ちいさなわんこはお座りをして、しっぽを振り振り行き交う人たちをながめています。 もうすぐおかあさんがごはんを持って出て来る頃です。 わんこは立ち上がって伸びをしました。するとガラガラと戸の開く音がして、おかあさんがごはんのお碗と一緒に現れました。 こうしてちいさなわんこの一日は始まるのです。
わんこのおかあさんのおうちは駅への通り道に面しています。 そしてわんこの専用ハウスは、おうちの前の小さな庭に置いてあるのです。 わんこのおかあさんは働いているので、昼間はおうちにいません。 おかあさんはひとりでわんこを育てているのです。 おかあさんはわんこに朝ごはんをやると、お仕事に出掛けました。
わんこハウスの前の通り道では、今朝もたくさんの人たちが行き来しています。 そういう人たちを眺めるのが、わんこの毎朝のお仕事なのです。 その中の何人かと、わんこは顔なじみです。
朝早くにはタバコおじさんが通っていきます。 おじさんはいつもスーツ姿だけど、ネクタイは手に持っています。 そして口には常にタバコをくわえています。タバコの匂いでわんこには、おじさんが遠くにいる時から分かるのです。おじさんはわんこを見ると、タバコをくわえた口でニコッと笑いかけてくれます。その時にタバコの煙がふにゃっとゆれて、わんこはそれが面白くて不思議で楽しくて、それでおじさんが大好きなのです。
次にはきれいなおねえさんがやってきます。 おねえさんはいつも良い匂いがします。 おねえさんはわんこと目をあわせると、くちびるを少し動かして何かを言います。 そしてすぐ知らん顔をして、駅へさっそうと歩いて行くのです。
それから今度は男の子が来ます。男の子はサッカーボールを片手に持ち、もう片方の手には靴とくさいシャツをスーパーの袋に入れて持っています。そしてわんこの傍まで来ると、 袋を道端に放り出し、わんこをなでてくれるのです。 男の子はわんこにいろんなお話をします。サッカーの練習や、おうちの事や友だちの話なんかです。わんこは男の子の話相手になってじっと聞いています。ときどき話し込んで時間を忘れて、男の子は大慌てで駅の方へ走って行くことがあります。
そのあと、わんこは少しのあいだ休憩します。 やがて遠くからカチャカチャと車輪の回る音が聞こえてきました。 乳母車を押すおばあちゃんがやって来たのです。おばあちゃんの乳母車の車輪はほとんど錆びて、タイヤも薄くなっています。乳母車おばあちゃんは足が少し悪いようで、ちょっとだけ歩きにくそうです。おばあちゃんはいつも乳母車にいろんな物を乗せています。 それというのもおばあちゃんは、お買い物の代行をしているからなのです。 忙しい近所の人たちの注文を聞いて、代わりにお買い物をして、その手間賃をもらって自分のお買い物をするのです。 おばあちゃんはわんこの近くまで来るとやれやれと立ち止まり、乳母車につかまったまま背筋を伸ばしました。そしてわんこを見てニコニコしました。おばあちゃんはエプロンのポケットから飴玉を取り出し、わんこにくれました。わんこは喜んで食べました。 おばあちゃんから貰う飴玉はわんこの楽しみのひとつなのです。 おばあちゃんはしばらく目を細めてわんこを見ていました。そうしてまた乳母車を押して歩き出しました。
そんなわんこの楽しい毎日は続きます。
ある頃から、きれいなおねえさんは何かを考えながら歩いている事が多くなりました。 わんこを見る目もそれまでのキラッとした輝きはなく、ほわんとしたふうでした。 おねえさんは恋をしていたのです。そして色々思い悩んでいるのでした。 そんなある朝、おねえさんはわんこの目を見るのを忘れたまま通りすぎてしまいました。 わんこは慌てて「わんわん」と呼びかけました。おねえさんは、はっと気付いて戻ってきてくれ、わんこの目を見てちょっと照れくさそうに微笑みました。 おねえさんはその日を最後に、わんこハウスの前の道を通る事はありませんでした。
ある朝、サッカーの男の子はわんこの傍に来て、学校のマラソン大会の話をしました。 選考会で自分より足の遅い子が選手に選ばれたのです。男の子はサッカーをしているので走る事には自信があったのに納得できません。 「あの子のママは偉い役をしてるんだよ」 と男の子は悔しそうに言いました。わんこは悲しそうな目で男の子を見上げました。 男の子はわんこをぎゅっと抱きしめました。そしてふと気がついたようにわんこを見つめました。 「わんちゃん、お熱があるんじゃないの?」 男の子はわんこのからだ中をなでてみました。 やっぱりお熱があるようです。男の子はわんこをハウスの中に入れてやり、そこにあった毛布をかけてやりました。そして 「またくるからね。いい子で寝てるんだよ」 と言って駅へ向かいました。
次の日の朝、わんこはハウスの中の毛布を外に引っ張り出して、毛布のうえでからだを丸めて前の道を眺める事にしました。丸まっているとだんだん眠くなってきます。 でも前の道を眺めるのが、わんこの大事なお仕事なのです。しっかり目を開けていようとわんこは頑張りました。
小さな声で誰かがわんこを呼びました。わんこははっとして目をあけました。 やっぱり眠ってしまったようです。前の道でタバコおじさんが心配そうにわんこを見つめていました。わんこもおじさんを見つめました。
翌日も、わんこのお熱はとれませんでした。わんこはハウスの中から入り口に頭だけ出して、前の道を眺めていました。タバコおじさんは気遣うように立ち止まって、わんこを見つめていきます。
乳母車おばあちゃんはわんこにお熱があると知って、お買い物の後でまたわんこの所に来てくれました。おばあちゃんはわんこの為にミルクを哺乳瓶に入れて持って来てくれたのです。わんこはそのミルクを少し飲みました。それは熱っぽいからだにとてもおいしく感じられました。
男の子は翌朝早めにやって来ました。男の子は自分がわんこにいっぱい愚痴を言ったので、それが原因でわんこは病気になったのだろうかと考えました。だったら、 わんこの病気を自分にちょうだいと、何かに祈りたい気持ちでした。
次の日、わんこのおかあさんはお仕事を休んで、わんこを病院へ連れて行きました。 そしてわんこはそのまま入院しました。
初めての病院でわんこはひとりっきりです。 もう病院へ来てからどれだけ経つのか分かりません。 おかあさんが毎日病院へ来てくれるけれど、わんこは寂しくて仕方ありません。 それは、わんこの大事なお仕事が出来ないからです。 毎朝ハウスの前の通り道を眺めなければいけないのに。
病院で眠りながら、わんこは夢の中で大好きな人たちに会っていました。 その中には、きれいなおねえさんもいました。
夢の中で、おねえさんはわんこの目をいたずらっぽく見つめ、きれいなくちびるで何かを言って去って行きました。
次にはタバコおじさんが現れました。タバコおじさんのやさしそうな目と、ゆれる不思議な煙に、わんこはうれしくてじゃれつきたくなりました。
その次にはサッカーの男の子が現れて、いろんなお話をしながら、わんこをなでてくれました。
そしていつの間にかおばあちゃんも、わんこの前に現れていました。 おばあちゃんはニコニコしながらポケットから飴玉を取り出して、わんこにくれました。
わんこの夢はまだ続きます。 おかあさんがお碗にごはんを入れてくれました。
おかあさんの腕に抱かれて、おかあさんのあまい匂いの中で、 わんこは本当に満ち足りた気分で、永遠の眠りにつきました。
道路の前のわんこハウスは空き家のままです。ごはんのお碗もからのままハウスの横に置かれてちょっと汚れてきました。 そしてある朝、わんこのお碗に花が入れられてありました。白いちいさなお花たちです。 それはわんこのおかあさんが、永遠に旅立ったわんこの為に捧げたお花なのです。 いつものように通りがかったタバコおじさんはお花に気付いて、それまでくわえていたタバコを手に持ち、しばらくじっとそれを見つめていました。そうして俯きかげんに駅へと歩き出しました。けれどふと立ち止まって振り返り、わんこハウスを見つめて 「ありがとうね」 とちいさくつぶやきました。
それからしばらくして、男の子がやって来ました。男の子はお碗の花を見て首をかしげました。そして思い切ってわんこのおうちの人に聞いてみようと思いました。 家の中に声をかけると、奥の方からわんこのおかあさんが出てきてくれました。 おかあさんはお出掛けする所だったらしく、お出掛け袋を持っていました。 男の子は初対面のわんこのおかあさんにちょっと緊張しながら、聞いてみました。 「わんちゃんはどうしたのですか?」
見知らぬ男の子にそう聞かれて、わんこのおかあさんは男の子をしばらく見つめていました。そしてやさしくこう言いました。
「わんちゃんはね、病気が治って元気になったの。 でもいろんな人から愛されているので、あちこちから来てほしいと頼まれたのよ。 だからお出掛けしたの。ずっと遠い所だからもう戻ってこないのだけど、わんちゃんは みんなに感謝していたわ。離れてしまったけれど、わんちゃんとはずっとお友だちよね?」
男の子はわんちゃんが元気になったと聞いて安心しました。わんちゃんともう会えないと思うととっても寂しいけれど、でも、わんちゃんは誰かに頼まれてお出掛けしたのだから、がまんしなくっちゃと思いました。 男の子は、わんこのおかあさんを見つめて「うん」と頷きました。 おかあさんの微笑むやさしい目が、朝日に光って見えました。
お昼近くになって、おばあちゃんが来ました。おばあちゃんはわんこのお碗の花を見て、 ひとつ頷きながら小さくため息をつきました。そして手を伸ばしてハウスの屋根を撫でるようにそっと触れました。それから飴玉を取り出し、ハウスの中に置きました。 おばあちゃんはもうひとつため息をついて、そしてゆっくりと乳母車を押して、いつものようにどこかへ歩いていきました。
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