なんとか逃げおおせた少女は、そのままいくつもの山を越えた。 幾年も誰とも言葉を交わさず、森の中でじっと息をひそめた。 鬱蒼とした木々から漏れる光も、風が梢を揺らす音も、渓流のたおやかで繊細な水音も、少女の心を癒さなかった。 少女はむしろ夜の森を好んだ。 果てしもなく続く暗闇のどこからとなく聞こえる獣たちの遠吠えと、意志を持っているかのように風を受けてざわつく木々の擦れ合う音の中に身を置き、その孤独と恐怖を人々への怨みという形で自分の中に吸収した。 少女は旅を続けた。 またいくつもの山を、森を越えた。 ある時、まさか人がいようとは思われないほどの森の奥底で、少女は思いがけず一軒の廃屋にたどり着いた。幾重にも生い茂った大木の枝のせいで日も射さず、屋根まで蔦が絡まり、壁と地面の境目は一面苔むしていて、さすがの少女も少し気後れするだけの不気味さを漂わせながら、その廃屋は崩れ落ちそうになりながらもようやく建っているといった風だった。 少女はおずおずとその廃屋に近づいた。引き寄せられたといっても良かった。その証拠に、少女があるところまで近づくと、ずっと少女を待っていたかの様に音もなく、廃屋の扉が開いた。 少女は勇気を奮い起こして、開け放たれた玄関先から廃屋の中を覗き込んだ。 廃屋の中は薄暗く、生き物の気配はまるでなかった。ただ驚くほど整然と、部屋の中は整理されていた。壁一面に天井まで届く大きな棚があり、そこにはぎっしりと数え切れないほどの本が詰め込まれていた。部屋の真ん中には古びた一枚板のテーブルが置かれていて、その上に一冊の本と、細やかな作りの燭台が置かれていた。 少女は廃屋の中に足を踏み入れた。明らかに異質な、ひんやりとした空気が、少女の足をすくませた。 少女は声を出して、誰かいないのかと問いかけてみた。声を出すこと自体がずいぶんと久しぶりのことのように思えた。自分の声が自分のものでないような変な感覚を覚えながら、少女はもう一度、部屋の中に問いかけた。 「だれか、いますか」 その声に答えるものはなく、ただ、風もないのにテーブルの上の本がぱらぱらとめくれた。と同時に燭台に灯がともった。 少女は驚きと恐怖で立ちすくんだ。しかし、同時にこの廃屋に妙な好奇心と居心地の良さを感じている自分に気がついた。少女は意を決してまた一歩、部屋の中に身を進めた。その後は迷わなかった。少女はテーブルの上の本に駆け寄った。 [お前を待っていた] 黄ばんだ頁の上に、ぼんやりと言葉が浮かび上がっていた。 「私を?」 少女が思わず口を開くと、また本の頁がぱらぱらと勝手にめくれ、滲むように文字が浮かび上がった。 [お前にすべてを授けよう] 「私を知っているの?」 [お前を知っている] 「あなたは誰?」 [お前の願いを聞き届ける者] 少女が何かを問いかけるたび、頁はぱらぱらとめくれ、開かれた頁に文字が浮かび上がった。 「私の願い?」 [ここにある本は、お前のためのもの。お前の願いを叶えるためのもの] 少女はその文字を読むと、本棚に駆け寄り、背表紙に目をやった。 それはあまりといえばあまりに膨大な書籍の量だった。あらゆる知識を習得するためのあらゆる分野のあらゆる言語で書かれた書籍がそこにはあった。実に不思議なことに、少女はその様々な言語で書かれているはずの背表紙をすべて読みとることが出来た。読んで理解するというのではなく、直接感じるという感覚に近かった。その膨大な書籍群の中でとりわけ少女の目を引いたのは、本棚の一画にずらりと並んでいる「魔法・魔術・まじない」関連の書籍の山だった。 突如、少女はすっかり理解した。 この本の山、この廃屋の存在自体に意味はない。ただ、自分は導かれるべくしてこの場所に導かれた。何かとても大きな力が、私の願いを叶えようとしてくれている。それが何であるか、何者の仕業であるかを知ろうとすることはあまり賢明なことではない。ただ、私はこの膨大な書物を読みこなすことで、胸に誓った復讐の二文字を現実のものにすることが出来る。それだけは確信できた。 当然のことながら、少女はまず一冊の魔法の本を開いてみた。しかしその内容を把握し、実践するにはあまりに知識が不足していることを、少女はすぐさま思い知らされる羽目になった。なにしろそれらの書物は冒頭から、まるで少女が目を通すのを拒むかのようにとてつもなく難解な内容であったのだ。少女はやむなく広範な知識の習得を優先することにした。 ともあれ、少女は没頭した。 空腹も、睡眠も忘れて、来る日も来る日も本に埋もれるように片っ端から貪り読んだ。 様々な知識が、荒れ地に降る雨のように吸収された。薬学、博物学、生物学、天文学、ありとあらゆる知識がそれぞれ幾重にも折り重なり、浸透し、蓄積された。 時折我に返り、柄にもなく孤独を覚えたときには、例の不思議な本と会話をした。本はいつでもどんなときにでも少女につきあってくれた。時に慰め、時に励まし、時に少女の決意を煽り立てた。 どのくらいの時が過ぎたろう。 もはや碩学の大家といってよいだけの充分な知識を獲得した時、かつて少女だったはずの顔は見る影もなく醜い皺が刻まれ、鼻はいびつに曲がり、先端には大きなほくろが出来ていた。腰は釣り針のように曲がり、歯の多くは抜け落ちて、わずかながら残っている幾本かも黒ずんで半ば腐っていた。 もはや少女ではなく、長年の怨念が醜い容姿と共に実体化して「魔女」と化した彼女は、しわがれた声で本に語りかけた。 「さあて、そろそろ魔術の本を紐解けるじゃろう? もう、よいじゃろう」 彼女の声に応えて、いつものように頁がめくられた。 燭台の炎が、いつになく怪しく瞬いた。 [お前はそれを我が物にすることが出来る] 本は静かにそう告げた。その次の瞬間、燭台の火が跳ね飛び、本の上にぽとりと落ちた。本は音もなく燃え上がり、灰の一すくいも残さず焼け落ちた。 魔女と成り果てた、かつて少女だった女は、ゆっくりと魔法の本を手に取った。かすかに震える指先で開いてみると、さまざまな呪文、呪術、妖術の限りが事細かに記載されており、同時にそれらを実践する方法を、そのために必要な知識のあまねくすべてをすっかり会得していることを確信し、喜んだ。 もはやこの場所を旅立つ時が来たことを、魔女は悟った。ここを出て、山を下り、積年の悲願を実行に移す時が来たのだと。 魔女は魔法の本をめくり、ある頁に目をとめると、口の中でもごもごと何事かをつぶやいた。と、瞬時に今まで彼女を取り囲んでいた膨大な書物がほんの一握りの小石に姿を変えた。魔女はその砂粒をちいさな袋に移し替えると、また何事か呪文のようなものをつぶやいた。すると、廃屋を覆い隠していた大木のひとつが杖となって魔女の手に握られた。 魔女は満足げに笑った。それは魔女の姿にふさわしく、引きつったような、醜悪な笑い声だった。 魔女は森の中を歩いた。魔女の心は浮き立っていた。 三日、いや四日ほど山中を歩いたところで、ちいさな小川が目の前に現れた。魔女はそこで一服することに決め、腰を下ろして懐から小石を一粒取り出すと、ふっと息を吹きかけた。すると見る間に小石は魔法の本に姿を変えた。魔女はおもむくまま頁をめくった。試してみたい魔法がいくつもあった。 その時、小川の向こうの茂みが不自然にざわついた。魔女はそれを、獣だと思って身構えた。しかし、茂みをかき分けてひょっこり顔を出したのは、若い人間の男だった。男と魔女はこんな山中で思いがけず人間に出くわした驚きで、お互いが同時にあっと声を上げた。 「まさかこんなところで人に会うとは」 男が口を開いた。 魔女はしげしげと男を観察した。狩りにでも来て迷い込んだのだろうということは察しがついた。男の手には立派な弓が握られていたし、ウサギが二羽、腰からぶら下がってもいた。一見してかなりの身分の者だろうと思われた。身に着けている狩猟用の服装は華美ではなかったが、魔女でさえその仕立ての良さは一目でわかった。 「いったいなんだってこんなところに人間がいるんだ?」 男は魔女の返答を待たず、話を続けた。 「ばあさん、このあたりに立派な牡鹿がやってはこなかったかな? 追い立てるうち、すっかり連れの者とはぐれてしまったようだ」 「さあ、見なかったねえ。ところであんたは誰かね」 魔女はいぶかしげに問いかけた。 「俺か? 俺のことを知らないか? とすると、お前はこの国の者ではないな。俺はこの山から南一帯を治める王国の王子だ」 「王子だって?」 魔女の澱んだ瞳が鈍く光った。 「とすると、毎日ずいぶんと楽しく暮らしているんだろうねえ」 「ははは、皆はそう思うかもしれないが、そうでもない。毎日退屈でたまらん。だから時折、暇をもてあましてこうして狩りにでも出かける。まあ、これほど山奥深くにまで足を踏み入れることはめったにないのだが」 「ほう、退屈かね」 「ああ。毎日毎日同じことの繰り返しだ。朝から美食の限りを尽くし、連日のように舞踏会に顔を出し、酒を飲み、踊り明かす。ただそれだけのことだ。こんな話を聞けば、誰もが羨むかも知れんが、毎日同じことを延々繰り返していれば、いい加減にうんざりもしてくる」 「とすると王子をやめたいと思ったこともあるかね」 魔女は知らず知らず身を乗り出すようにして聞いた。 「おかしなことを聞く奴だな。うむ。まあ、そうだな、ときどきふとそんなことを思うときもあるな。王子というものはいずれ王になる。それが定めだからな。自分の意思ではない決め事で自分の行く末がすでに定められているというのは、なんともいえぬ寂しさをよびおこすことがある。たとえそれが王という立場であってもな」 王子はそう言うと、思いがけず話しすぎてしまったというように少し顔を赤らめ、それを押し隠すように話題を変えようとした。 「ところでお前は誰だ。どうしてこんな山奥にいる?」 魔女はその問いかけに薄ら笑いで応え、持っていた魔法の本をめくると、かねてからやってみたかった魔法のひとつを試してみることにした。 「おい、答えないか」 そういいながら小川を渡って魔女のいる岸辺に向かってこようとする王子に、魔女はとっさに呪文を唱え、杖を振った。 次の瞬間、王子の姿は煙のように掻き消えた。代わりに、魔女の足元で一匹のカエルが跳ね飛んだ。 「あ、何というゲコ、ゲコゲコ」 カエルは醜く呻くようにいった。 「どうなってゲコ、ゲコ、俺様に何をした」 「なんと、失敗したか。どうやら初めてのことで十分に魔法がかからなかったと見える。姿かたちは見事にカエルじゃが、言葉を話しおる」 魔女は舌打ちをしたが、その表情は満足げだった。 「なんにせよ、もうこれでお前は舞踏会に出かけることもできまいな」 「おのれ、おまえは魔女だな! ゲロッ 許さん! 早くもとの姿に戻さんか!」 カエルになった王子はそう叫びながらも、もはやぴょこぴょこ飛び跳ねる以外になすすべが無かった。魔女はわけ無くそのカエルになった王子を捕まえると、乱暴に懐に押し込んだ。 「まあ、そのうち別の魔法の薬を作るときに鍋にでも放り込んで煮込んでやるわい。それまでわしの慰み者として連れて行くことにしよう」
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