強く抱きしめた。 「おお、姫よ、またお前のその歌声が聞けようとは! その姿を抱きしめられようとは! よく見せておくれ、お前のその顔を。ああ、まさしくわしのかわいい姫じゃ」 王様はそこまで言ってから、姫の後ろに見慣れぬ青年が何か言いたげに立っていることに気がついた。王様は青年に歩み寄ると、その肩を抱き、満面の笑顔のままで顔を近づけると耳元でそっと呟いた。 「お前はあのカエルだった者だな。すっかりお前のおかげじゃ。ほんとうにありがとう。だが、娘はお前には断じて嫁がせぬぞ、王子殿」 青年はぎょっとして王様の顔を見た。 王様は軽やかにその場を離れ、声を上げた。 「賢者を! そうしてかねて魔女と呼ばれた我らの恩人を!」
城の中で遠くかすかに聞こえてくる歓声を聞きながら、以前魔女と呼ばれた女はゆっくりと目を開けた。 「おお、気がついたか」 賢者はその手を両手でしっかりと握っていった。 「あの声は……。とうとう花が咲いたのですね」 以前のしわがれ声でなく、透き通った若々しい声で、女は言った。 「この声は? この声は私の声?」 「そうだとも。お前さんの本当の声じゃよ」 「なんだかすっかり体も軽いし、頭もすっきりした感じがするわ」 「ああ。お前さんは戻ってきたんじゃよ、本当の自分に」 「本当の……自分」 女はしばらく黙っていたが、思い出したように、 「姫は? 姫様は?」と聞いた。 「みんなすっかり元通りじゃ。姫も、例の王子もな。聞こえるじゃろう? あの歓喜の声が。ほら、お前さんを呼ぶ声も」 女はゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。見下ろす先には一面の花畑と、口々に歓声を上げながら踊りまわる人々の姿が見てとれた。 「さあ、我々も行こう。あの輪に加わり、共に喜びを分かち合おう。なに、案ずることはない。もはや皆、お前さんの仲間じゃ」
果たして女と賢者は万雷の拍手をもって人々に迎えられた。 魔女と呼ばれた女のあまりの変貌ぶりに王様も人々も一瞬驚きはしたものの、それは歓喜の渦に一層華やかな喝采を加えるものとなった。 王様は二人の姿を見つけると駆け寄ってきて交互にその手を握りしめた。 「ありがとう。本当にありがとう。そなた達は我らの恩人じゃ。そなた達のおかげで、わしはこうして国々の者達と本当に一つになれた。本当にありがとう。ああ、この気持ちをなんとして伝えればよいか。さあ何なりと言ってくれ。褒美は思いのまま……」 そこまで言って、王様は照れくさそうに笑って見せた。 「いやこれは、失言であった。さあ、皆の者にその顔を見せてやってくれ」 祭壇の上に、王様と姫、賢者と以前魔女であった女、そうして居心地の悪そうな王子がそろった。 「王様ばんざあい!」 「姫様! 姫様!」 「賢者様! ありがとうございまあす!」 「魔女様! うむ、魔女様ってのはどうにも具合が悪いな。何と呼んだらいいんだろう? 雨降らしの恩人様ってのもなんだか長いし。まあとにかく、ありがとう!」 「おやっ? あの隅っこできょろきょろしているのは、ありゃ前の王様の王子じゃないか? 何だってあんなところにいるんだ? 生きていたとは驚きだが、まあ生きていたことはめでたい。とにかくばんざあい」 人々は口々に喝采を送った。 いつまでもやむことなく鳴り響き続ける拍手と歓声の中で、賢者が王様の耳元に口を寄せた。 「王様、先ほどの褒美の件ですが……」 王様は手を振り、民衆の声に応えたままで答えた。 「おお、何か望みのものがあるか?」 「それが申し上げにくいのですが……」 そこではじめて、王様は賢者に向き直った。 「何じゃ? あらたまって」 「はあ……。あの、魔女だった女が、このわしをどう思っているか、それとなく聞き出してはもらえませぬか。つまり、好いておるかどうかを。どうにも、私めはそういう類のことが苦手でして」 王様の顔がなお一層華やかに破顔した。 「なるほど! たしかにお主はその類が苦手と見える。そんなことは聞かなくてもほら、振り返ってみるがいい。先ほどからずっとお主を見つめているあの女の目つきが何よりの証拠じゃ!」 賢者ははっとして振り返り、そして、赤面した。
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