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作品名:世界で一番きれいな花の種 作者:安賀宇久雄

第10回   10
 少女の中で、何かが確実に変化していったことは確かだった。
 少女は自ら生活の糧を得ようと考え、町中の店屋に飛び込んで働かせて欲しいと懇願した。薄汚く異臭さえ放つ少女に、多くの店主が顔をしかめたり、罵詈雑言を吐いて追い払ったりした。しかし、少女はそんな屈辱にいちいち落ち込むことはなかった。ただ何とかして職を得ようと懸命に頭を下げ続けた。
 そのうち一軒の飲み屋が少女に仕事を与えてくれた。でっぷりと太った飲み屋の女店主は、雑巾のように薄汚れた少女を見下ろしながら、
「いいだろう。じゃあ早速今日から働いてもらうよ。ただ、すぐに店に出させるわけには行かない。あんたはまず奥の作業場で水くみと皿洗いをやるがいい。そこで働きぶりを見極めさせてもらうさ」
 少女は何でもやりますと何度も頭を下げ、女主人の手を取って礼を言った。女主人はその手をふりほどくようにして、
「それにしても汚らしい身なりだねえ、さっさと奥の作業場に行きな。まず井戸の水でその体を洗いなよ」と言った。
 仕事を得た少女は、ただひたすらに働いた。朝早くから冷たい水に手を浸し、掃除やら皿洗いやらに打ち込んだ。青年と会える時間は当然のことながら減った。それでも生きるために、いつか青年が大芸術家になる日のために、それは当然我慢しなければならないことなのだと、少女は冷え切った両手をすりあわせながら自分に言い聞かせた。
 週末になると、少女は青年が現れるのを朝早くから待ち続けた。
 青年はそれでもきまって、やはり昼過ぎに現れた。そうして大言壮語ととりとめのない雑談に終始し、夕刻になるといそいそと帰って行った。
 肝心の少女の絵は遅々として進まなかった。
「ねえ、今日も描かないの?」
 ある時少女が尋ねてみると、
「なんというか降りてこないんだ。体を貫くような創作意欲が。無理矢理ぺたぺた絵の具を塗りたくればいいってものじゃないからね。僕ほどの芸術家はね、想像できないくらいに繊細で、過敏なんだよ。なあに、心配しなくてもちゃんと描きあげる。それも世紀の大傑作をね。未来永劫見るものの心を捉えて放さぬ名画というものはその生まれる過程もまた難産なんだよ。だから僕はその時を待ってる。じっと待ってる。稲妻のような閃きを、鬼神のような衝動を」
「そうなの……大芸術家って言うのは本当に難しいのね」
 少女はそういうものなのかと納得をした。
「ところで……私も働くようになって、あんまり逢えないでしょう? だからせっかくのお休みの時はもう少し早く家に来てはもらえない? そうすればもっとたくさんいろんなお話ができると思うの」
「うむ。僕だってそうしたいのは山々なんだ。でも、こう見えて僕もずいぶんと忙しいし、何と行っても道すがらのいろんな物が僕の興味をそそるから、歩く速度もとてものろのろとしてしまうんだよ。僕は芸術家だって言っただろう? 僕のやることは他の人間とは違う。ある時は奇妙にさえ映るらしい。でも、君はそれをすっかり受け入れて納得してくれたんじゃないのかい?」
「そうね……ごめんなさい。でもほんの少しでいいから、早く逢いたいわ」
「わかった。極力努力する」
 青年は何度もそう約束しながら、やはり昼過ぎに現れる習慣を改めようとはしなかった。
 一方、飲み屋での少女の働きぶりは、女主人にしだいに認められるようになっていった。時折井戸水で体を洗わせてもらえたから、少女の顔はもうずいぶんとこざっぱりとしていた。一着しかない着たきりの服から漂う異臭を何とかすれば、これは看板娘になるかも知れないと、女主人は考えた。
 女主人は一着の真新しい服を少女に買い与え、これを着て次の休み明けから店に出るようにと告げた。そうすりゃあんたの給金もずっと弾んであげるからねとつけ加えて。
 少女はもういつ以来のことか忘れるくらいに久しぶりの真新しい服にすっかり有頂天になって、早速その服を着て青年に報告した。
 ああ、なんて綺麗な服! と青年は感激してくれるはずだった。抱きしめてくれるはずだった。しかし、実際の反応は少女の想像とは違っていた。
「店に出るだって? 何てことだ! まったく何てことだ! 君が働いているところがどんなところか君は知っていて、それでもそんなに無邪気に喜んでいるのか? 君が働いているところは飲み屋なんだよ、酔っ払いの男たちがぞろぞろやってくる。そんな連中に君はニコニコ笑って酒をついでまわるって言うのかい? それがそんなにうれしいことなのかい? 僕というものがありながら、君は他の男たちに囲まれて、平気な顔をして笑えるって言うわけだ。僕がどんな気持ちでその現実を受け入れなくちゃいけないか、君には想像すらできないのか」
 青年は激しく取り乱しながら、一息にまくし立てた。
「お仕事よ。ただのお仕事。別に何の悪気もあるわけじゃないし、あなたのことを片時も忘れやしないわ」
 少女は驚き、あわててすがるような口調で弁解した。
「君は飲み屋にどれほどの誘惑や危険が潜んでいるのかを知りもしないで、そんな悠長なことを言っているんだ。連中がどんなに無作法で、いやらしくて、隙あらばと舌なめずりをしているか知らないだろう。男というものがどんな目で女を見ているか気がつきもしないだろう。でも僕は知っている。なぜならば僕も、芸術家であると同時に悲しいかな男だからだ。でも君はそれでも君は平気で連中の中に身をゆだねることができるというわけだ。だったらそうすりゃいい。僕はもう何にも言わない。僕は不愉快だよ。実に不愉快だ。底知れぬ谷底に君を愛するが故に心配でたまらないし、身が引き裂かれる思いだ。僕の繊細で可憐な精神は、君の無神経な決断のおかげですっかりちりじりだ。でも君にはそんな僕の想いなんかわかりはしないんだ。ああ! とにかくもうしばらく君とは会わないよ。君のことを考えると、僕の思考回路はすっかり停止してしまうからね。いいかい、僕は君を愛するが故に君から距離を置く。そうでもしなくちゃこのモヤモヤした感情をどうやったってうまく処理しきれないからね」
 青年は支離滅裂なことを言っているという自覚と共に、このやりきれない憤りがどこからやってくるのかを考えようとした。もちろん、少女がよこしまな気持ちで飲み屋の仕事をやろうと思っているのではないことを頭の片隅では理解した。しかし、それよりも遙かに大きな苛立ちが青年の頭脳を包み込んで、ひどく混乱させた。少女はあまりに無垢で、安直で、何の思慮深さもなく夜の世界に飛び込んでいくのだ。そのこと自体が青年には腹立たしかった。第一、そこにはどんな出会いがあるかわからない。自分よりも遙かに金持ちだったり、容姿端麗であったり、まさかとは思うが少女と相性のいい男が現れるかも知れない。そう考えると、さらに青年の心は千々に乱れた。
「心配してくれるのはわかるけれど、私には他に仕事なんてくれる人はいないの。生きていくためには仕方がない。あなたとずっと一緒にいるためには仕方がないでしょう?」
 少女のいささか怒気を含んだ言葉を青年は理性で理解し、感情で反発した。同時にこれ以上彼女を責め続けることが、どれほど少女の心の中に憎しみを育むかを考え、自分のことを器の小さい惨めな男に見せてしまうかを考えた。考えながら、それでもすっかり混乱した青年はもはや自らを制御できない状態に陥っていた。
 「だから僕はとめないよ。君の思うとおりにすればいい。僕は君を愛しているけれど、君は僕のことをそこらにいる普通の恋人達のようにしか考えていないらしいからね。僕は君のことを、とても崇高な、この世に二人といない特別な存在だと言い続けた。でも君はそんな僕の心を傷つけ、踏みにじり、それでも平然と男たちに酒をつげるんだ!」
「私だってあなたのことを愛している。誰よりも。とっても特別な存在。あなたもそうだって? とても信じられない。だってあなたはいつでもそういいながら、一度だって休みの日に私の家に朝から来てくれたことなんかないじゃないの。どうして? わたしはいつもいつもずっと朝からあなたのことだけを待ち続けているのに、何度も寂しいって言ったのに!」
 それは紛れもなく、お互いのあまりに情熱的な愛情から来るものに違いはなかった。歪んで収拾のつかなくなった愛情表現といってよかった。しかし、激しい愛情は時に過剰な要求を相手に突きつけてしまうらしかった。
「僕は芸術家なんだ! 何度も言ったじゃないか! 君は僕の感性の営みをもそっくり差し出せというのか!」
「芸術家? そんなこと言ってちっとも描かないじゃないの! 今日はそんな日じゃないとか、気分が乗らないとか、稲妻が走らないとか言い訳ばっかり!」
 一度こじれ始めた糸は、本人達の素直な感情、最も基本的な[お互いを愛していてお互いを必要としている]という大原則からどんどん逸脱し、あらゆる互いの言葉を悪意に満ちたものとして耳に届け、口から吐き出させて、結果として激しい攻撃性を伴った誰よりも深い憎悪を紡ぎだした。二人は興奮し、どうして自分がこれほどまでに愛しているのに相手はその気持ちをちっとも理解しないであんなにもとげとげしいものの言い方しかできないのかという脱力感、無力感、苛立ち、憎しみのごちゃ混ぜになった形容しがたい圧迫感に押しつぶされそうになった。
「もううんざり!」
 最後に少女が奇声のような声を上げ、このとてつもなく疲労させ、かつ永久に結論を見ない議論を打ち切った。
 青年は少女の言葉にこのときばかりは同意したようだった。青年は一言も答えずに振り返ると、そのまま少女の家から駆けだしていった。
 一人残された少女は、青年の姿がすっかり見えなくなると堰を切ったように号泣した。
 その夜、少女は一晩まんじりともせずに逡巡した。女主人にやはり皿洗いのままでいいですと言ってみようかとも考えた。そうすれば青年は戻ってきてくれるかも知れない。少女は考えた。戻ってきて欲しいの? 少女は自問したが、その答えはうまく導くことができなかった。しかし、確実なことは、今少女が知っている世界の中で、やはり青年だけが唯一の理解者であり、愛する人だということだった。少女は今まで二人で過ごした愉しい会話や時間そのものを思い出した。しかしもとの皿洗いに戻して欲しいという申し出をすることはそれでも賢明な選択とは思われなかった。給金をはずんでくれると言う言葉は魅力的だったが、それよりもむしろ、女主人の心証を害してしまうことが恐ろしかった。
 少女は混乱し、また泣いた。
 今日の青年とのやりとりだけを覚えておいて、それまでの彼との時間をすっかり忘れることが出来るなら楽なのにと思えば思うほど、思い出されるのはむしろ甘美な思いでばかりだった。
 きっと彼は戻ってこない。だって私はあんなに酷いことを言ったのだもの。そうして、私は生きて行かなくてはいけない。ひとりぼっちで。少女は無理矢理自分に言い聞かせた。
 次の休みの日、少女の予想に反して青年は少女の家に姿を現した。
 その顔つきはひどく消耗しきっているように見えた。今まで少女が知る、自信に満ちあふれていて、ひょっとするとやや傲慢にさえ見えた堂々とした態度はすっかり失われていた。
「少し話をしてもいいかな」
 おどおどとした憐れみの口調で、青年は言った。
 少女が家に招き入れると、青年はけだるそうにゆっくりと部屋の傍らに腰をかけ、大きな溜息をついた。
「僕はずっと考えた。君のことばかり考え続けてた。そうして、君のことがやっぱり好きだと気がついた。でも、君は怒っているだろうね。僕は随分酷いことを言ったから」
 青年は少女の顔をちらちら見ながらぼそぼそと囁くように言った。
「怒ってないわ。私も酷いことを言ったし、あなたを傷つけた。私、あなたがもう私のことなんか忘れてしまって、二度と逢えないと思っていたから、こうしてまた家に来てくれてうれしいわ」
「そういってくれると嬉しいな。僕は今日、君に謝ろうと思ってここに来たんだ。許されるとは思わなかったけど、でもちゃんと君に気持ちを伝えなきゃと思って」
 青年は少し勇気づけられたかのように顔を上げた。
「君が飲み屋で働くことは決して君が望んだことじゃない。君は生きるために働く。だから他の男がやってきても関係ない。君は仕事として酒をついだりするだけで、他意はない。そう思い直した。そうして、僕はやっぱり君を愛してる」
「そういってくれると、私も楽になるわ。そうよ。私はあなたのことだけ。ずっと変わらない」
 そこではじめて、二人はにっこりと笑いあった。
「ありがとう。仕事は慣れたかい?」
 青年は聞いた。その言葉には、少女から仕事に対する愚痴や不満を期待する意図が含まれていることなど、少女は知る由もなかった。
「まだうまく振る舞えないけど、随分慣れたわ。一人常連さんで面白い人がいるの。その人音楽家なんだけど、酔っぱらうと気持ちよさそうに歌うの。いろんな歌を。身振り手振りをつけてね」
 少女は青年が単純に自分の仕事に理解してくれたものとすっかり安心して話し始めた。
「へえ、音楽家か。君は芸術家が好きだもんな」
 青年はちくりとした痛みを隠して、穏やかに言った。
「その人ね、口笛もうまいの。鳥の鳴き声なんかもできるのよ。そうかと思うとどこで息継ぎしてるのかわからないくらいに長い旋律を吹いたりも出来るの」
「そりゃすごいね」
「でしょう? 一回聴かせてあげたいわ。本当に愉快なんだから」
「そうかい。他の客はどうだい?」
「みんな酔っぱらい。がやがや言って、騒いで、笑って。時々喧嘩もあるけど、その時はママさんがぴしっと一言言って納めちゃう。やっぱり一目おかれてるのね。ママってすごいわ」
「ママさんって、ああ、女主人か」
「そうよ。体格もいいけど、度胸も据わってるの。尊敬しちゃう」
「へえ、そうかい。君はよく人を尊敬するね」
 少女は、青年の顔からだんだんと表情が失われていることに、その時はじめて気がついた。
「どうしたの?」
「別に」
「だってなんだか今日は私ばかり話してる」
 青年は自嘲気味に小さく口元をゆがめて見せた。
「いやあ、君は随分愉しそうだなと思ってね」
「どういうこと?」
「音楽家の歌声やら、酔っぱらいのざわめきやら、そのママさんとやらの怒鳴り声やらが聞こえてくるようだよ。僕はこのところずっと家にこもって考えてた。寂しかった。苦しかった。君のことばっかりをずっと想い続けてたよ。朝から寝るまで。いいや、夢の中にも君は現れたな。でも、君はその間も音楽家の歌や口笛に拍手して、陽気に笑って、賑やかな酒場の中で僕のことなんかすっかり忘れていたんだろうな」
「そんなこと……」
「なんだか馬鹿みたいだ。僕はこのところずっと、何にも感じなかった。笑うことも忘れてたよ。風の音も、太陽の輝きも、何にも感じなかった。君も考えたって? そうだとしても昼間だけだろうね。僕はずっと考え続けて、悩み続けて、でも君はちょっぴり考えて、仕事中はすっかり忘れてたんだろうね。そうに違いない。もしかしたらその音楽家を尊敬して、気になり始めてるんじゃないかね? 君は僕を愛し、同時に尊敬したらしい。君の尊敬は愛情に変わるものなんじゃないか? そんなに音楽家のことを褒めるんだから、尊敬しているに違いないよね。なんだ、君が好きなのは僕じゃない、芸術家なんじゃないか?」
「ねえ、違うわ。そりゃ仕事中は夢中で働くからずっとぼーっとして考え込むわけにはいかないけど……」
「それ見ろ! 僕はね、それこそずーっと考えてたんだよ!」
「私だって忘れてたわけじゃないわ! それにあなたがいくら考えてた悩んでたなんて言ってもそれだって本当かどうかわかったもんじゃないわね! 私はお昼には家にいるのにあなたは今日まで顔なんか出さなかったじゃない!」
 こうなるとあとは同じ事が繰り返されるだけだった。互いに自分がいかに苦しみ、悩み、それに対して相手があまりにも気に留めていなかったに違いないと信じ込み、結局お互いを口汚く罵ったり、傷つけたりした。
「もううんざりだ!」
 今度は青年が叫んで、議論を打ち切った。
 同じようなやりとりがそれから後も幾度となく繰り返された。些細なことがきっかけで二人は猛烈な喧嘩をし、幾日かするとやっぱり忘れられない、愛しているといってはどちらからともなく歩み寄った。しかし、同じ事が繰り返されるうち、二人は次第に消耗し、疲れ果て、何事もないときの会話でさえ相手の反応に怯えながら言葉を選ぶようになった。
 お互いの顔を見ることはそれでも束の間の安らぎをもたらしはした。しかしその後にもたらされる疲労感はその幾倍も大きく、かつ、蓄積された。その意味ではもはや二人の関係は破綻していた。
 しかし、いつまで続くかわからないと思われた鬱々とした日々は、ある日突然の展開を見せた。


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