気持ち好いくらいに晴れ渡った空。スカイブルーというよりターコイズブルーに近い、夏の青い空だ。 飛行機雲が一筋。 風に乗って飛ぶ白い鳥。 いつもは気を苛立たせる蝉の鳴き声も、じっとりとした汗をかかせる暑さも、今日は赦せる気分だ。 「嘉月くん、今日は御機嫌だね。さてはデートだな」 朝の電車で、悟流に言われた。 「違うよ」 取り敢えず否定する。デートじゃないのは確かだ。 「まあまあ、試験も終わったし。いいんじゃねーの?」 顔に出るほど舞い上がっているつもりはなかった。昨日、詩緒からメールが来て嬉しかったのは事実だけれど。その後、学校で他の誰にも言われなかったのに。悟流、恐ろしい奴……。 部活後、いつもは三十分くらいみんなと喋りながら帰る仕度をするのだが、今日は急いで仕度した。もう五時半を回っていた。 腕時計をみると、もうすぐ電車が来る時間だった。遠くで警笛が鳴り始めた。ぼくは走り出した。近くの踏み切りの遮断機も下りる。 踏み切り手前の小道を右に曲がるとすぐ、市役所前の電停だ。丁度、電車が電停に止まるところだった。良かった。間に合った。ぼくは車内に駆け込んだ。 車内は今日も空いている。ぼくは降り口側の端が空いていたので、其処に座る事にした。 ブザーが鳴り、ドアが閉まる。電車がゆっくりと動き始めた。 交差点手前から走って来てため、額に少し汗をかいた。ぼくは額にはりついた前髪をかき上げた。 むかいの窓の景色を見ていると、ぼくの隣にほとんど間を空けずに誰かが座った。頻繁に電車を利用する人の中には、いつも自分が座る定位置というものがある。そういう人は、十分に席の余裕があるにもにも関わらず、自分の場所に座ろうとして他人のすぐ隣に座ったりするのだ。たまにこういう奴いるんだよなーと思いながら、厭そうな顔をして隣に目を遣る。 ……詩緒!? 隣に座っているのは、詩緒、だった。 詩緒は、ぼくの視線に気付いて振り向く。口角をきゅっとあげて微笑んでみせた。 「驚いた?」 「驚いた……。あれ? 詩緒、電停にいた?」 「いたよ。待合室の椅子に座って待ってたの。誰か走って来たなーと思ったら嘉月なんだもん。うん、あれは焦ったねー」 まさか電停にいたとは……。詩緒が電停にいる事を知っていれば走ってなんて行かなかったのに。自分が走って来るところを見られていたのだと思うと恥ずかしくなった。気にしない事にしよう。 「久しぶりだね」 「久しぶりだな」 「試験、何時終わったの? あたし、嘉月からのメール待ってたのに」 「俺からの?」 「そうだよ。試験終わったら連絡するって言ったじゃん。忘れてたの?」 「言ったけど……」 「何それ。言ったけど、言っただけってやつ? あたし、絶対、秦高も試験終わってるって思ってたんだよね。昨日、秦高にお兄ちゃんがいるコと話してたら、そのコのお兄ちゃんは試験終わったって言ってたそうだし。嘉月のヤツ〜!って感じだったよ」 「それは、ごめん。でも俺、詩緒が怒ってるものだと思ってたから」 「……怒ってたよ。でも、もう怒ってない」 電車は川にさしかかった。 「川の上を通ってると窓からの風が違って感じる。気持ちいいー」 詩緒は身体を後ろに捻って、窓からの風を顔に受けている。 「あ、そういえば、秦高って秋にマラソン大会があってさ、其処の川沿いを走るんだ」 ぼくはマラソンコースを指差す。詩緒はぼくが何処を指しているのか判っていないだろうけれど。 「マラソン大会があるの!? すっごーい!!」 「マラソン大会が終わって教室に戻るとカンロ飴貰えるんだよ。御褒美に」 「御褒美だって。可愛い! ね、去年何位だった?」 「教えない」 「あー、さては遅かったんだなー」 「運動部員をなめんなよ。上位には入ってるよ」 電車が川を通り過ぎたところで、詩緒は突然、停車ボタンを押した。 「お前、何で押してんの!? 降りる場所判ってる? 俺たちは駅前で……」 「それくらい知ってるってば」 電車がゆっくりと停車する。 「俺、知らない」 詩緒とは他人の振りをする。 詩緒がすくっと立ち上がった。 「降りよう嘉月! ほら、早く」 「はあ!? 何で!?」 「良いから!!」 詩緒はぼくの腕を引っ張った。仕方がないと思い、ぼくは詩緒に従う事にした。運転手に定期を見せ、「ありがとう」と言って電車から降りた。運転手に「ありがとう」と言って降りるのは秦高の生徒のマナーで、先輩が定期を見せ「ありがとう」と言って降りて行くのを見て、新入生もそうするようになる。先輩から受け継がれる伝統のようなものだろう。 「……っとに、何考えてんだよお前は」 定期をヒップバッグにしまいながら言った。 詩緒は財布を鞄にしまう。 「だって、嘉月とさっきのところ、歩いてみたかったんだもん」 無邪気に言われ、一気に疲れが出たような気がした。本当にコイツは何を考えているんだろう……。 「さ、行こ!」 詩緒はそう言ってぼくの尻をばしっと叩いた。 「今のセクハラだからな」 「違うもーん」 詩緒はぼくを無視してどんどん先に進んでいく。
「向こうにヨットが見えるね」 「ああ、ヨット部が練習してるのかな」 「ヨット部があるの?」 「海が近いからね」 へえー、と詩緒は眩しそうに海を眺めた。 川沿いの風は涼しくて気持ちが好い。 水面に反射される光が眩しく感じる。 ぼくたちは、車道と少し離れた川沿いの砂利道をゆっくり歩いた。 「其処に座って休もっか」 詩緒は、道から逸れて雑草が繁茂している緩やかな坂を下って行き、少し進んだところで腰を下ろした。そして、道に立っているぼくを振り返り、自分の横の地面を叩いてぼくが其処に座るように促した。 「虫に刺されても知らないからな」 詩緒の制服の短いスカートからは、彼女の白く細い脚がすらりと伸びている。 ぼくは詩緒の隣に腰を下ろした。 彼女の長い髪がなびいて、時々ぼくの頬をくすぐった。 しばらく川の流れを見ていたが、詩緒が話し始めた。 「この前は、ごめん。言い過ぎたと思う。反省してる」 「否、いいよ。詩緒の言ってる事もあってるし。彼女の事は、利用してるつもりはなかったけど、突き詰めて考えるとそれに近いような気もするから……」 「それに近い? どういう事?」 「……まあ、うん」 「話したくない?」 「そんな事はないけど、……苦痛かも知れない」 「うん、解る」 「なんて言ったら……」 詩緒は解ってくれるだろうか。 ぼくの思っている事をそのまま話したとしても、詩緒は理解を示してくれるだろうか。
でも、所詮、他人なんだ。 どうせ、ぼくの気持ちなんて解りやしない。 詩緒はぼくじゃない。ぼくの気持ちはぼくしか解らない。
……違う。そうじゃない。 ぼくは怖い。 他人に本当の気持ちを知られるのが怖い。
苦しい。痛い。悲しい。淋しい。 厭だ。もう沢山だ。 嫌われたくない。傷付きたくない。 ぼくは弱い。強くなりたかった。何があっても平気な顔をしていたかった。 弱い気持ちを胸のずっと奥深くに閉じ込めて。 ぼくはそれに気付かない振りを。 独りでも平気な振りを。 自分を護るために他人との距離を置く。 誰も侵入させない。 虚飾に虚飾を重ねて。 自分を偽る。 表面上に創られたぼくは傷付かない。 でも、やっぱり駄目だった。 独りじゃ駄目だった。 誰かに助けて欲しかった。慰めて欲しかった。傍にいて欲しかった。 変わらないものが欲しかった。 ぼくを裏切らない確かなもの。 臆病なぼくは自分からは求める事が出来ない。 誰か、誰か、誰か……。
ぼくをひとりにしないで。ずっとぼくのそばにいて。
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