ガタンガタン、ガタンガタン…… 青い海。 煌く水面。 ぼくの身体は、静かにゆっくりと沈んでいく。 深く深く、太陽の光が届かない深い海の底へ……。 ガタンガタン、ガタンガタン……。 音が聞こえる。気にしない。 闇の中に吸い込まれていくこの感覚。 ぼくは、このまま意識を失って行くのだ。 ガタンガタン、ガタンガタン……。 キキィィーッ! 吃驚して辺りを見回す。電車が赤信号で停車したようだった。商店街が見える。もうすぐ終点だ。 どうやらぼくは、眠りに落ちるところだったらしい。この電車の揺れが、部活後の疲労した身体を眠りの世界へと誘(いざな)うのだ。 深呼吸する。身体が熱い。まだぼんやりしている。
「眠そう」 詩緒の声が聞こえてぼくは顔を上げた。 「本当に眠そうなんだけど」 ロビーにいる事をメールで知らせソファで休んでいた。詩緒が目前に立っていても声を掛けられるまで気付かなかったなんて、ぼくの眠気は本物だ。 「今此処で横になったら、俺、寝るかも知れない」 「あ、嘉月の寝顔見たーい! 寝て寝て! 見てるから!」 「寝ません。さ、行こ」 ぼくはソファから立って歩き出した。詩緒が駆け寄ってくる。 「えー? いいじゃん。減るものじゃないんだから」 「詩緒に見られたら減るんだよ」 「何が? 何が減るのかな?」 「……俺の美貌」 「ふううーん。そうなんだあー。それはそれは大変だねー。ね、それ、あたしの顔真正面から見て、もう一回言ってみて?」 「言わない」 「えー。何でよぉー」 もう眠気は去っていた。 車通りの少ない道。街灯がぼんやりと辺りを照らす。詩緒とこの道を通るのは、今日で何回目だろう。 「もうすぐ期末だね」 「ああ、そうだな」 「嘉月はいつも家で勉強してるの?」 「否、俺は学校の自習室。試験前でもあまり混まないんだ」 「あたしは図書館かな。……やっぱり、試験終わるまで、会うのは控えた方が良いかな?」 「そっちの方がお互いにとって良いと思うけど」 「じゃあ、明日からしばらく……」 「うん。そうだな。試験が終わったらメールでもするよ」 「了解」 鞄に入っている携帯電話のヴァイブがなった。携帯電話を取り出して届いたメールを見る。 サワコさんからのメールだった。 「もしかして彼女から? 前に駅で会った……」 詩緒が訊いた。 「……ああ」 「何て?」 「……会いたいって」 「嘉月は彼女に会いたい?」 「会いたい時もあった」 「今は?」 「思わない」 「それ、本当に付き合ってるの?」 「付き合ってるんだよ」 「じゃあ、訊く。嘉月は彼女の事、本当に好きなの?」 悟流と同じ事を訊く。何でそんな事を訊かれなくちゃいけないんだ? ぼくは悟流のときと同じように返す。 「好きだよ」 「どういう意味で?」 「どういう意味って、どういう意味?」 詩緒と向き合う。 「友達として? 恋人として? ちゃんと答えて」 何故そこまで問い詰めるのか解らなかった。詩緒はぼくから目を離さない。 「……どちらかといえば、前者だよ」 「それでも付き合ってるんだ」 「そうだよ。悪いの?」 「悪いなんて言ってないよ。じゃあ、嘉月はそれで善いって思ってるの!? 彼女に失礼だとか思わないの!?」 「思わないよ。相手も納得してるんじゃないの? こういう付き合いが厭なんだったら、向こうから別れようって言ってくるだろ」 「最低だね。利用してるんだ」 「利用!?」 「だって、そうじゃない!? 自分が淋しい時や会いたい時にだけ会うんでしょ!? でも、彼女が会いたいときは何か理由を付けて会わないんだ。それじゃ、彼女、嘉月にとって只の都合の好い女なだけじゃん!」 「じゃあ……、じゃあ、自分はどうなんだよ。彼女がいる男と一緒に帰ってるじゃないかよ」 「それは……、最初は知らなかったんだもん」 「最初は、だろ。今は? 今はどうなんだよ」 「……帰る!」 詩緒はぼくを睨んで自転車に乗って行ってしまった。 勝手過ぎると思った。何故ぼくばかりが責められなければならないんだ? ぼくが訊くと怒って帰る始末だ。腹が立った。 ぼくがその場で苛々していると、携帯電話のヴァイブがなった。今度はメールじゃなくて電話だ。 「はい。ああ、……うん。……そんな事ないよ。うん。大丈夫、行くよ。うん、うん、……解った。じゃ」 電話を切って、ぼくはいつもとは別の方向に歩き出した。
「いらっしゃい」 ドアが開いて、サワコさんが笑顔で迎えてくれた。キャミソールの上にノースリーブを重ね着して涼しげな格好だ。毎日、周りにいるのは制服を着ている高校生ばかりなので、こういう私服を見ると凄く新鮮な感じがする。 「上がって」 「お邪魔します」 「飲み物何する? 外暑かったでしょ。冷たいものの方がいいわよね」 「うん。冷たいものがいい」 サワコさんが冷蔵庫を開ける。 「ああ、麦茶とビールしかないわ。麦茶でいい? 他のものがいいんなら、近くのコンビニで買ってくるけど」 「麦茶でいいよ」 ぼくは鞄を床に置いて、オリーブグリーン色のソファに座った。 詩緒に言われた事が頭の中で反響する。 『最低だね。利用してるんだ』 利用……。 自分が会いたいときにしか会わないって詩緒は言ったけど、ぼくはサワコさんが会いたいって言うときは、ちゃんとそれに応えていたし、ぼくがサワコさんに「会いたくない」という状況はほとんどなかった。今まで付き合ったコたちにも、ぼくはそれなりに応えていた筈なのだ。それが、「彼女」に対して、という意味での気持ちがこもっていなかったとしても。 「彼女」への気持ちがない……。 テーブルの上にある郵便物に気付いた。何気なく、ぼくはそれを手に取る。化粧品のダイレクトメールのようだ。 生嶋 幸和子 様 「生嶋……幸(さ)、和(わ)、子(こ)、なんだ……」 「はい、お待たせ。喉渇いてるでしょう?」 サワコさんが麦茶を盆に載せ、運んできてくれた。木のコースターの上にグラスを置く。グラスの中の氷がカラカラ鳴った。 「サワコさんの名前、こういう字なんだね」 ぼくはダイレクトメールを見せた。 「そうなの。一瞬、どう読めばいいか戸惑うでしょ? みんな、サワコのサは人偏に左って思うみたいだから、漢字見て驚くのよねー」 サワコさんがぼくの隣に腰を下ろす。「ダイレクトメールなんて要らないのに」と、不満そうにぼくの手からダイレクトメールを引き抜いた。 ぼくは麦茶を飲んだ。冷たい液体がすうっと喉を通って行った。 「嘉月、会いたかったわ……」 サワコさんのひんやりとした手がぼくの頬に触れる。 「部活、忙しかったの?」 「まあね」 「本当かしら」 彼女はぼくの手からグラスを取り、テーブルの上へ置いた。 彼女の細い腕がぼくの首に絡む。彼女の鎖骨が綺麗に浮き出ている。 彼女は目を閉じた。マスカラをたっぷりとつけた長い睫毛が頬に陰を落とす。 ピンク色のふっくらとした艶やかな唇。 彼女との距離が縮まっていく。 仕方がないと思った。 ぼくは目を閉じ、そして…… 顔を逸らして目を開ける。 「あのさ、話があるんだけど……」
詩緒とはあれから連絡がない。 実はメールが来ているんじゃないかと思って毎日センターに問い合わせるが、新しいメールは届いていない。ぼくは一日に何度も携帯電話を確認するようになっていた。今は試験期間中だから、メールしないようにしているのだろう。ぼくからは、メールをする気になれなかった。
試験最終日、最後の試験科目の数Uが終わった。 「嘉月、試験どお?」 悟流が含みのある笑みを浮かべて近付いてきた。 「今回の数Uは、絶対平均点高いって思った」 「俺、一回見直して寝た」 「俺は一応二回見直したけど。満点取る奴、結構出そうだよな」 「でもさ、最後の問題、ちょっと捻ってあっただろ。あれって、OQの距離は一定だからPからの最大値を求めて……」 「答え忘れたけど、ルートで出たよな?」 「√5? 多分、最後は正答率低いよ。満点なんて、俺一人かも」 「悟流は絶対何処かケアレスミスしてるよ。前回も見直したって言っておきながら、仕様もない計算間違えてただろ。お前はそういう奴なんだよ」 「今回はいける!」 「どうだか……」 悟流とは今まで通りで何も変わらない。悟流とお好み焼きを一緒に食べた夜の次の日も。ぼくは少し気まずさを感じてはいたが、悟流は至って普通だった。眠そうな顔をして電車に乗って来て「はよー」とぼくに挨拶し、ぼくの隣にどかっと座る。そして、眠そうな声でぼそぼそと古城公園の白鳥の話をし始めた。ぼくは脱力した。何処からそんな話が出てくるのか可笑しかった。思わず笑ってしまった。悟流は怪訝な顔でぼくを見たが、すぐに話を再開した。小学生のときに悟流と喧嘩した次の日も、悟流は、ぼくが気まずい思いをしているにも関らず、前日の事など何もなかったかのように接してくれた。そして、然り気なく「昨日はごめん」と謝る。ぼくは、悟流のそういうところに、随分救われていると思う。 HR終了後、悟流がぼくのところへ来た。 「今日から部活だろ?」 「ああ、一時半から」 「炎天下での部活、うん、青春だよな。眩しいよ嘉月くん。俺は家の中でクーラーつけて堕落生活するけど。ま、部活頑張れよ。じゃーなー」 「じゃあな」 悟流と入れ替わりで丸山と能登が教室に入って来た。 「お前のクラス、HR長ぇーんだよッ!」 試験が終わったからだろうか、丸山の声がいつもよりでかく、はしゃいでいるように聞こえた。 「俺に言うなよな。担任に言ってくれる?」 「お昼、学食で食べようかって丸山と話してたんだ。試験も終わったから空いているだろうと思って。嘉月も行くだろ? それともお昼、もう買った?」 「否、これから買いに行くつもりだったんだ。いいよ。俺も久しぶりに学食で食べたいし」 ぼくは黒のヒップバッグから財布を取り出した。 「今日のB定、豚カツなんだよな! でも、カレーうどんも捨てがたいんだよなー……」 「両方頼めば?」 「あ、いい事思いついた! 嘉月がカレーうどん頼んで、俺がB定頼むんだよ。で、俺が嘉月のカレーうどんをがばっと分けてもらえばいいんだよ!」 「全然いい事じゃないから、それ」 隣で能登が「いいねそれ」と、くつくつ笑う。 前校舎の三階の廊下からは、遠くに太陽の光で煌く深緑の日本海が見える。上空の雲は、カップに山盛りにしたポップコーンみたいにむくむくしていた。窓から入る風は、微かに潮の香りがした。 試験は今日で終わった。詩緒も終わっている頃だと思う。
試験最終日から三日経つ。詩緒からの連絡はない。 ぼくは自分の部屋でDVDを観ていた。アメリカのシリーズもののドラマだ。気を紛らわすために、昨日、試しに「T」を借りて観たのだが、期待以上に面白くて、あっという間に物語に引き込まれてしまった。一度観ると止まらなくなる、という噂は聞いていたが、本当だった。続きが気になって仕方がなかったため、今日、帰宅してすぐ次の回を借りに行ったのだ。 DVDを観ている途中、玄関で物音がした。母が帰宅したようだった。ぼくは特に気にせず、そのままDVDを観続けた。 ガシャン。 グラスか皿かが割れる音がした。ぼくはすぐにDVDを停止して、様子を見に行く。 「どうしたの?」 ダイニングキッチンへ行くと、母がシンクの前に立っていた。ぼくを虚ろな目で見る。すぐに酔っているのだと判った。 「ああ……、ごめんなさい。何でもないの。只……、只、水を飲もうとして、コップを滑らせただけで……」 母は屈んで、割れたコップの破片を拾おうとする。 「俺がやるから良いよ。其処で座って休んでて」 危なっかしくて見ていられなかった。母の傍に行くと、濃厚な香水の匂いがした。 「ごめんなさい」 「別にいいよ」 ぼくはちりとりと箒を持ってきて、割れたコップを片付ける。 「ごめんなさい」 母が繰り返した。頭痛がした。 「はい、水」 母と向かい合わせでダイニングテーブルの席に着く。 母はコップの水を飲み干した。 「大丈夫?」 「ええ、ごめんなさい」 「飲み過ぎだよ」 「ええ、そうね。ごめんなさい」 謝ってばかりだ。それがぼくを苛立たせる。思わず言ってしまった。 「どうせ男と飲んでたんだろ。調子に乗って飲むからだよ」 「何言ってるの? お母さんには嘉月がいるじゃないの。男の人とだなんて……。会社の友達と久しぶりに飲んでただけなのよ?」 母は、虚ろな目を細めてにっこりと微笑んだ。 ねっとりと絡みつくような笑顔。 激しく頭痛。 駄目だ。もう限界だ。 「……いい加減にしろよ!」 ぼくは席を立つ。母の目が見開かれる。 「俺が知らないとでも思ってんの? 母さんがいつも家に居ないのは、仕事が忙しいからだって? 俺、もう高二なんだよ。いつまでも何も知らない子供のままじゃないんだよ!」 「か、嘉月?」 「見たんだ。中一のとき、母さんが男と居るところ、見てるんだよ俺。それなりにショックだったけど、やっぱりって思った。その前から、小学生のときから、そういうのは解ってたんだよ!」 母は狼狽した。視線をあちこちに移して一点に集中しない。 「だって……、だって仕方がないじゃないのよ!」 小さい子供が言い訳するような口調だった。 「私だって、一生懸命やってきたのよ!? 離婚した事で貴方に不自由な思いをさせたくなかった。だから、必死に働いて頑張ったのよ! でも……、でも本当は、凄く辛くて心細かった。ずっと誰かに頼りたかった」 母はテーブルに両肘をついて頭を抱えた。母が離婚後必死に頑張っているのは、幼かったぼくの目から見ても解った。離婚後も名字が「早良」のままであるのはぼくの為。母は、ぼくが突然母の旧姓になる事により、周りから好奇の目で見られる事を恐れていたようだった。別に離婚自体は珍しいことでもないのに。 母は、それから少し間をおいて顔を上げ、壁の向こう側を見ているような目をして話を続けた。ぼくは、そのまま母の話を黙って聞いた。 「そんな時にね、会社の男の人に誘われて気晴らしに飲みに行ったの。楽しかった。その人、そこまで張り詰めて頑張る必要はないんだって言ってくれたわ。凄く嬉しかった。優しくされて、それまで必死に耐えてきたものが、一瞬で全部崩れて行ってしまった……。私、ずっと誰かに甘えたかった。優しくされたかった……」 母の頬を涙が一筋伝う。 ぼくの目の前にいる母は、「母」という肩書きがない、只の女に見えた。 「……その人とは今も?」 ぼくが訊くと母は苦笑した。 「とっくに終わってるわ。淋しさを埋めるために別の男(ひと)と付き合って別れて、また別の男と付き合って別れて……。その繰り返しよ。男と別れて家に帰ると貴方がいて、その度にやっぱり私には貴方しかいないと思うの。でも、私には誰かの支えがないと駄目だった。誰かに甘えたかった。家に貴方を一人残して男の人と会うのは、最初は凄く罪悪感があったわ。でも、貴方、凄く物分りが良いんだもの。私が少しくらいいなくったって、この子なら大丈夫だって思ってしまったの。二、三日全然顔を見ない日があっても、貴方、平気な顔してた。母親としては淋しかったけど、何処かでほっとしてたの。私は、もっと自分の事を考えても良いんだって思えたから。罪滅ぼしのために夕飯だけはちゃんと作ろうって思ってたけど、それも必要なくなって……。駄目な母親だわ。駄目な親を持つと、子供ってしっかりするものなのかしらね。本当、駄目な母親なの……。ごめんなさい。ごめんなさい……」 母は顔を両手で覆って、「ごめんなさい」を何度も呟いた。 多分、今日、男と別れてきたのだろう。 母もずっと淋しかった。ぼくと同じように。 母は淋しさに耐えられなかった。独りでいられなかった。誰かに頼りたかった。 母は弱かったんだ……。 じゃあ、ぼくは……? ぼくは静かにその場を離れた。ドアを開ける音に気付いて母が顔を上げる。目と鼻が赤くなっていた。 「何処に行くの?」 「自分の部屋に戻るだけだよ。大丈夫だよ。俺の家は此処だから、出掛けてもちゃんと此処に帰ってくるし」 母はそれを聞いて安心したようだった。強張った表情が緩む。 「……母さんにもいい人がきっと現れるよ。父さんが再婚するくらいなんだし」 「嘉月」 ぼくが部屋から出ようとすると母が呼び止めた。 「何?」 「私にとって一番大切な人は、貴方なのよ。嘉月」 「……うん、解ってるよ」 母は何も言わず微笑んだ。ねっとりと絡みつくような笑顔じゃなくて、清々しい笑顔だと思った。 自分の部屋に戻って、静かにドアを閉める。 しばらく何もする気になれなかった。 ぼくは、じゃあ、ぼくは……。 携帯電話のメール着信音が鳴る。
S〔詩緒です〕 久しぶり。試験終わってる? 明日、部活あるよね? 部活あるなら何時頃終わるか教えて下さい! でわでわー☆彡
ぼくはそれに返信する。
S〔嘉月です〕 久しぶり。試験は終わってる。 明日の部活は六時くらいに終わると思う。
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